<3・住人。>
八幡マンションは、全室が埋まっているわけではない。
ポストを見た限りだと、ここに住んでいる住人は以下の通りらしい。
一階の大家さんである八幡家。
二階の201に六田さん、202に九崎さん、204に一井さん、205には彼氏の二階堂伊織の家。
三階の301にさきほど会った七海さん。303が自分、四谷。304に五里さん。
四階は見たところ、405号室の三ノ宮さんしか住んでいないようだ。
――他は全部空室、なのかな?
まずは大家さんから挨拶をと思ったが、生憎その時は留守だった。他の家ならポストにお土産と手紙を入れていくだけでいいかもしれないが、さすがに大家さんは顔を見て挨拶をしないとダメだろう。ということで、後に回すことにする。
さらに残念ながら201の六田さんと、202の九崎さんは共に留守だった。そこで仕方なく204の一井さんに声をかけることにする由梨である。
インターフォンを押すと、女性の声で返事があった。
『はい?どなた?』
「あ、あの、こんにちは!私、上の303号室に引っ越してきました、四谷由梨と言います。ご挨拶に参りました!」
『あら、そうですか!ちょっとお待ちくださいねー』
由梨は思わずほっとした。杏奈からは、ちょっと変な人が多いみたいなことを聞いていたからだ。ぱたぱたぱた、と室内を駆ける音と複数の話声がする。ドキドキしながら待っていると、がちゃりとドアが開いて男女が顔を出した。
「こんにちは、えっと……四谷さん、だったかしら?」
挨拶をしてくれたのは女性だった。髪の毛をお団子状にまとめた、三十代くらいのちょっとぽっちゃりした女性である。その手には、赤ちゃんをだっこしていた。
「あたし、一井愛子と言います。この子、あたしの息子の一井悠よ。ほら、悠、挨拶してねー?」
「あばばば、ばううう?」
水色の服を着た赤ちゃんは、まだ生後半年程度だろうか?もみじみたいな小さな手を伸ばして、よくわからない喃語を喋っている。本人なりに挨拶してくれているつもりかもしれない。可愛い、と由梨は手を振った。
「はあい、よろしくね」
「あばう?」
「将来イケメンになりそうですね。かっわ……。あ、私四谷由梨です。一人暮らしなんでそんなにうるさくしないとは思いますが……あの、これ」
小さい子と動物に弱い由梨である。思わず顔がにやけてしまう。とりあえず、奥さんは赤ちゃんを抱っこしていて大変そうなので、旦那さんにクッキーを入れた小さな紙袋を渡した。
「……どうも」
旦那さんは無口なタイプらしい。体格は結構がっしりとしていて、背も180cmは軽く超えていそうだった。ぺこり、とおじぎをして紙袋を受け取る旦那さん。そんな彼を、愛子がどついている。
「ちょっと、挨拶くらいしたらどうなの?新しいお仲間なのに!……ごめんなさいね、この人無口なもんだから。ほら、名前くらい自分で言いなさいよ!」
「……一井達久、です」
「ど、どうも」
やっぱり口下手なタイプだったんだな、と苦笑いする由梨である。
そのあとは、少しの間ひたすら愛子がおしゃべりをする時間だった。あの夫婦は、間違いなく旦那さんが奥さんの尻に敷かれているのだろう。まあ、それで案外うまく回っているのかもしれないが。
***
205は伊織の部屋なので挨拶の必要はない。301の七海杏奈にはもう挨拶したので、次に向かうべきは304の五里さんである。インターフォンを鳴らすと、眼鏡をかけた痩身の若い男性が顔を出した。
「こんにちは」
「こ、こんにちは……」
どこかオドオドした人物である。年は三十前後だろうか。なんだか世間一般が想像するオタクっぽい――なんて思ってしまうのは、彼がチェックのシャツに着古したジーパンといった姿だったからかもしれない。
「あの、私303号室に引っ越してきました、四谷由梨と申します。五里さん、でいいんですよね?あの、これ大したものじゃないですが」
「あ、ああ。挨拶ですか、どうも。フリーターしてます、五里琢磨です……」
彼はおずおずと由梨の手から紙袋を受け取った。職業は特に訊いていないのだが、自分から答えたのは癖のようなものなのだろうか。
「あの」
琢磨は上から下まで由梨の姿を観察すると、少しキョドるような口調で言ったのだった。
「その。えっと、なんていうか……なんでこのマンションに?」
「え?どうして、ていうと?」
九月に引っ越してきたから不思議に思った、というやつだろうか。由梨が首を傾げて尋ねると、そうじゃなくて、と彼は続ける。
「このマンション、なかなか見つけられないみたいだから。その、よくわからないけど、誰か知り合いがこのマンションに住んでて、呼ばれたとかなのかなって……。僕も、元々この部屋に住んでた友達に呼ばれたみたいなやつだし……」
「呼ばれた?」
「あ、いえ、その、なんていうか、別に、深い意味はないんですけど……」
ごにょごにょごにょ、と段々声が小さくなってしまう。何が言いたいのかよくわからなかった。元々、五里琢磨の部屋には別の友人も一緒に住んでいたとか、そういうことだろうか?
「あの、205号室に彼氏が住んでて。だから私も近くの部屋に住みたいなーって、それだけなんですけど」
行方不明になったとか、そういうことまで細かく話す必要はない。簡潔に理由を話すと、そうですか、と琢磨は沈んだ声を出した。
「お気の毒に」
「え」
「い、いえ、なんでもないです……」
なんだその、意味深な言葉は。気になってしまったが、彼はそれ以上語るつもりはないようだった。最後は何やら意味のわからないことをぶつぶつ喋って、そのままドアを閉められてしまったのである。
――え、え?何?なんかものすごく引っかかることを言われたような……。
こちらは一応、彼氏の伊織が神隠しに遭ったかも?ということをうっすらぼんやり疑ってここにいるのである。琢磨は何かを知っている、ということだろうか。伊織の部屋番号を言った途端、琢磨の顔色が変わったような気がするのだが。
――一応、今度もう少し詳しく話、訊いてみようかな。
多分、悪い人ではない。
なんとなくそう結論を出し、由梨は次の部屋へ向かうことにしたのだった。
***
四階は、本当に405号室の三ノ宮さんしか住んでいないようだ。他の部屋は、ドアポストにガムテープが張られて何も入れられないようになっていた。既に日は陰っている。他にも作業はあるし、急がなければなるまい。
405号室のインターフォンを鳴らすと、すぐに「はい?」と不機嫌そうな声が聞こえてきた。しゃがれた男性の声だ。
「あ、あの、私、下の303号室に引っ越してきた者です。四谷由梨と言います。ご挨拶と、粗品を持ってきまして……」
喋っている途中で、がちゃりとドアが開いた。現れたのはぼさぼさの髪をした中高年くらいの男性だ。お腹がでっぷり出ていて、いかにも不健康そうな顔色をしている。一人暮らしなのか、と思いきや彼の背後からは犬の鳴き声が聞こえてきていた。
――あ、あれ?このマンション、ペット可だったっけ……?
思わず脳裏で規約を確認してしまう由梨である。とはいえ、初対面の、いかにも〝不愛想です〟を顔に貼り付けた男性に、いきなりそれを突っ込む勇気がないが。
「は、はじめまして……」
掠れた声で挨拶すると、ふん、と彼は上から下まで由梨を値踏みした。さっきの琢磨と同じだ。違うのは――その視線が、明らかに由梨の胸元で止まったことである。
――こ、こいつ……。
思わず頬が熱くなってしまう。間違いなくエロオヤジだ、と確信してしまったからだ。自分の胸がそこそこ大きいことは由梨自身自覚もあったが――初対面の女性の胸を凝視する男に、ろくな奴はいないのである。いくら、こっちがかっちり上着を着ていて、露出度ゼロの服装だったとしてもだ。
「……三ノ宮敦彦だ」
彼がそう自己紹介して紙袋を受け取るのと、奥から犬が駆けだしてくるのは同時だった。
――お、おいおい……。
由梨は思わず呆れてしまう。ペット禁止の家で犬を飼っているだけでどうかと思うのに、飛び出してきた犬は明らかに大型犬だった。ラブラドールレトリバーか、それによく似た雑種だろう。毛がやや短く、耳が垂れている。色は一般的に見るラブのイエローの毛とは違い、チョコレート系の色をしていた。いわゆる“チョコラブ”というやつなのだろうか。
「ったく、出てくるなっつっとるのに」
敦彦は不機嫌そうに大きな犬を抱き上げた。イライラした口調だが、よっこいしょ、と犬を抱っこする手つきは存外優しい。見た目ほどイヤな人ではないのだろうか。
「こっちはうちの犬のチョコだ。……犬が嫌いとか言わないだろうな」
「と、とんでもないです!すっごく可愛いです」
「ならいい。……用件は済んだだろ、とっとと帰ってくれ」
「は、ハイ!」
有無を言わさぬ口調。あっさりと敦彦は愛犬を抱きかかえたままドアを閉めてしまった。ぽつーん、と後に残される由梨である。
「……わんこ、触らせてもらえなかった、残念」
ついつい口に出してぼやいてしまう。大型犬をペット不可のマンションで飼うのはどうかと思うが、それはそれとして可愛いとは思うのだ。特にラブラドールは好きな犬種である。かなり人が好きそうな印象だったし、せっかくならナデナデさせてもらいたかったところだったのだけれど。
――大家さん、把握してるのかな。まあ、あの子大人しそうだったし、吠えたりしないからバレてないのかもだけど……いや、でも、散歩には行くよな?マンションの前通ったら普通にバレそうだけど……。
もう一度二階と一階の様子を見に行くべきかどうするべきか、と迷う。特に大家さんには、できれば今日中にご挨拶を済ませてしまいたいところだ。
405号室は、外階段の真横にある。エレベーターホールと内階段があるのは401号室の隣だ。この場所なら外階段から下へ降りればいいかなと、そちらに足を向けようとした時だ。
ぱたぱたぱたぱた。
「んあ?」
何かが走るような音が聞こえてきたのである。
それも、405号室の隣――空き部屋であるはずの、四階の他の部屋の方から。