<4・疾走。>
そういえば、どうして四階には405号室以外誰も住んでいないのだろうか。
確か、四階のどこかの部屋で人が死んだことがある、という話は管理会社の人から聞いている。本来、自分が借りる予定の部屋とか共有部分の廊下でなければ告知義務がないようなのだが、その会社の人は「これも念のためだから」と伝えてくれたのだ。
『まあ、人が死んだといっても老衰です。年配の方で、だいぶ部屋が汚くなってしまってまして……。あ、もちろん今は特殊清掃も入れましたし、壁紙なんかもリフォームしてますので問題ないです。そこまで散らかして亡くなられたのは403号室だけですしね』
そうだ、403号室だ。由梨の部屋の真上。
とはいえ、自分の部屋ではないのだし、とあまり気にしてはいなかった。人間、いつかは死ぬものである。年配の人が老衰で亡くなるなんて何もおかしなものではない。たまたまそうして亡くなったのが病院でなかったから、世間では変死扱いされることもあるというだけだろう。
『まあ、その人の評判があんまりよくなかったので、少し前から両隣の部屋とかも人が住まなくなっちゃって、結局今四階には405号室の方しか住んでないんですけど……』
そう、確かにそう管理会社も言っていた。
ならば405号室の三ノ宮敦彦以外の部屋は全て空き部屋のはず。なんで少し離れた401号室まで空いているのかは謎ではあるが。
――気のせい?
とりあえず、隣の404号室を見てみる。やはり、ドアポストは緑色のガムテープがべったり貼られ、中にチラシなどが入れられないような状態になっていた。廊下側の窓も覗いてみる。残念ながら格子がある上曇りガラスになっているので、中の様子をうかがい知ることはできなかった。
――やっぱ、誰も住んでない、よなあ?
さっきのは空耳だったのかと、そう由梨が結論づけようとした時だった。
ぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱた。
「!」
やっぱり、気のせいじゃない。少し離れたところから、確かに音が聞こえてきた。
この部屋ではない。恐らく隣の――403号室から。
「……誰かいます?」
一応、声をかけてみる。403号室こそ、年配の方が亡くなったという部屋であったはず。実質事故物件であり、今は誰も住んでいないはず。
幽霊、とは思わなかった。というのも今の足音は、明らかに小さな子供のそれだったからだ。しかも、複数。もしオバケが出るのだとしても、それは老人の幽霊になるはずだ。子供の幽霊が出るなんて、どう考えても辻褄が合わない。
――まさか、誰か勝手に入り込んでるんじゃ。
あり得る話だった。それこそ人が住んでいない廃墟に不良が入り込むとか、オバケ屋敷だーと言って子供が忍び込んで肝試しをやってるなんて珍しいことでもない。普通に考えれば管理会社がちゃんと鍵をかけているはずだが、その鍵が壊れているとかうっかりかけ忘れているとか、そういう可能性だってゼロではないのだ。
これも大人の務めと、由梨は403号室の前に立った。この部屋もドアポストはガムテープで封印されている。ドアスコープ――は覗いても何も見えなかった。まあ、見えてしまったらそれはそれで構造上問題があるだろうが。
インターフォンのボタンを押してみる。が、もう電気が通っていないからなのか壊れているからなのか、押してもなんの音もしなかった。
「あのー、もしもし?どなたかいるんですか?」
ドアをノックして、呼びかけてみる。
「……ここに住んでる人じゃないなら……勝手に入っちゃだめですよー?そういうの、不法侵入になっちゃうんですよー?」
ああ、自分が言ってもあんま説得力ないなあ、なんて思ってしまう。自慢じゃないが、由梨は小学生の時かなりのワルガキだったのだ。女の子より、男の子と遊ぶ方が少なくなかった。人様のマンションに入り込んで鬼ごっこをして、管理人さんに怒鳴られたなんてこともあったなあ――なんてしみじみ。
まああのマンションは、オートロックになってるのに一階の低い塀を乗り越えれば簡単に入れてしまう、のは問題ありまくりだったと思うのだが。
「……返事なし、と。……まったく」
一応ドアレバーを押したり引いたりしてみるが、内側から鍵をかけたのかまったく開く気配がない。やれやれ、と由梨はため息をついた。本当に、最近のワルガキと来たら知恵が回って困る。自分の過去は遠い遠い棚に上げて思う由梨である。ああ、己が子供の頃廃病院に入り込んで肝試しをして、友達ともども迷子になったのに懲りずに二回三回と繰り返しました、なんてのは完全に記憶の彼方であるとも。
「あ」
ふと、廊下側の窓を見て気づいた。なんと、窓が少しだけ開いているのだ。カーテンが締まっているので、中の様子をはっきり見ることはできないが、隙間もあいている。
「もー……」
由梨は窓に近づき、カーテンの隙間から中を覗き込んだ。格子があるので、こちら側から手を入れて窓を開けたり、カーテンを大きく開いたりということができないのである。
電気がついていないこと、既に夜になりかけている時間ということもあって中は真っ暗だった。ただ。
ぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱた。
再び足音。裸足の子供の足が、窓のすぐ近くを通りすぎていくのが見えた。
「あ、こら、ちょっと!」
やっぱり誰か入り込んでいる。呆れて思わず由梨は声をかけた。
「どこの子たち?駄目でしょ、勝手に入ったら!」
返事なし。その後も時折走る足音は聞こえたが、由梨の言葉に返答をよこす気配はなかった。
真っ暗闇の中で鬼ごっこなんて。しかも大人に見つかっているのに平気でスルーだなんて、本当にいい度胸をしている。それとも自分が女性だからナメられたのだろうか。
――くっそ、こっちは学生時代に空手やってたんだからなー?つっよいんだからなー?
とりあえず、明日管理会社の人に話しておこう、と決める。鍵をかけ忘れているとか、あるいはどこかから変な抜け道があるとかだったら大問題だからだ。
片付けに手間取ったこともあって、結構時間が遅くなってしまった。時計を見れば、時刻はすでに八時近い。ぐううう、とお腹が間抜けな音を立てた。そりゃあ腹も減るというものだ。
――はあ。これ以上遅くなると、非常識かな。
大家さんと、今日会えなかった人への挨拶。それから伊織の部屋の探索は明日以降にしようと決める。とりあえず、腹ごしらえをしなければどうにもならない。
由梨は頭をぽりぽり掻きながら、エレベーターホールの方へ向かったのだった。
***
新しい人が、来た。
来て、しまった。
「やっぱり、そうなのね……」
杏奈はキッチンの前、ぽたり、ぽたりと落ちる蛇口の雫を見つめながら呟く。
今日話した雰囲気からするに、由梨は本当に何も知らない様子だった。彼女は、気づいているのだろうか。彼氏の行方を捜すだけなら、何も彼氏と同じマンションにわざわざ引っ越してくる必要はない。このマンションが実家からものすごく遠いわけでもないなら、探索のために時々足を運ぶくらいで充分なはずだ。
彼氏の部屋の傍で待っていたいから、なんてのは建前だろう。それくらい杏奈にも想像がつく。大好きな人がいなくなったなら、その行方を自分の手で探したいと思うのは当然のことなのだから。いや、しかし。
――完全に、引っ張られてる。……このマンションに。
自分もそうだった、と杏奈は思い出す。
自分もこのマンションを見つけた経緯が、人伝だった。大学のサークルで出会った先輩が、前に自分もここに住んでいたのだと教えてくれたのである。その時、管理会社も一緒に教えてくれて、わざわざチラシもくれたのだ。まったく話したこともない、名前も知らない先輩だったが、物件が魅力的だったので何も疑問に思わず管理会社に足を運んでしまったのである。
それが間違いだったと気づいたのは、もう全てが手遅れになってからだった。
このマンションが〝そういう場所〟だなんて、自分はまったく気づいていなかったのである。よく考えれば妙なことだ。大学に通う前、あれだけ近くの物件を目を皿にして探したのに、このマンションはまったく引っかかってこなかったのだから。
なんなら、この前の線路沿いの道だって通ったことがある。なのに、ちっとも目に入っていなかった。こんな馬鹿なことがあるだろうか。
――ここは、誘われた人しか入居できないマンション。……きっと、そうなんだ。
問題は。
この場所に〝何かがいる〟ということは分かっても、何がいるのかはいまだに杏奈にもわかっていないということである。その〝ナニカ〟は何度も何度も杏奈の前に姿を現して、自分達はここにいるぞとアピールしてくる。逃げることなどできない、もう役目に殉ずるしかないのだと嫌になるほど主張してくるのだ。
ここに来てしまった時点で、お前の命運は尽きているも同然なのだから、と。でも。
――嫌。このままじゃ、終われない……!このまま、よくわかんないものに何もかも滅茶苦茶にされるなんて、そんなの絶対嫌……!
正義感が強い方だなんて、自分でも思っていなかった。それでも自分にも理性があり、良心がある。誰かの為に何かをしたい、何もできないまま見捨てたくないと思うくらいの気持ちはあるのだ。
あの四谷由梨、という女性。明るくて、元気がよくて、芯が強そうに見えた。いつも臆病で人見知りな杏奈が、持っていないものをきっと持っているのだろう。ああいう女性にずっとなりたかった。自分には絶対無理だとわかっていても、憧れ続けていたのだ。
彼女を助けることができたら、自分も少しは、自分を好きになれるだろうか。
この呪いとしか思えない空間で、少しは救われることもあるのだろうか。
「!」
ピンポーン、とまたしてもインターフォンが鳴った。びくり、と肩が跳ねる。またあいつらが来たのだ、と察した。壊れて鳴らないはずのベルが鳴るというのはつまり、そういうことでしかあり得ないだろう。
――ま、負けるもんか。
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、と繰り返し音が鳴り響く。がくがくと震える体を叱咤し、杏奈は玄関を振り返った。
――負けない、絶対……!
そのためには、できることをしなければいけない。
一体自分達が何に脅かされているのか、それを知らなければどうにもなるまい。