<7・大家。>
とりあえずまずは、昨日挨拶できなかった大家さんのところへ行かなければいけない。
二階以上に行く時はエレベーターホールへ向かうが、一階の場合はエントランスではなくエントランス横に併設された玄関からお邪魔することになる。
昨日はベルを鳴らしても誰も出てこなかったので、どこかに家族揃ってお出かけしていたのかもしれない。今日もいなかったらどうしよう、と思いつつ、『八幡』と書かれたプレート横のインターフォンを鳴らす。
『はーい?』
返事が来て、心から安堵した。どうやら今日は誰かしらが在宅してくれていたようだ。まだ明るい時間だからというのもあるだろうか。
「あの、私……303に昨日引っ越してきました、四谷由梨と申します。ご挨拶に伺いました」
『あら、まあ、まあ!ご丁寧にどうも!ちょっと待っていてくださいねえ』
恐らく中年の女性だろう。奥からぱたぱたと走ってくる足音がする。やがてがちゃりとドアが開き、ニコニコ顔の女性が顔を出した。眼鏡をかけた、四十代か五十代くらいの女性である。
「こんにちは四谷さん!ごめんなさい、昨日もいらしゃってました?うち、昨日はバタバタしてたものですからー」
「あ、いえいえ、大丈夫です!私こそご挨拶遅れてすみません。これ、つまらないものですが」
「あらまあ、ご丁寧にどうも!」
女性は嬉しそうに、由梨の手からクッキーの紙袋を受け取った。これ好きなやつだわ、なんて言っている。どうやら喜んでくれているらしい。
「うち、クッキーはみんな好きなの!……あ、良ければ上がっていって頂戴な。今、家にはわたくしと両親くらいしかいませんけども」
「あ、はい」
いいのかな、と思いつつ彼女に押される形で中に入った。やはりというべきか一階の構造は上の階とはだいぶことなっているらしい。玄関があり、左横には襖らしきものが見える。そういえば、マンションの上の階も一部屋は和室という構造だった。このご一家は和室が好きなのかもしれない。
廊下を進んでいくと、正面にはドアがあった。その先はリビングである。長方形のテーブルがあり、同じ部屋にキッチンも併設されているようだ。テーブルの上には急須やらコップやらがいくつか置きっぱなしになっていた。ちょっとズボラな性格なのかもしれない。
「ごめんなさいねえ、ここ客間ないんですよ。こちらに座ってくださいな」
「は、はい」
あまりにも家庭的な空間に戸惑いながらも、椅子を引いて座らせてもらう。隣にはもう一部屋あり、そちらが居間になっているようだった。リビングよりも大きな硝子テーブルと、それをぐるりとコの字型に囲むようにして黒い革張りソファーが設置されている。その正面には大型テレビ。なるほど、この家では食事をしながらテレビを見る習慣はあまりないのだろう。リビングからテレビが見られるような角度ではないからだ。
女性は慣れた手つきで棚からお茶の缶を取り出すと、急須でお茶を入れてくれた。いい香りがする。自分がよく飲む、ティーパックのお茶とはだいぶ違うようだ。
「いい香り……」
「落ち着くでしょ?お義母さんがどっかで買ってきたお茶らしいわ。伊勢だったかしら?ちょっと場所は忘れちゃったんですけど」
「そうなんですねえ。あ、美味しい!」
「でしょう?」
苦味が少なく、すっきりと飲みやすいお茶だった。思わず一気飲みしてしまう。
部屋の数も多いし、食器棚の皿やコップの数も多い。この一階の空間には、それなりの人数が住んでいるらしい。
「あの、えっと……お名前をうかがっても?」
なんとなく上がり込んでしまっているが、まだ女性の名前が聞けていない。彼女も忘れていたらしく、あらいけない!と口に手を当てて目を丸くした。
「あららららら、いけない、忘れていましたわ。わたくし、八幡美恵子と申します。一応はこの八幡マンションの大家です。まあ、八幡マンションを経営している家に嫁いだってだけなんですけどねえ」
「というと、このマンションって元々は、旦那さんのご両親が経営されていたってことなんですか?」
「そうなりますね。十三年くらい前に建て直しているらしくって、歴史の長さのわりに建物は古くはないんですけど。わたくしの夫のご両親が経営していたマンションを、今は夫が引き継いで運営を任されているってかんじです。元々この土地は八幡家が代々引き継いでいたものらしくて、一家もここに住んでいたんですけど……お義父様の代になってマンションにすることになったとかなんとか?まあ、わたくしはそういうの疎くて全然わかんないんですけどねえ」
あはははははは、と豪快に笑う女性。かなり陽気で、お喋り好きの人物であるようだった。
「現在ここには私と旦那と、旦那のご両親であるお義父様、お義母様。それから、私の三人の子供達が一緒に暮らしていますわ。大学生の娘が一人と、高校生の息子一人と中学生の息子一人ですわね」
ところで、と彼女はどこか楽し気に目を細めて言った。
「今夫と両親は一緒に出掛けてますし、子供達も学校で、この家にはわたくししかいませんの。……なにか訊きたいことでもあるんじゃなくって?」
「え!?」
「いやね、すぐそこが管理会社の事務所でしょう?さっき、入っていく貴女を偶然見かけたんですよ。何か管理会社の人に相談したいことでもあったんじゃないか、って」
「え、えっと……」
管理会社ならともかく、大家さんに幽霊だのなんだのという話はしづらい。というわけで、四階に〝生きた子供が入り込んでいたかもしれないことを報告した〟という言い方をした。ようは、管理会社が鍵をかけ忘れて、子供が悪戯で入っちゃったかもしれないと疑った、という言い方である。これならまあ、大家さんもそんなに不快にはならないだろう。
「ああ、貴女も聞いたんですか」
ところが、美恵子は意外な返し方をしてきた。
「それ、本当に生きた子供なのかしら。わたくしもねえ、実はオバケか何かが憑いてるんじゃないかーなんてすこーし疑ってるんですよ」
「え、え!?お、おばけって……」
「だって、そうだったら面白いじゃないですか、ねえ!」
おいおい、と由梨は呆れてしまう。自分が持っている物件で幽霊騒ぎなんて、本来避けるべきことであるはずなのに――当の大家であるこの人が面白がっていようとは。
「実は、昔から子供の声がする、って話はあったみたいなんですよ。あ、403号室でおじいさんが亡くなった話は聞きました?ゴミ屋敷作っちゃってて、うちとしてもちょっと迷惑してたんですけどねえ。元々偏屈で、家賃も滞納しがちで、他の方ともすぐ喧嘩する困った方だったんですけど」
「ああ、それで、同じ四階の人が次々いなくなっちゃって」
「そうなの!403の人……九崎辰夫さんって言ったんですけどね。七十代のおじいさんの一人暮らしだったんですけど、すごく神経質な方ですぐ人に怒鳴るものあだから。隣の402号室に住んでた人とかがノイローゼになっちゃって、それで引っ越しちゃって。でもって噂って広まるものなのか、それからも四階に住む人がほとんどいなくなっちゃいましてねえ」
田舎町なら、まあそういうこともあるだろう。なんというか、マンションの管理・運営も大変なんだなとしみじみ思ってしまう。いくら迷惑な人でも、簡単に追い出すことはできないということなのだろうか。
「403の九崎さんが亡くなってから、子供の声がする、子供の幽霊を見かけるって噂は立ちまして。実は、わたくしも四階で、走り去る子供の影を見たことがあるんですの」
でもね、と美恵子は続ける。
「実は、順序が逆なんじゃないかと思ってるんです。というのも、九崎さん最初から嫌な人だったわけじゃないの。九崎さんは、マンションを建て替えてすぐ入居された方で、元々は落ち着いた穏やかなおじさんってかんじの人だったんですよねえ。わたくしたち大家にも、普通ににこやかに挨拶してくれたし。それが、ある時を急に様子がおかしくなっちゃって」
「ある時?何かきっかけがあったんですか?」
「それがよくわからないの。亡くなる一年くらい前から、子供の声がうるさいって近所の小学校に怒鳴りこむようになっちゃって。でも、なんか変なんですよね。近所の小学校と行っても一キロ近く離れているのに、そんな煩いと感じるほど子供の声が聞こえるものかしらって。このあたり、他に幼稚園や保育園もないし……駅の反対側になら一軒ありますけど、そんなことより電車の音の方が大きいでしょうし」
なんだか、雲行きが怪しくなってくる。
このマンションでおかしなことが起きるようになったとして、そのきっかけはてっきり403号室の九崎辰夫が亡くなってからのことだと思ったのだ。無論、亡くなったのがおじいさんなのになんで子供の幽霊が出るんだ?という疑問はあるにせよ。
しかし、そうではなかったのだろうか。
そもそも辰夫の死は、幽霊騒動とは関係ないのだろうか?
「綺麗好きな人だったのに、いつのまにか部屋中にみっちりゴミをつめて、ゴミ屋敷なんてものも作ってしまうし」
はあ、とため息をつく美恵子。
「一度お話を訊いたら、イライラしながらこう教えてくれましたよ。子供が入ってこないように、隙間をゴミでみっちり埋めてるんだ……って」
「子供、ですか」
「ええ。子供が入ってくるのが嫌だ、声がうるさい、イライラするって。一体何のことだったんだか。しかも最後は……ゴミ山の中心で、得体のしれない魔法陣みたいなものを書いて、その真ん中で死んでたんですよあの人。まるで、黒魔術やら邪神やら、そういうものにお縋りしかたかったみたいな、ね」
ただの老衰ではないのかもしれない。恐らく、美恵子はそう疑っているのだろう。
ゴミ屋敷を作られるのはマンションとしては非常に困ったことだろうが、それはそれとしてオバケ騒動はそこまで嫌がっている様子ではない。ひょっとしたら、自分でも独自に調べたりしたのだろうか。
「その子供とやらに、心当たりはありますか?その……」
一応これも言っておこう、と由梨は口を開く。
「205号室の二階堂伊織。彼を探して、このマンションに引っ越してきたっていうのもあるんです。彼についても何か知りませんか?」
「二階堂さん?ああ、あのイケメンな大学生さんね。会うたび丁寧にあいさつしてくれた人だわ」
ごめんなさいね、と美恵子は眉をひそめた。
「残念だけど、どっちもわからないんですよ。このマンション、家族連れが住むこと自体少ないし。子供は変死したとか、そういう事件もないですしねえ……」