<28・由梨。>
喉の奥から、掠れた声しか出ない。
あたしとお兄ちゃんは、磔にされていた板を倒されると、そのまま両手両足を抑えつけられた。あたしもお兄ちゃんも全身泥だらけ排泄物まみれの汚い状態。汚いから触りたくない、臭い、と村人たちが嘲り笑う。あたし達をこんな目に遭わせたのは、みんなあいつらだっていうのに。
それでも縄を外してもらった時は、まだ微かな望みがあった。彼らだって人の子だ。良心の呵責はきっとあるはずだ。いくら和乃江村で双子が禁忌だからって、あたし達みたいな子供を酷い目に遭わせることに罪悪感の一つもないはずがないんだ、と。
でも違った。
縄を外したのは、縄が邪魔だったからに過ぎない。
何の邪魔だったのか。あたしはすぐに、それを思い知ることになる。
『うちの神さんには、お願い事をする時、獲物を捻じ曲げて捧げる風習があるんじゃ』
村長らしきおじさんがそう説明した。
『小さな願いには小さな獲物でええ。それこそ、カエルとか小鳥でええ。でも大きな願いには、大きな大きな貢物がなければ釣り合わんからな。この村で起きている殺し合いを止め、さらに日本が勝利してみんなが飢えない平和な世の中を作って貰うためには……人間の、忌むべき双子の生贄が丁度ええんじゃ。理解しちょれ』
『いや、いや!生贄になんかなりたくない!死にたくない!』
『わがまま言うでない、お前さんらも十を超えちょるんじゃろが!みんなたくさんたくさん我慢してここにおるんじゃ、お前らも我慢せい!』
『いやあああああああああああああああああああああ!』
我慢ってなに、と思った。
みんな我慢していると言うけれど、儀式の生贄になるのは自分とお兄ちゃんだけじゃないか。他の人は、水ももらえずに乾きに苦しむことなんてない。おしっこやうんちを垂れ流しでほったらかしにされることもない。ご飯も食べられずにお腹をすかせて、雨風に野ざらしにされることもない。そして、石を投げられて、殺されることもない。
それは全部あたしとお兄ちゃんだけ。
双子だったから、それの何がいけないっていうんだろう?確かに、双子を不吉だと考える人がいるのは知っている。でも大好きなお父さんとお母さんは、あたし達を二人とも同じくらい愛してくれた。大事にしてくれた。お父さんはきっと戦争で、悪い奴をやっつけて帰ってきてくれる。お母さんは東京で、あたし達の帰りを待って頑張ってくれている。それは幸せなことじゃないのか。それを、何故罪のように言われないといけないのか。
『いや、いや、いやっ』
願いを聞き届けてくれる救世主は、現れない。
村のおじいさんが、あたしの左手を掴んだ。他の人が腕を抑えつけている中、力任せにあたしの手首をねじり始める。
『い、痛い!やめて、おててが壊れちゃう!やめて!』
『うんぬううううううううっ』
『痛い!痛い、いた、いぎいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!』
きっと、村でも力自慢のおじいさんだったんだろう。ぎしぎしぎし、みしみしみし、という音と共にあたしの手首が一回転し、関節がぼきぼきと音を立てて破壊された。凄まじい激痛に、あたしはおしっこをまき散らしながら泣きわめく。
隣を見れば、お兄ちゃんも同じ目に遭っていた。最悪なことに、それで終わらせるつもりはないようで、こんどはぶらんぶらんになってしまった手首を離して、あたしの肘関節を破壊しにかかる。いつも折れ曲がる方向と反対方向へ、ゆっくりと圧力がかけられていく。
『いやああああああ、痛いの、痛いの、痛いのおおおおおお!もうやめて、やめ、ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!』
あたしの腕が、まるで紙きれのようにおかしな方向へ折りたたまれていく。肘が変な方向に曲がって、関節から白い骨が飛び出した。それが終わると今度は肩に手をかけられる。おじいさんは、痛くて痛くて泣き叫ぶあたしを煩いと殴りつけながら、あたしの肩を車輪でも回すみたいにぐるんぐるんと回して、ねじった。骨が折れて、皮膚がねじれて、腱がちぎれて、地獄のような痛みを生む。
それで終わりではない。悪魔のようなあの人達は、左手が滅茶苦茶のゴミ屑のようになったら、今度は右手で同じことをするというのだ。
『お前さんたちの四肢、全部でそれをやるからな。それまで痛みで死んだりすんじゃあねえぞ』
あたしの両手は、あっという間に肉と骨の混合物になった。ぐちゃぐちゃにねじれて、折れて、痛くないところがどこもなかった。肉の破片をぶらぶらとぶら下げているだけで激痛が走り、自分の腕ではないみたいだった。
両足は腕より太いから、村の人たちも少し手間取っていたようだ。だから、先にトンカチで膝や足首といった関節の骨を砕いてから捻じ曲げた。あたしは段々と、おしっこを漏らすこともできず、ぶくぶくと白目をむいて泡をふくしかなくなっていた。
どうしてこんなに痛いばっかりなのに、まだ死ねないんだろう。まだ意識があるんだろう。こんな理不尽なことが、この世にあるんだろうか。
『もう、こ、どじ、で……』
殺して。さっさと頭を割るなり、首を切るなりしてくれれば苦しみは終わるのに。あの人達はそれさえしてくれない。苦しみが長ければ長いほど効果があるんだ、とにべもなく告げられた。
あたしとお兄ちゃんは一枚の板を挟んで背中合わせに括りつけられる。両手両足がちぎれそうになっているから、胴体と首だけ縄で縛られた。そして、そのまま鎌口川に落とされたのだ。
全身の傷に、冷たい水が染みる。泳ぐこともできないので、口にどんどん泥まじりの水が入ってきて、苦しい。気づけば、お兄ちゃんが何も言わなくなっていた。あたしより先に、息耐えてしまったんだと察した。
――あたし、ひとりぼっちだ。
溺れる苦しみ、冷たい水の苦しみ、砕かれた両手両足の苦しみ。
そして――あたしとお兄ちゃんをこんな目に遭わせた奴らへの、憎しみ。
――ゆるさない。
平和なんて考えてやるものか。
あたしが、あたしが願うのは――望むのは。
***
「な、んで……」
既に白骨化した、二つの遺体。その遺体の上にお守りを乗せて、由梨はぽろぽろと涙を流していた。
双子の恨み、憎しみが伝わってくる。その記憶に同情してしまう自分も少なからず存在する。
だが、今はそれ以上に――動揺が、強い。
「『アズラバルエ、テリア、ノクティスランゲエ、アナ、マンテンレンバ!アズラバルエ、テリア、ノクティスランゲエ、アナ、マンテンレンバ!アズラバルエ、テリア、ノクティスランゲエ、アナ、マンテンレンバ!アズラバルエ、テリア、ノクティスランゲエ、アナ、マンテンレンバ!』……なんで、なんで、なんで!?やり方は、間違ってないはずなのに……!」
何度唱えても、何も起きない。お守りが一瞬、微かに震えたように見えたがそれだけだった。否。
それどころか――赤いお守りが、どんどん黒ずんでいくように見えるような。
「……それはそうよ」
ぎょっとして振り返った。死体の山の前、一人の女性が立っている。眼鏡をかけた中年女性。大家である八幡家の嫁、八幡美恵子だとすぐに分かった。
不思議なことだ。闇の中、ライトで照らしていないのに、彼女の体だけがくっきりと浮かび上がっているのだから。
「あなた、気づいていなかったの?……あなたはもう半分、このマンションの住人になりかけている。儀式のやり方は知っていたけれど、それでもわたくし達はあなたがやることを全て放置したのです。何故か?汚染が進んでしまっていれば、儀式は逆効果になり……決定打となると知っているから」
「お、汚染って!私、そんな……まだオバケに殺されてなんか……」
そこで、やっと由梨は、己の致命的な失敗に気付いた。確かに自分はまだ、かろうじて生きてはいるはずである。しかし。
『だから、由梨さんにお茶も出しませんでした。死んだ人間であるわたしが食べ物を出したら、それが黄泉戸喫になってしまう可能性があるから……』
『落ち着くでしょ?お義母さんがどっかで買ってきたお茶らしいわ。伊勢だったかしら?ちょっと場所は忘れちゃったんですけど』
自分は、引っ越し二日目にはもう――八幡家でしてしまっている。
美恵子にお茶を出されて――黄泉戸喫を。
「少しでも早く、仲間にしたくて。……最初に布石を打っておいて、本当に良かったわ」
死体の中から、次々と人が立ち上がってきた。美恵子に、その夫と思しき男性、子供と思しき者達。九崎律花に、五里琢磨に、六田遥と六田忍に、三ノ宮敦彦に、七海杏奈に。
そして。
部屋の隅でただ一人、泣いている男性が。
「……ごめん、伊織」
彼は最後まで自分を信じてくれたのだ。でも、自分はもう、とっくに戻れないところに来てしまっていた。
「本当に、ごめん」
努力が報われるとは、限らない。真実が優しいとは限らない。神様がいるとは限らない。そして、祈れば叶うほど、優しい世界などではない。
山ほどの手が自分の体に伸びてくる。そして、棺の中へ押し込んでいく。
由梨は絶望の中、そっと目を閉じたのだった。
***
『うん。ありがとね、沙梨。また電話しよ』
姉は最後に、自分にそう言った。その声を、言葉を、今でもはっきり覚えている。
それなのに。
「アネキの、嘘つき……」
四谷沙梨は、目の前の灰色のマンションを見上げて呟いた。姉の由梨が連絡を絶ってから、一か月。本当はもっと早く此処に来たかったが、準備に手間取って遅くなってしまったのだ。
そう、準備だ。――自分がここ、八幡マンションに引っ越すための。
姉が住んでいた部屋の隣、302号室が空いているというので、そこを借りることにしたのである。なんとなく、予感がした気がしたからだ。ここを借りて住めば、姉が失踪した理由がわかるような気がする。何より。
――アネキが、あたしを呼んでる気がする。
自分に来て、本当のことを知って、見つけて。妹である自分に、そう呼びかけているような気がしてならないのだ。
だから、沙梨は決断した。両親の反対を押し切り、一人でこのマンションに住むことにしたのである。すごく見つかりにくいマンションだったので不安だったが、管理会社を発見すればもうあとはすぐだった。
このマンションで、姉は突然いなくなったという。
姉が探していた恋人の伊織も同じ。そういえば、伊織の友人も、今度四階に引っ越すことにしたと言っていたような気がする。なんにせよ、みんなで協力すれば、きっとなんらかの手がかりが見つかることだろう。
「待っててね、アネキ。必ず……見つけてあげるからね」
沙梨は口に出してはっきりと宣言すると――エントランスの硝子扉を押し開けて、中に入っていったのだった。




