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<8・河川。>

 子供の幽霊?とやらに心当たりはない。

 子供が死ぬような事件も起きていないし、そもそもまだ幽霊という確証はない。ただし管理会社は403号室の鍵をかけ忘れたわけではないと主張している。

 ただ子供の幽霊云々はひょっとしたら403号室の九崎辰夫が死ぬ前からいたのかもしれず、そして最終的な死因は老衰とされたとはいえ九崎辰夫の最期にはやや疑問が残る――と。


――わけわからん。


 はあ、とため息をつく由梨。暫く雑談は続けたものの、八幡美恵子からこれ以上有力な情報を引き出すことはできそうになかった。彼女が夫の仕事にほとんどタッチしていないなら余計知っていることは少ないのだろう。伊織の評判が大家さんにも悪くなかった、と知れたのは良いことではあったが。


「すみません、お邪魔しちゃって。ありがとうございました」

「いえいえ。また気軽にいらしてねー」


 美恵子に手を振って別れると、玄関を出てエレベーターホールの方へ向かう。と、ガラス扉に手をかけたところで見覚えのある人影に気付いた。ボブカットの小柄な女性――あれは、301号室の七海杏奈ではないだろうか。

 このマンションは、すぐ隣に小さな橋が存在している。橋の周囲はフェンスで囲われていて近づくことはできない。田舎の子供達が河原で遊ぶようなものではなく、水位の低い、浅い川がちょろちょろと流れているだけの場所だった。時々変な臭いがすることもあるので、あまり綺麗な水でもないのだろう。

 橋には、〝かまら川〟という名前が刻まれている。その橋の上、柵を掴んで下を覗き込んでいたのが杏奈だった。


「七海さん?」

「!」


 由梨が声をかけると、はっとしたように振り向く杏奈。どこか、顔色が悪いように見える。


「どうしたの?川に何かあった?」


 まさか自殺しようとしていた、なんてことはないのだろう。由梨がその立場でも、もっと深そうな川とか、高そうな橋を選ぶはず。この高さでは落ちたところで軽いけがで済んでしまうかもしれない。あまり意味はないような気がする。


「あ、いえ、その……」


 杏奈は少し口ごもった後、実は、と言った。


「私、大学のレポートで……ちょっと前に、ここの川について調べたことがあったんです。正確には、このかまら川の本流の、鎌口(かまくち)川の方なんですけど」

「あ、そっか。大学生だもんね、七海さん」

「はい。あんまり地理とか歴史とか得意じゃないんですけど、ちゃんと調査してレポート書かないとA判定貰えないですしね……」


 あはは、と彼女は乾いた声で笑った。


「ネットの情報コピペして出すとか、チャットなんちゃらでAIに書いて貰うとか、そういうの結構バレるみたいで。友達がそれやらかしてレポート突っ返されたことがあったみたいで……私もなるべくオリジナリティのあるもの書かなくちゃいけなくって、結構大変だったんです」

「あー……」


 由梨も自分の学生時代のことを思い出して、遠い目をしたくなる。

 テスト科目というか、暗記モノが大の苦手だったため、出席日数とレポートの出来だけで稼ごうとかなり必死になっていたのだ。インターネットがない時代の人はもっと大変な思いをしたことだろう。

 なお、一番きつかったのは英語のレポート課題である。未だに〝何故日本から絶対出ないのに英語なんぞを勉強せねばならんかったのか〟という疑問を抱く。テストの出来も悪ければ、レポートの出来も最低クラスだった。――Google翻訳で誤魔化したのはやっぱりまずかったということだろう。


「それで……まあ、レポートは終わったんですけど。ちょっとそれからも気になって、この川について調べてみたんですよね」


 杏奈はもう一度下を覗き込みながら言った。


「このかまら川って、昔からあんま評判良くないみたいなんです。流れのせいなのか、風水的に良くないのか、〝悪いものが流れ着きやすい〟って言われてたみたいで。わたし、つい最近まで知らなかったんですけど。ほら、結構ゴミが溜まってることも多くて、ちょっと臭うんですよね」


 ほら、と彼女が指さす先。

 確かに川岸には、生ごみの袋らしきものや、ペットボトルや缶らしきものが漂着しているのが見える。


「あー……ほんと駄目じゃん」


 思わず由梨は声を上げた。


「川にポイ捨てする人が多いってことでしょ?サイアクー」

「ですよね。環境汚染です。……でもって、何故か別の川……それこそ本流の鎌口川で捨てられたゴミが、こっちまで流れてきちゃうこともあるって」

「そりゃ臭うよね。……ひょっとして、八幡マンションの家賃安い理由ってそういうのもあるのかな」

「かもしれません。一番はその、幽霊騒ぎのせいでしょうけど。四階でゴミ屋敷作って亡くなっちゃった人がいる、ってのもマイナスイメージでしょうしね」

「だよねえ……」


 幸い、自室にまで川の臭いが漂ってくるということはないが。杏奈いわく、この橋を渡る時に臭いがきついと感じる時が時々あるという。目に見えるゴミが流れ着いている時もあれば、原因のゴミが見えないのに臭い時もあるのだそうだ。

 ひょっとしたらそういう時は、なんらかの汚染物質が流れ込んできている、とかそういうことなのかもしれない。あまり考えたいことではないが。


「時には、その」


 とても言いづらそうに、杏奈は告げた。


「血の臭い、みたいなものもすることがあって。……今日も、ちょっとそれっぽい臭いがして、気になって」


 血の臭い。

 幽霊がどうたら、という話を人としてきた身としては――あまり笑える内容ではない。もちろん、魚を切っても鳥を切っても猫の死体でも、血の臭いがするようなことはちょいちょいあるだろうが。


――血の臭い、か。


 由梨も手摺にもたれて、下の方を見下ろす。


――変なものが、流れつきやすい川。……それこそ、鎌口川で捨てられた死体とかが、この川に流れつくこととか……そういうこともあったりする、のかな。


 思わず、想像してしまった。人の死体がぷかぷかと茶色い泥まみれの川を流れてくる様を。水をぶくぶくに吸って青白く膨れ上がった肌を。白く濁った眼球を、でろりと飛び出した舌を。

 いや、さすがに現代で人の死体が流れてくるような事態になったら、さすがに騒ぎになっているだろうが。


「……あのさ」


 考えた末、由梨は尋ねてみることにした。


「川を子供の死体が流れてきたとか、そういう事件って……あったりする、のかな」

「え?」

「わ、私もさ。本当に幽霊がいるかどうかなんてわからないんだけど、やっぱり幽霊っぽいものはいるかも?って噂は流れてるようだし。403号室で走り回っている子供たちの姿とか見たし、もし幽霊ならどこで死んだどのこお子さんたちなのかなあと。川を流れてきたなら、遠くで死んだ子供達ってこともあるだろうし、さ」


 とりあえず、昨日今日で自分が知ったことをひとしきり話してみることにする。なんとなく、杏奈ならば軽々に他人に漏らすような真似はしないと踏んだのだ。

 が、少し失敗であったかもしれない。話を続けるにつれ、杏奈の顔色がさらに悪化したように見えたからだ。


「……四階には、子供の幽霊がいる。それは、本当かもしれません」


 暗い表情で言う杏奈。


「わたしも子供が走る足音とか、子供の後ろ姿とか見たことあるんです。それだけじゃない。玄関の……チャイム鳴らして、うちに来たことも」

「ええええ!?ゆ、幽霊が!?」

「あれは、幽霊、だったと思います。そもそも、わたしの家のインターフォン故障してて、音なんか鳴らなかったはずなんです。それなのに、あの夜は何故か音が鳴って……しかも結構遅い時間で、子供が起きているとは考えにくいタイミングですよ?それで、思わずドアを開けたら、て、手が、外から伸びてきて、つ、冷たくて……」


 段々としりすぼまりになっていく声。おいおいおい、と由梨は絶句するしかない。

 今までは、子供の声がする、なんとなく姿を見た程度の話しかなかった。しかし杏奈は実際、幽霊に襲われたことがあったというのか。


「そ、それで……どうなったの?」


 嘘や冗談を言っているようには見えない。杏奈はぎゅっと目をつぶると、頭を抱えて首を横に振った。


「す、すごく怖かったのは覚えてるんですけど、そ、そ、それ以上の記憶は飛んでて、気づいたら朝でした」

「そ、そうなんだ。無事で本当に良かったよ」

「すみません、こんな話して。ただ、その……こんなことを言ってはなんですけど」


 怯えた目で、彼女は由梨を見上げた。


「205号室の、二階堂伊織さん。四谷さんの恋人さん、だったんですよね。彼も同じように、襲われた可能性あるんじゃないかって。それでいなくなってしまったんじゃないかって、私はそう疑ってるんです。あの子供たちの幽霊って多分、すごく良くないもののような気がして……」


 もし。

 由梨がオカルトを全否定するタイプの人間だったら。同時に、伊織からも幽霊に関する話を聞いていなかったら。あるいはもう少し自制できないタイプの人間なら――ふざけるな!と怒鳴るようなこともしていたのかもしれなかった。

 しかし、由梨も段々、本当にオバケはいるんじゃないかと思い始めていた頃である。神隠しが起きたかもしれない。そう言われても現状、否定できるだけの材料は何もないのが現実だった。


「……子供って、やっぱ一人じゃないの?」


 まだ、望みは捨てたくない。

 犯人が人間にしろそうでないにしろ、調べなければどうにもならないだろう。


「私もさ、子供が走る足音とか聞いたんだけど……複数いたような気はしてたから、さ」

「恐らく、二人いるんだと思います。足音が似てるんで、同じくらいの小さな子供、なんだと。男の子か女の子かはわかりませんけど」

「やっぱそうか。……ってことは、幽霊なら二人死んでるはずだけど。兄弟とか姉妹とか、なのかな?そういう子供たちが死んだような事件とか、川に流れついた事件とか過去にあった?」

「いえ、わたしが調べた限りでは……」


 ただ、と杏奈は続ける。


「調べる方向性としては、間違ってないかもしれません。……このマンションではっきり分かってる死者は、十年前の403号室の九崎さんって人だけなんですが。でも、九崎さんが亡くなる前から子供の幽霊が出てたって話もあるんです。だったら、九崎さんの死より前に、何かあったのかも」

「……だね」


 もちろん、それならどうして子供達の幽霊が四階にいたのか?という話にはなってくる。

 403の九崎辰夫についても、もう少し調べるべきだろう。同時に。


――子供が死んだ事件、か。


 本当に何もなかったのだろうか。このマンションで、あるいは川で、地域で。

 さすがに関係のない死者が、こんな場所に流れ着くとは思えないのだから。



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