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2話 冬は寒いから冬

 僕にとって『彼女』という存在の最初の印象は、中途半端な笑みを表情に貼り付けて、頭にクエスチョンマークを幾つも生やしたまま小首を傾げている姿だった。言葉の通じない異国にいきなり放り出されて、しかもわからない言語で話しかけられたりしたら、僕にもあんな顔をすることが出来たのだろうと推測する。

 カチコチに緊張した上に、完全にテンパっていたのだろう。僕も初めてレジに立った時には頭が沸騰しそうな感じがした。別に壇上に立って大勢の前で演説するでもなし、緊張する理由がどこにあるのかと客の立場だった時は思っていたのだが、見える景色が違うだけで人の心理というのは簡単に翻弄されてしまうものらしい。気候全体から考えれば『くしゃみ』程度のことが、漁師さんにとっては大問題、という感覚に近いだろうか。この距離にして僅か一メートルにも満たない差異が、人前をさほど苦にしないと自負していた僕ですら大きく感じられたのだ。当時の彼女がどんなであったのかは、正確に想像することすら難しい。良くて夢の中、最悪なら意識を失っていたというところか。あの時の彼女が、身動きどころか眉一つ全く動かさなかったのも、あるいはそのせいかもしれない。

 稼動域の少ないプラモデルのようにぎこちなく首を巡らせ、両手の人差し指を駆使して初めてのレジ打ちをする彼女を、僕はとても不安そうな顔で見ていたに違いない。だが同時に、その一生懸命な横顔を見て、つい応援してしまっていたこともよく憶えている。

 たどたどしい指使い、焦りから彷徨う視線、どういう表情をして良いのかわからないながらもとりあえず浮かべている引きつった笑み、そのいずれもが昨日のことのように鮮明だ。むしろ昨日のことの方が曖昧である。晩御飯に何を食べたかも憶えていない。

 どうして僕は、こんなにもあの日のことをよく憶えているのか。

 理由は簡単だ。

 彼女という存在を生まれて初めて知った日を、そう簡単に忘れることなど出来ようハズもない。

 ちなみに僕は、この日を境に現実が少し信じられなくなりました。



 その日は朝からバラの花びらを千切ったような大粒の雪が降っていた。あるいはこれすらも、予兆の一つであったのかもしれない。

 降っては積もり、見る見る内に景色を変えていく外の様子を、どこか別世界の出来事のように眺めながら、いつもと何ら変わりのない温かな店内で雑誌の位置を並び替えていた。弁当コーナーやパンコーナーなど、一日を置かずして入れ替わりの激しいポイントは、いつでも綺麗に見えるような陳列を心掛けるよう指示されている。それが正確に出来るかどうかは各人の力量にもよるけど、そこに気を配れる程度の余裕はあった。古い商品は前、あるいは右といった基本から、在庫品の把握と可能な限りの陳列もほぼ完了し、普段は大して触れることのない雑誌コーナーにまで手を掛けていた時点で、この日のコンビニとしての惨状はお察しいただけるだろう。

 そんな気だるい午後に、彼女がやって来た。

 傘を差さず、白い雨合羽あまがっぱのような物を着込んだ彼女が、一際冷たい寒風を身に纏って店内へと入る。華奢で小さな体つきから、最初は中学生くらいに思っていた。この雪のせいで客がほとんどいなかったこともあり、この時の僕はうっかり彼女を目で追っていた。そしてその視線に気付いたのか、ごく自然の成り行きで振り向いた彼女と目が合うことになる。

 過ぎるほどに白い肌、それとは対照的な影のように輝く漆黒の髪と瞳、唇に宿る仄かなあかみがやけに際立って見える。目が大きく鼻は小さく、その外見は幼く見えた。ただそれでも、普通とは何か違う妖しさを感じて、僕は咄嗟に応じることが出来なかった。

 コンビニでのバイトを始めてすでに半年、扉が開いたら『いらっしゃいませ』はすでに習慣化している。うっかり別のコンビニに客として行くとつられそうになるくらいだ。その僕が何も言えずに固まってしまうなど、普段では考えられない反応だった。何か、彼女には普通ではない何かがあると、その原因を探るために視線を走らせた、その時だった。

「あ、初めまして。私『氷影ひかげつらら』と申します」

 彼女がペコリと頭を下げた途端に、積もっていた雪がボトボトと落ちる。

 違和感の正体が、今わかった。

 彼女の頭と肩に数十センチの雪が積もって山を成していたのである。違和感どころの話ではない。一体どこの山奥から歩いてきたのだろうか。いくら雪国とはいえ、限度というものがあるだろうに。

 というか、そういうのは外で払ってから入ってこようゼ、お客さん。

「あわわわっ、すいません!」

 しばし買ったばかりのかき氷を落としてしまったかのように、温かな店内に侵食を始める雪の塊を見詰めてから、我に返るなり騒ぎ始める。

「い、今すぐ外に出しますんで」

「いやいや、別に構いませんって」

 落ちた雪を拾い上げようと腰を落としかけた女の子を、僕はやんわりと制止する。

「え、でも……」

「大丈夫大丈夫。それより――」

 持ち上げられた不安そうな表情を見ながら、記憶を辿る。

「新しいバイトって、君のこと?」

「あ、はい、そうです」

 どう見ても中学生くらいにしか見えない彼女――氷影さんは、小さいながらもしっかりと頷いた。

「なら奥でオーナーが待ってるから、すぐに行くといいよ」

「でもこのままじゃ……」

「いいからいいから、ここはやっとくよ」

 躊躇ためらう彼女の背中を押すようにバックヤードへと促す。その時図らずも触れた彼女の腕は雪そのもののように冷たくて、この寒い中で降り積もる雪を踏み締めて歩いてきたことを窺わせた。

「倉本君は小さい子にはホントに優しいねー」

「……何だか棘のある言い方に聞こえるんですけど?」

「やーねぇ、ロリコンとか思ってないってば」

 カウンターの内側で、出来たばかりのおでんを引っ繰り返している安達さんがニヤけている。この人は相変わらず性格がどこか歪んでいるようだ。

「思ってないならそういう単語を口にするのはやめてください」

 雪の塊を外へと放り捨て、トイレの扉近くに立てかけてあったモップを取ってくる。

僕は別に、彼女が可愛いと思ったからあんなことを言ったのではない。こういう天気の日は、どうしたって床が汚れるものだ。マナーの良し悪しに関わらず、客人の出入りと共に無数の足跡が記されることとなる。そのことに一つ一つ腹を立てていては、とてもじゃないがやっていられないのである。床は汚れ、汚れたら拭く、その繰り返しを覚悟するのは当然の結果でしかなかった。そのための用意もしてあるし、この場合は幸いと言うべきかどうか微妙だけど、客足が鈍いせいか十分な時間的余裕もある。

「それにしても、倉本君って予想以上に守備範囲が広いのね。お姉さんちょっと驚いちゃったよ」

「だから、ロリコンじゃないですってば。というより、見た目はともかくバイトするんだから少なくとも高校生でしょうに……まぁ、それでも五歳以上は開きがありますけど」

 水分を拭き取って、モップを元の位置に戻す。

「それもあるけど、雪女を相手にしようなんて、度胸があるじゃない」

「いや雪女だからって――」

 さして意識せずに言いかけて、その単語の不自然さに気付く。

「ゆきおんなっ!?」

 この日、僕は生まれて初めて雪女が実在することを知った。



 レジの前では氷のようにカチンコチンだった氷影さんも、一通りの説明を終えてようやく安堵したようだ。そして、そんな気の抜けた表情で帰り支度をしている彼女が、目の前に立っていた。定時はすでに三十分以上前に過ぎている。本来ならとっくに帰宅している時間帯だ。

 だが僕は、発注業務という名目でダラダラと作業を継続し、この機会を待っていた。

 発注という作業は、店の売り上げにも影響を与えかねない重要な仕事だ。コンビニでは、その大半をアルバイトに任せている。現場で実際に売っている、つまり商品の売れるペースを直に感じている人間にやらせる方が効率的、という発想もわからなくはないが、実際にはオーナー一人でさばき切れない仕事を割り振っているに過ぎない。仕事に慣れてきて使えると判断したら発注をやらせようというのが、お決まりのコースだった。

 ちなみに僕はドリンク全般を任されている。かなりの種類になるものの、良く売れる商品とそうでもない商品は大抵決まっているし、発注の頻度や在庫しておく数にもパターンがある。新商品が何種類も出てくる時期は別にして、それ以外は在庫の把握さえしておけば大して難しい作業でもなかった。普段なら、軽く作業の合間に終わっているところだ。

 それを今、周囲の様子を気にしながら、僕はあえて引き伸ばした。それでも早く終わってしまうかと危惧した矢先、白黒の雪女が一連の作業説明を終えて帰り支度に取り掛かっている。

 今しかないと、発注業務を丁度片付けた僕は、彼女に近付いた。

 その横顔を眺め、改めて不思議に思う。

 周りの人達は至極当然みたいな顔で過ごしているけど、僕にとってはあまりにショッキングな事実だ。この地に引っ越してすでに五年、すっかり地元に馴染んできたと思っていた僕としては、雪女が実在していたなどというのは、あってはならない類の一大事である。まだイエティが見付かりましたというニュースの方が信じられる。

「あの……」

「はい?」

 どう見ても半透明の雨合羽を着ているようにしか見えない氷影さんが、こちらに透明な闇を思わせる漆黒の瞳を向ける。それは感情を吸い取っているかのように深く窪んで見えた。

「本当に雪女ですか?」

「はい」

「ホントに?」

「ええ」

「ホントのホントに?」

「ホントのホントです」

 キッパリ頷く氷影さんだが、それだけで納得し切れないのが本音だ。何か、それが僕自身を騙すためのものであったとしても、何かしらの証拠が欲しい。

「その、何か雪女らしいことが出来たりしますか?」

「んー……」

 彼女は口元に左手を当てて考え込む。その仕草を見る限りは、色白の女の子にしか見えない。

「そうですねー、素手でかまくら作ったりとか、素手で雪だるまつくったりとか、素手で雪合戦したりとか出来ますけど」

「いや、僕もそれくらいなら出来ますよ?」

 かなりの我慢を必要とするだろうけど。

「じゃあ、雪の中を泳げますっ」

「えーと――」

 やけにキラキラと輝く瞳で自信たっぷりに放たれる言葉の一つ一つから、強烈なボケの香りが漂っている。

 まぁとりあえず、寒さに強いというのはわかった。

「もっとこう、雪女だってわかるような特徴というか、そういうのはないんですか?」

「あ、そういうことですか」

 ようやくこちらの意図が伝わったらしく、無垢な笑顔と共に右手を差し出してくる。それは紛れもなく、握手をしましょうという意思表示だ。

 つられるように、無意識のままその手を握る。

「つめたっ!」

 そして振り払うように離した。

「私、雪女ですから」

 この時の嬉しそうな、少しだけ得意げな表情は、記憶の片隅に焼きついている。そしてだからこそ、この不可解な状況を意外なほどアッサリと、あるがままに飲み込むことが出来た。

「……それにしても、雪女がどうしてコンビニでバイトを?」

「憧れだったんですよ」

 そう言って笑う彼女は、本当に楽しそうだった。

 だからこそ、僕も自然と笑顔になれたのだろうから。

 それなのに……。


 翌日、アルバイト初日となる氷影さんは、コンビニに姿を見せなかった。


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