4話 人は温かいから人
「いらっしゃいませー!」
店内に一際明るい声が響く。
怪我から復帰した『彼女』がコンビニでのアルバイトを始めて三日目、彼女が及ぼす影響は確実に広まりつつあった。その間最も近い場所に居た僕も、ヒシヒシと迫り来る実感に押し潰されつつある。
簡潔に言えばこうだ。
やべぇ、失敗した!
彼女――氷影つららの熱意は本物だ。それは疑う余地もない。だからこそオーナーに進言してまで『彼女の回復を待つ』ことにしたのだ。あの時にそう判断したこと、深夜組の助力を借りてでも何とかシフトを確保したこと、それらに対する後悔はない。そして事実、彼女は楽しそうに嬉しそうに仕事をしている。ここだけを見れば大変結構なお話だ。
しかし、しかしである。
人には――彼女は雪女ではあるものの、いずれにしても向き不向きというものはある。熱意だけではどうにもならないことも、残念ながら世の中には山ほど存在するのである。そして事実、彼女には熱意しかなかった。雪女なのに熱いだけだった。
人間、苦手なものの一つくらいはあっても驚かないものだが、得意なものが見当たらないというのは、ある意味清々しくもある。ただ救いと言えるかどうかは微妙だが、どんな失敗をしても、上手くいかなくても、彼女の笑顔が曇ることだけはなかった。
「あちらのレジでどうぞー」
どうやって嗅ぎ付けたのか、三人並んだことを察知した彼女が笑顔で現れる。トイレ掃除をしながら、客の動きを監視していたのかもしれない。もちろん、そんな余裕があるならチャッチャとトイレ掃除を終わらせて欲しいものである。
とはいえ、三人並んだらもう片方のレジを開けるというのはマニュアル通りだ。文句を並べる筋合いはない。こちらとしては、速攻で片付けて彼女の裏方業務を邪魔しないようにと心掛けているので、よほど手間の掛かる場合でもなければ彼女を呼ぶことはないと考えていた。
というより、あらゆる業務の中でも絶対に向いてないと思えるレジ接客をさせたくないというのが本音だ。下手をすると、余計な手間が増えることになりかねない。事実、初日はそのせいで向こうのレジが一時使えなくなっている。
「お弁当、温めますか?」
内心かなりヒヤヒヤしつつも、任せる以外に選択肢はなく、声だけに耳を傾けるしかない。
「いや、結構です」
「そうですか……」
残念そうだ。温めたかったのだろう。彼女のショボーンが目に浮かぶようだ。客人もいたたまれまい。
「じゃあ、こちらのアイスは冷やしますか?」
『新業務っ!?』
僕と客人のツッコミが完全に被る。正面と右側から同時に突っ込まれた彼女は、やけに不思議そうな顔でキョロキョロと周囲に視線を走らせている。どうやら、自分が奇妙な発言をしたという自覚はなさそうだった。
「ありがとうございましたー」
穏やかな笑顔と共に頭を丁寧に下げる彼女は、こうして見るとコンビニ店員の鏡のようにも見える。そこには誠意があり、マニュアルには記載されていない気持ちがこもっている。ツッコミを入れた客も、妙にニコニコしながら店を後にした。こういった一連の流れを見ていると、レジ業務を一番好きだという彼女の言葉が、真意なのだろうと感じる。
おそらくは、空回りなのだろうと思う。彼女が失敗する時というのは、大抵の場合において熱意が働いている時であることが多いように感じるのは、偶然ではないだろう。
「先輩センパイ!」
容器の洗浄が終わり、おでんの準備を開始しながら彼女に関する分析を内心で行っていたところへ、モップを引きずりながら彼女が現れた。少しばかり絞りが甘くて床がテカテカして見えるが、そこはあえて突っ込むまい。それよりも、彼女の表情が異様なほど真剣なのが気に掛かる。
おかしなトラブルでも抱えてきたんじゃないといいが。
ちなみに彼女は僕を『先輩』と呼ぶ。理由はよくわからないが、誰かをそう呼んでみたかったということらしい。別に拒絶する理由もないので、そのままにしている。
「どうかした?」
「ウチのお店に『○姫』という雑誌はありますか?」
「桃○?」
嫌な予感がした。
「あちらに居るおばあさんが、桃姫という雑誌を探しているそうなんですけど、私にはどんな雑誌なのかわからなくて……名前から察するに、果物情報誌とかですかね?」
そんなコアでニッチな雑誌はコンビニで扱ってません。
ともかく、このまま放置しておくと惨事に発展しそうな予感がしたので、僕も一緒に話を伺うことにした。幸いと言うべきなのか、他に客の姿はない。あるいは、惨事を予感して逃げたのかもしれない。アレだ。大惨事が起こる直前に森から鳥達が離れていくような、あの感じである。
「あの、雑誌をお探しとか?」
「はい、息子に頼まれましてね。でも漫画なんて読まないものですから、サッパリわからなくて」
「タイトルは間違いないんですか?」
「桃姫と言えばわかると、息子は言っとりました」
見るからに人の良さそうなおばあさんだ。息子というのは間違いなくいい歳こいたオッサンニートだろう。
「コンビニで買うよう言われました?」
「いえ、近くだったもので来てみたんですが」
「そうですか。すいませんが、お探しの雑誌はウチでは扱ってないんですよ。ちょっと先に行った所にある本屋さんなら、きっと置いてあると思います」
コンビニに寄越すなら、せめてペン○ンクラブにしとけ。
というか、エロ雑誌くらい自分で買いに行けアホニート。
「そうですか。わざわざすいません」
「いえいえ、またどうぞ」
とりあえず路頭に迷う事態が回避されて安堵したのだろう。おばあさんは笑顔でコンビニを後にした。
「……で、君は何を一生懸命見ているんだね?」
僕とおばあさんが建設的なやり取りをする横で、彼女は雑誌を読み耽っていた。
「ちょちょちょ、センパイッ!」
「だから何?」
「これっ、とんでもない雑誌ですよ。裸とか裸とか裸とか、そんなのばっかりですっ!」
「まぁ、そういう雑誌だし」
「こんな雑誌を置くくらいなら、おばあさんの探してる桃姫を置いてあげるべきじゃないですか?」
どうやら桃姫は果物情報誌で確定したようである。
ちなみに彼女の提案は、事態の好転どころか悪化を生む可能性が高い。
「その提案は却下するとして、どうしてそんな裸雑誌読んでるの?」
「だって、どの本がどんな内容なのかわからないと、聞かれても答えられないじゃないですか。たった今、私はそんな重要なことに気付いたんです!」
今から雑誌コーナーの書物を一つ残らず読むつもりなのだろうか、この雪女は。
いや、読むつもりなのだろう。放って置いたら確実にそうなる。
「そんな必要ないない。そういうのは事務所の端末で調べればわかるようになってるの」
「でも、先輩はスラスラ答えてたじゃないですか」
「それは……偶然だ」
偶然、その雑誌を知っていたに過ぎない。ホントだよ。購読とかしてないよ。
「とにかく、今の君の仕事は?」
「雑誌を読むことでありますっ!」
「違うっ。モップ掛けでしょ」
一つのことを始めるとそれ以外のことを忘れるのも、彼女の悪い癖だ。
「あ、確かにそうです。凄いですね、先輩。どうしてわかるんですか? ひょっとして私のこと、常に監視とかしてるんですか?」
「ストーカーみたいに言うな!」
とはいえ、色々と気になって目を離せないのは事実だ。このままでは神経が磨り減って、倒れるか禿げるかするのは時間の問題と言えるだろう。
だがしかし、そんな彼女にも安心して任せられる業務は存在する。
それが、この時間のシフト最後の業務、ドリンク補充である。客人との接触もなく、元々冷えている場所なので彼女の特異体質が影響することもない。まだまだ不慣れなので時間は掛かるし、間違いがあったりする程度ならご愛嬌だ。店内が平穏であるというだけで、相方の僕としては大変ありがたい時間帯である。そして、その業務を終えたらバイトの時間もあと少し、カウントダウン的な意味でも気持ちが軽くなる。
そう思うと、自然と表情も和らぐというものだ。
「いらっしゃいま――」
レジにペットボトルを置いたサラリーマン風の男性客を見るなり、僕は凍り付いた。いや、実際には客人の方が凍り付いていた。顔の半分が白い塊に覆われている。突然の吹雪にやられたような風貌である。というか、事実そうなのだろう。
もしやと思ってペットボトルを手にして確信する。
ウーロン茶は、完全に凍結していた。
「……あの、大丈夫ですか?」
「え? あぁ、ちょっと冷たかったけど」
良い人で良かった。
「すいません。中の妖精にはキッチリ言っておきますんで」
偶然通りかかった来客は別にして、この近所に暮らしている人達にとっては雪女が働いているという事実は誰もが知る程度のことらしい。彼女の起こすハプニングに対して大きなクレームが飛んでこないのは、単に周囲の理解があるというだけの話だ。
むろん、だからと言ってトラブルを起こして放置というワケにもいかない。
「くぉらっ!」
客がレジ前に居ない隙を見計らってドリンクコーナーへと歩み寄ると、力任せに引っ張り開ける。
途端に、奇妙な不協和音を伴ってブリザードに襲われた。このまま佇んでいたら確実に凍死するであろうレベルの吹雪だ。しかもその寒風は、明らかにドリンクの向こう側から溢れてきている。
「ちょっと、氷影さんっ?」
「はい?」
返事と同時に不協和音が止まる。どうやら歌でも口ずさんでいたらしい。
「冷蔵庫で吹雪起こすの禁止!」
「吹雪なんて起こしてないですけど?」
「じゃあ歌うの禁止っ!」
「酷いですっ。ドリンクを手に取ってくれるお客様に和やかなメロディを提供してただけじゃないですかー!」
残念ながら提供されていたのは寒い不協和音だけでした。
「とにかく、君が歌うとドリンクが凍っちゃうの。ここは冷凍庫じゃなくて冷蔵庫、凍ったらマズいんだからね!」
「……はーい」
渋々ながら了解したらしい。向こう側が暗いので表情までは見えないが、落胆していることは声を聞いただけでもわかる。少し可哀想な気もするが、下手に許して缶やペットボトルが破裂でもしたら大惨事だ。この処置は的確だろう。
「すいませーん。レジお願いしまーす!」
「はーい、今行きます!」
吹雪が沈静化したことを確認して扉を閉じると、白く染まった頭を払いながらレジへと戻った。
本当に、彼女と組むのは大変だ。
それがこの先続くのかと思うだけで、寒気がした。
仕事上がり、バックヤードで頭を下げられる。
「今まで、お世話になりました」
そんな言葉が彼女の口から飛び出したのは、二月も半ばに入った頃のことだった。まだまだ極寒の日々が続く雪国に、春の訪れは遠い。しかし確実に、季節の移り変わりは流れているようだった。ただ僕が、そのことを知らない無知な人間だったというだけの話だ。
「え、まさか、今日で最後?」
大変な毎日を繰り返し、ようやく少しずつ慣れてきたかなと思えた矢先の言葉に、僕は不覚にもうろたえてしまった。雪女という存在である以上、春の訪れと共に居なくなることは覚悟していた。しかしそれでも、雪が世の中を覆っている内は、居てくれるものだと勝手に思っていたのだ。怪我があったから、彼女の実働日数は三週間にも満たない。
「すいません。もっと早く言うべきだったんですけど、もう少し出来そうって思っている内に、限界が来ちゃって」
「限界?」
「立春を過ぎたら、雪女は去らないといけないんですよ。でも、仕事が楽しくて、ついついもう少しって思っちゃって」
「そう、なんだ……」
立春と言えば節分の日だ。そこから数えれば、もう十日くらい過ぎている。彼女なりに無理をしたのだろう。普段の様子を見れば、そのくらいはわかる。
「そういうことは、もう少し早く言ってくれよ。こっちだって、いきなり居なくなったらシフトが混乱するんだしさ」
「あ、ごめんなさい……」
淋しそうな顔で、彼女は謝る。
僕は自分に苛立っていた。シフトなんてどうでも良かった。そんなことを言いたいんじゃない。ただ、何というか、無性に残念だったのだ。
「でも事前に言ったら、きっと先輩は気を遣ってちゃんと叱ってくれないかなと思って。私、やっぱり仕事はキチンとしたかったから」
あれだけ多大な迷惑を掛けておいてこの台詞も滑稽な話だが、その気持ちに偽りがないことはわかる。良くも悪くも、真っ直ぐな娘なんだ。
「見くびるなよ。僕は最後だって叱るぞ?」
「あ、はい……」
「それに今年は最後でも、来年には役に立つだろうし」
「え?」
「来年、またバイトしないの?」
それは余程意外な言葉だったのか、彼女は信じられないものでも見たかのように唖然としていた。妖怪の類に驚かれるとか、明らかに立場が逆である。
「……し、します。したいです!」
「じゃあそれでいいじゃないか。来年は怪我なんてしないで、しっかり働いてくれよ?」
「はい、はいっ!」
力強い返事と共に、頬を何かが流れ落ちる。それが彼女の涙だと気付くのに、まばたきを数回する程度の時間を要した。
「え、何で!?」
「嬉しいからですよ、先輩っ。今の言葉、痺れました。お礼に、アイスでも奢っちゃいますよ!」
「こんな真冬にアイスかよっ。つーか、今日で終わりなんだから、こっちが奢るよ」
「私が奢りたいんですっ」
「いや、僕が奢る。来年返してくれればいいよ。初めてのバイト代なんだろ。もっと有意義に使いなって」
「来年……わかりました。今日は奢られます」
何かを刻み込むように何度も頷きながら、彼女は納得した。
そして店内へと踏み出した僕は、その足でアイスを購入する。ハー○ンダッツにしたのは、ささやかな見栄だ。店内では食べられないので、駐車場の片隅で食べた。
寒いし冷たいし暗かった。
でも同時に、温かくて美味しかった。
何より、彼女の笑顔は眩しかった。
夏の日、僕は仕事を終えてアイスを買う。
銘柄はいつも決まっている。ハーゲ○ダッツのバニラだ。それ以外は買わない。
「倉本君ってさぁ」
「はい?」
「時々そのアイス買ってくよね。好きなの?」
「ええ、美味しいですから」
不思議そうな顔をしている安達さんを見送りながら、アイスだけを片手に家路と向かった。
「……もっと安いアイスにしとけば良かったな」
少し後悔する。人間、見栄なんて張っても良いことはない。
アイスは確かに好きだ。でも、それだけじゃない。
今日も僕は、冬の訪れを待っている。
あのコンビニで働きながら。
この企画の作品としては、少し長かったですね。
個人的にはもう少しまとめたかったのですが……。
まぁそれでも、参加者としての面目は立ちましたかね、これで。
ここまでお読みくださった方々、ご苦労様でした。
私のはともかく、興味深い作品が並んでいます。
専用の感想掲示板もありますので、活用していただければなーと思います。
それでは