<6・管理。>
『平安を舞台にした大河ドラマがヒットしたということもあり、その時代に行われていた遊びや文化への興味、関心も高まっていることと言えます』
カタカタカタカタ。
由梨はパソコンに向かい、一心不乱に文字を打っていく。
『特に、蹴鞠というスポーツに対して気になったという人も多いのではないでしょうか。足で蹴るということから、サッカーに似たものだと考える人もいるかもしれません。しかし、実際のところは蹴鞠はサッカーと比べると、極めて単純なルールだったと言えます。また、サッカーとは違って完全に球体のボールを使っていたわけではありませんでした』
最近は、スポーツに関する記事を依頼されることが多い。
なるべく若い人が興味、関心を持ってくれる題材を探して提案してくれ、と言われていた。向こうからお題を出されることもあるが、由梨自身で御題を見つけてきて取引先に提案しなければいけないことも多いのだ。
面倒くさいのは、同じようにこの会社と契約を結んでいるライターは多いということ。
彼ら彼女らとお題が被ると、どうしても先着順になってしまう。今書いている蹴鞠、のお題も通ったのは奇跡的だったと言えるだろう。大河ドラマがヒットしたこともあって、同じお題を提案しようとしていた人は他にもいるだろうと思われるからだ。
『現在とは違って、完全に球体のボールを作る技術は確立していなかったと思われます。近代的な機械などがなかったことから当然と言えば当然でしょう。基本的には、二枚の鹿革を馬革で縫い合わせることによって作られる鞠を用いていたと言われます。球体ではないので、蹴った後にどこに飛んでいくかわからない、というのが面白さの一つだったのかもしれません』
タイピングは早い方だが、その分誤字脱字も増えがちだ。
後で失敗したところは見直して後で修正しようと決める。まずは記事を、ざっくりとでもいいから完成させる方が先決だろう。
この記事は多少なりに自分の感想も入れていいということにはなっているが、いくつかNGワードもあるし、あまり自分の主観だけで執筆しないでくれとも言われているのが難しい。
人間、誰だって文章には己の感情が入り込むものだ。それを完全に排除することなど不可能だと言っていい。
『元々蹴鞠は、中国の蹴鞠から来ていると言われています。蹴鞠の起源となるスポーツは、なんと四千年以上昔、殷王朝の時代にはもう確認されていたというのです。その後、中国の斉王朝で軍事訓練として取り入れられたこと、さらに漢の時代には宮廷内にて大規模な競技大会が行われたことから爆発的に広まっていったとされています』
「ふう……」
書いて書いて書いて、ひたすら書いて。そういうことを繰り返していけば自然と指も疲れてくるというものだ。しかも集中していることもあって目も疲れてくるし、無意識に前のめりになってしまうこともあって腰にも負担がかかるのだ。
記事がざっと書き終わったところで、うーんと体を伸ばす由梨。実家から持ってきた椅子だが、買い替えた方がいいのかもしれない。ここのところネジがゆるんでいるのかサビているのか、ぎしぎしと嫌な音を立てるようになってしまったからだ。
「……そろそろ、出かけますかね」
言い聞かせるように呟いた。時刻は十二時半を過ぎている。お昼ご飯はカップ麺でさっさと済ませるとしても、管理会社に話をする件はあまり後回しにしたくない。
とりあえず二本書き終わったので、一端目途をつけることにしようと決める。誤字脱字チェックは、後でやった方が見つかることも多いのだ。
――嫌な顔、されないといいけどなあ。
それと、昨日は結局大家さんにも、二階の一部の人にも挨拶しにいけなかった。そのへんのタスクも、急いでこなさなければいけない。
***
「え、子供?」
案の定と言うべきか。
昨日入り込んでいた子供の話をすると、管理会社の若い男性社員は困惑した表情を浮かべた。
「ええ、そんなはずは……ちゃんと鍵はかけてあるはずですけど」
「でも、実際窓から覗いたら、二人くらいの子供が走り回ってるのが見えたんです。どっか、別のところの窓とか開いてる、なんてことありません?あるいは玄関の鍵のかけ忘れとか……」
「うーん……」
そんなはずないんだけどなあ、と由梨より若そうな青年は困ったように頬を掻いた。
「ああ、でも、窓の方はチェック甘かったかもしれません。確認してみます。……古いアパートだから、窓から配管を伝って登るとか、そういうこともできちゃうのかもしれませんしね。やっぱり、そのせいなのかな、子供の幽霊が出るなんて噂が出ちゃうの」
「え、子供の幽霊?おじいさんの幽霊じゃなくて?」
403号室で亡くなったのはおじいさんですよね?と暗に尋ねれば、彼は苦笑いしつつ頷いた。
「はい。その、403号室の住人の方が亡くなってから、あの部屋で子供の幽霊が出るなんて噂を立てられてしまって、困っていたんです。あの部屋の借り手がつかないのはしょうがないと言えばしょうがないんですけどね……特殊清掃が必要なほど汚されちゃってましたし、変死については近所に噂されちゃったんでイメージが良くないんでしょう。我々がその話伏せてても、結局マンションの人とかご近所の人が尾ひれつけて話しちゃうからもう事実自体は隠してないんですけど」
どうやら妙に口が軽いと思ったらそういう理由だったらしい。
確かにどうせ耳に入る話なら、下手に隠し立てしてイメージを悪くするより、自分達からぶっちゃけてしまった方がいいと思うのも自然なことだろう。
「子供が忍び込んでたから、幽霊と間違えられたんでしょうか?」
「さあ」
担当者は肩を竦めた。
「というのも、403の住人さんが亡くなったの、かれこれ十年は前なんですよね。その時仮に肝試しで忍び込んだ子供がいたとして、今も同じ子供が入り込んでるなんてことないでしょう。別の子が来ちゃってるってことも考えられなくはないですけど」
確かに、十年前遊びに来ていた子たちがいたところで、その子たちもとっくに大人になっているということだろう。
さっきから彼が〝生きた子供が入りこんでいる〟というのを疑問視しているのは、そういう理由もあったということらしい。
「え、まさか幽霊だって、あなたも思ってるんです?」
由梨が眉をひそめると、まさかあ、と彼はひらひらと手を振った。なんというか、さっきから言動が軽い青年である。
「さっき四谷さんも言ったじゃないですか。おじいさんが亡くなったのに、子供の幽霊が出るっておかしいでしょ。プライバシーがあるのであんまり詳しいことは言えませんけど、例の方、お孫さんとかそういうのもいなかったはずですしねえ。大体、お孫さんがいたところでなんでその子達も死んでるなんてことになるんです?一緒に死体で見つかったわけでもあるまいに」
「そりゃそうだ」
「八幡マンションで、子供が不自然に死んだなんて話もありません。これは本当です。老衰で亡くなった方と引っ越した方は、403号室の住人さんが亡くなるより前からちょいちょいありましたけど、それくらいです。まあそこそこ年季入ったマンションですし、賃貸ですから人も入れ替わりますよ」
ただまあ、と彼はしょっぱい顔になる。
「四階に全然人が入ってくれないのは困ってるんですけどね。403号室以外も駄目なんです」
「それはオバケが出るから、ですか?」
「いえ、そもそも403号室の方が亡くなる前からなんです」
大きな声じゃ言えないんですけどねえ、と青年は声をひそめた。
「403号室の方、ご近所とよくトラブルを起こしてまして。その、こう言ってはなんですけど、幻聴とか幻覚が聞こえてるっぽいとか……他人に怒鳴ることが多かったとか。今も住んでる405号室の三ノ宮さんともよく揉めてました。昔は親しくしてたみたいなんですけどねえ……」
あー、と由梨は頷くしかない。
恐らく、同じ四階の住人は403号室のおじいさんが嫌で、さっさと出て行ってしまったということなのだろう。同じ四階に住んでいるならすれ違うことも多いだろうし、それこそ顔を見かけて変な因縁をつけられてもたまらない。
ひょっとしたら、若い女性の単身者だった、なんてこともあるのかもしれなかった。一人暮らしの女性ならば、安全とご近所付き合いに気を配りたくなるのも無理ないことだ。
――405の三ノ宮さんだけ、残ったんだ。何でだろ。……昔は仲よくしてたってことは、403号室の人のことについても何か知ってるのかな?
話を訊いてみたいところではあるが、昨日の様子を思い出すとやる気が出ない。
『ならいい。……用件は済んだだろ、とっとと帰ってくれ』
人のおっぱいをじろじろ見ていた上、あまりにも冷たく追い返してきた人物。それなりに人付き合いは上手い方だという自覚はあったが、あのおじいさんと仲良くできる気は全然しなかった。比較的、年上の男性には好かれる方だという自負もあったのだけれど。
「事故物件でもなんでもないし……403号室の人がいなくなってから迷惑住人もいなくなったんですよね。それなのに、四階に入ってくれる人がいないんですか?」
由梨が尋ねると、そうですねえ、と彼は頷いた。
「そこは、オバケが出るという噂のせいかもしれません。なんだか人が入っても、二階や三階しか埋まらないんですよね。……まあ、しかし、我々としても、あんまり変な噂が立てられるのは困ってるんです。さっきも言ったように、子供が変死したなんて事件もないですしね」
というわけで、と青年はさくっと話を終わらせてしまった。
「我々も一応、鍵とか窓とかはちゃんとしまっているか確認するつもりですが……その、あんまり四谷さんも変な話を真に受けないでくださると助かります。ほんと、他に誰かが不自然に死んだとか、そういうこともないわけですからね……ハイ」
「そ、そうですね……」
そんな風に言われてしまえば、由梨もハイとしか言いようがない。
ただ、ますます謎が深まってしまった。
四階にいたのは幽霊だったのか、忍び込んだ子供だったのか。前者ならばどこの幽霊で、忍び込んだというのならどこからどう入り込んだのか。
――ミステリー作家とかなら、いいネタになりそ……。
一応、大家さんにもそれとなく話を訊いてみようと決める。今後もお付き合いしていく手前、あまり機嫌を損ねたくはないが。