<5・悪夢。>
ぴんぽーん、と柔らかい音が響いた。最初は気のせいだと思ったのだ。瞼の裏に感じる景色はまだまだ暗くて、到底朝が来たとは思えなかったから。
しかし。
ぴんぽーん、ぴんぽーん、ぴんぽーん。
音は繰り返し、繰り返し鳴り響く。ううん、と布団の上で由梨は呻いた。眠い。起きたくない。しかし安眠を、インターフォンの音が邪魔をする。
「うう、うっさい……」
寝ぼけながら、枕元のスマホを手繰り寄せた。地獄は夜の二時半。完全完璧な真夜中というやつである。こんな時間にチャイムを鳴らすなんて、一体どんな非常識な人間が来たのやら。
ぴんぽーん、ぴんぽーん、ぴんぽーん。
「なんだよお……ご近所迷惑だっつの……」
もごもごいいながら、毛布の下から這い出した。夜寝る時は――というより、外に出ない時はジャージ姿で過ごしていることが多い由梨である。今日も臙脂のジャージで布団にくるまっていたのだった。ずりずり、と匍匐前進をしつつ、ぼさぼさの頭のまま玄関を見る。
すると、由梨が起きてきたことに気付いたかのように、別の音が聞こえてきた。チャイムではなく、ドアをノックする音である。
こんこん、こんこん、こんこん。
叩きつけるようなものではなく、非常に上品で控えめな音。真夜中にチャイムを鳴らすような、非常識な人間のそれとは思えない。緊急の用件だというのならば、ドアを激しく叩いて知らせようとするような気がするのに。
「……まさか」
なんとなく、予感がした。ふらつきながらも立ち上がると、早足で玄関へ向かう。そして、サンダルをつっかけるとドアに張り付いてドアスコープから外を覗き込んでいた。
そして。
「!!」
はっきりと見たのだ。Tシャツにジーパンーー見慣れた格好で俯きがちに佇む、伊織の姿を。
「伊織!か、帰ってきたのあんた!?」
慌ててドアを開けようとして、チェーンをかけっぱなしだったことに気付く。この、僅か数秒の間がもどかしい。手間取りながらもどうにかチェーンを外しと、鍵を開けてドアを開けた。こんな勢いよく開けたら本人にぶつかるかも、なんてことを考えるだけの余裕は一切なかった。
何故伊織が、自分がこの部屋に引っ越してきたことを知っているのか。
どうして由梨が引っ越してきてすぐ、彼自身もこの場所に帰ってきたのか。
こちゃごちゃと考えていた時間は短かった。ドアを開け放った瞬間、言いたいことは全て吹っ飛んでしまっていたから。
「伊織!!……え!?」
そこには、誰もいなかった。
さっきまで確かに、伊織がその場所に俯いて立っているのを、覗き穴で確認したというのに。
「あ、あれ?え、伊織?」
見間違いだったなんて思いたくない。サンダルとジャージ姿のまま廊下へ出て、きょろきょろとあたりを見回した。通路を照らすものは月明かりと、各部屋の前及びエレベーターホールから漏れるライトのみである。
そのエレベーターホールへ向かう角を、曲がっていく人影が見えた。
白いシャツ、襟足が少し長い焦げ茶の髪。――間違いない、伊織だ。
「伊織!」
玄関の鍵をかける余裕は、なかった。サンダルを急いで履き直し、転びそうになりながらもエレベーターホールへ向かう。
目撃したのは、上へ動いていくエレベーターの様子だった。行先表示灯が四階へ向かい、そこで止まる。四階で降りたのだと気づき、由梨は大慌てで階段を駆け上がった。
何故、彼は上の階へ行ったのか。彼の部屋は二階のはずだというのに、何故。
それに直前までドアの前で待っていたのに、由梨が開けた途端立ち去っていったのも妙だ。
――私を、どこかに誘っているの?
なんだか胸騒ぎがする。四階まで駆け上り、通路へと飛び出した。
すると視線の先、ある部屋のドアを開けて中に入っていく伊織の姿が見える。
「ちょ、待って、待ってよ!」
声をかけるも、彼は一切振り向いてくれない。バタン、という音がしてドアが閉まった。おかしい、今入ったのはどう見ても405号室ではない。他の四部屋は全て使われていなくて、鍵がかかっていて入れないはずだというのに。
やがて、彼が入った部屋の前に立って気づいた。403号室。――今日、子供が侵入していた場所であり、老人が変死していたという部屋であるということに。
――こんな部屋に、何の用があるの?伊織、何か私に言いたいことがあるの?
ドアレバーを掴んで下げ、引き開けようとした時だった。
「由梨」
聞きなれた声が――背後から。
「此処に来ちゃいけない。このマンションも、この部屋も、駄目だから」
間違えるはずが、ない。
「伊織!」
大好きな彼の、声。しかし、振り返ればもう、そこには誰もいなかった。
なんで、と由梨は泣きたくなる。何故、自分が声をかけると彼はいなくなってしまうのだろう。まるで己から逃げているかのようではないか。
伊織がいなくなった。連絡が取れなくなった。部屋が蛻の空になっていた。――それを知った時、自分がどれほどショックを受けたか、心配したかわかるだろうか。自分達はけして対等な立場ではなかった。年齢こそ由梨の方が年上だったけれど、彼のことが大好きで大好きでたまらなくて――いわゆる溺愛してしまっていたのは自分の方だったのである。
結婚すると、確かに約束した。そして、そんな酷い嘘をつくような男ではなかった。彼は間違いなく何かに巻き込まれ、不本意な失踪を遂げたのだと今でも信じている。
信じているのに、どうして。
「なんで……なんでいなくなるの」
かさついた唇から、空しい声が漏れた。
「私のこと、嫌いになったわけじゃないんでしょ?だったらさ……なんでさあ……」
此処に来てはいけない、なんて。一体誰のせいで自分が来たと思っているのか。どっかに囚われた王子様を、お姫様の手で強引に救い出すためだと何故わからないのか。いや、自分はけして、お姫様なんてガラではないけれど、それでも。
ガチャ。
その時。
廊下を振り向いたままの由梨の背後から、それは聞こえてきた。
ドアが開く音だ。由梨が開けようとして、でも引っ張る前に手を離したドアレバー。それを、内側から開けようとしているナニカがいる。
――まだ、子供が入り込んでるの?……いや。
昼間は、生きた子供が侵入していてもおかしくないと思った。しかし、今は深夜の二時半である。いくらなんでもそんな時間に、子供がマンションの四階で肝試しなんて真似をするだろうか。
心臓が、ばくばくと五月蝿く鳴った。ゆっくりとドアを振り返る由梨。目の前で、ドアレバーが下がり、じわじわと隙間が開いていく。
確信した。この部屋には、誰かがいる。今でも誰かが、住んでいる。その正体は。
「ひっ」
次の瞬間、隙間からにゅうううううううう、と白い手が突き出してきた。そして、ドアの前で凍り付いていた由梨の右手を、冷え切った手でがしりと掴んだのである。
「い、い」
限界だった。
「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
ぐるん、と視界が裏返る。自分が絶叫していたと理解したのは、布団を跳ね上げて飛び起きた後だった。
「は、は……は……え?」
部屋の中がすっかり明るくなっている。昨日は、カーテンを閉め忘れて眠ったらしい。白いレースカーテンの向こうから朝の光がくっきりと射し込んできていた。
和室の畳の匂いがする。
部屋の、抹茶色の壁が見える。
左手のレースカーテンの向こう、青い空と、からっぽの物干し竿がかかったベランダが見える。
自分はいつものジャージを着て、裸足で、布団の上で座り込んでいる――。
「ゆ、ゆ、ゆめ?」
どうやら自分は夢を見ていたらしい。気づいたところで、ほっと息を吐いた。伊織が帰ってきてくれる夢、なんて。正直、あまりにも残酷だとしか言いようがない。しかも、冷静になって思い出してみれば不自然に部屋の前から消えたり、室内に入ったはずなのに後ろに立っていたりと、まるで幽霊のようなムーブだったではないか。冗談にしては、あまりにも悪質すぎる。
あるいは己は幽霊になっていたとしても伊織に会いたいと願ってしまっているということなのだろうか。
「んなわけ、あるか……クソッ!」
声に出して吐き捨てると、毛布を跳ね飛ばして、由梨はその場から立ち上がった。リビングに出たところでようやく壁掛け時計を見る。時刻は既に十時前。いくら在宅ワークとはいえ、寝過ごし過ぎではなかろうか。
イライラと頭を掻きながら、とりあえず顔を洗おうと洗面所に向かった。まだこの部屋に住み始めて二日目。寝室と決めた和室は綺麗にしてあるが、残る二部屋にはまだダンボールがたくさん積まれた状態になってしまっている。荷ほどきがこんな面倒くさいとは思っていなかった。引っ越しとは、かくも面倒なものなのかと実感したところである。
――……ああ、ちゃんと今のうちに閉まっておかないと……ダンボールから毎日着る服を出す生活になりそ……。
せっかく3LDKなんて贅沢な部屋で一人暮らしなのだ。活用しないのはあまりにも勿体ないというものである。なんなら、この部屋に友達を招くこともあるかもしれない。少しは見栄えよくしておかないと、格好がつかないというものである。
じゃぶじゃぶと顔を洗ったはいいが、髪の毛の方はどうにもならなかった。特に後頭部が芸術的な爆発事件を起こしている。クシで乱暴にといたくらいでは落ち着いてくれる気配もない。これは時間の経過で倒れてくることを期待するしかないだろうか。
――昨日、あんま仕事進んでないし。今日はちゃんとやらないとな……。
自分の仕事は、取引先から指示されたお題に沿ってネットで調査を行い、ブログ記事を書くことである。在宅ワークとは言ったが正確には自営業に近い。この時間に必ず勤務しておいて、なんて縛りがない代わりに、一か月に上げた件数がそのまま稼ぎになるという仕組みだった。つまり、食っていくためにはバリバリ調べて書いてを繰り返さなければいけないのである。
お世辞にも単価は高いとは言えない。食べていきたいなら、結構頑張らないといけないのだ。貯金だって多いわけではないのだから。
――とりあえず、午前中粘って、そのあと管理会社さんに話に行くか……。
あくびをしながら、鏡を見つめる由梨。
管理会社の建物はマンションのすぐ隣だ。それでも電話ではなく、話をしようと思ったのは一応理由があるのである。
――やっぱ、確かめないと。
『このマンション、何か、やばいものがいると思う。失敗したよ、俺。……少なくとももう、由梨はここに来ない方がいい』
『わたしは、挨拶していただけですから。でも……少し、顔色が悪かったかもしれません。やっぱり、いるのかな、ここ』
少なくとも二人の人間が、何かがいる、と言っていたのだ。
変な噂がないかどうかくらいは、確かめた方がいいだろう。