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<27・双子。>

 空気が、重たい。

 それこそ、緩やかに重力が強い場所へ降りていっているような、そんな錯覚を覚えるほどに。


――気持ち悪い。


 軽い吐き気とめまいを堪えながら、由梨はゆっくりと梯子を降りていく。全身を真綿で締め付けられている、というより上から抑えつけられているような感じとでも言えばいいのか。それも、綿のようなふわふわで優しい素材ではなく、どこかねっとりとした、触れた途端に腐った油が体にまとわりつくような何か。

 自分は今までの人生で、このようなものを浴びたことも、向けられたこともない。それでも直感する。

 これが、憎悪というものなのだと。

 それも、特定の一人の人物ではない、無差別な相手に向けられたどこまでも純度の高い憎悪。この先にいる存在はもはや、特定の存在を恨むことさえ諦めて、四方八方に恨みをぶちまけてしまっているのだ。


――それも、そうだろうな。


 あまりにもやりきれない。由梨は唇を噛みしめる。


――だって、もう……双子を苦しめて儀式の生贄にした人も……八幡ビルの下に埋めた人もみんな死んでる。死んでるのに、恨みが消えないんだから。


 その者達を殺しても、晴れない怒り。否、殺してしまったからこそ恨みの行き場がなくなっているのだろうか。

 恐らく八幡家の家族も最初はそんな話は知らなかったはずだ。知っていたところでどうしようもなかったとも言える。なんせ、双子の力を使って名誉を得てしまったのは今は亡き賢治の祖父であり、その名誉の上に自分達がいるとわかっても没落するかもと思ったらそうそう祓うことなどできるはずもない。

 否、仮に成仏させてやろうと思ったとて、恐らくこの怨霊はもはや正攻法で鎮められるような存在ではなくなっている。浄化しようとしてかえって悪化させてしまった九崎辰夫がいい例ではないか。

 儀式を使って鎮魂を祈る。そのやり方は、そもそも現場に足を運んで調べていなければ知りようもない。

 だとすれば少なくとも――ああ本当に少なくとも、達治以外の八幡家の人も、そのあとこの八幡マンションに引っ越してきた人も何も悪くなかったのは間違いなくて。


――終わらせなきゃ。


 靴下を履いた足に、梯子の鉄棒が冷たく触れる。人様の家に入るのに流石に抵抗があって靴を脱いできてしまったが、それも失敗だったかもしれないと少しだけ思う。この地下室は非常に埃っぽいし、土足で入っても良かったような気がしている。

 段々と気温が下がってきた。そう感じるのは、今が九月の夜だから、というだけではないだろう。

 降りる時はさすがにスマホを手で持てないので、視界は完全に真っ暗闇である。やがて、足がコンクリートの床に触れた。どうにか底についたようだ、と安堵の息を漏らす。あと少し。あと少しで、最後の場所に辿り着けるはずだ。


「……このドアか」


 底に到着したところで、由梨はポケットから再びスマホを取り出して照らした。真四角の狭い空間に、ぽつんと木製のドアが一つあるのみ。

 自分が降りてきた梯子は結構錆びていたようだ。錆びで汚れた己の手を見て「げっ」と小さく声を漏らす。この分だと、靴下も赤さびで酷いことになっているだろう。

 思ったより深くまで降りてきたのか、天井にライトを向けると出口がかなり遠い位置にあった。マンションの下に、こんな深い地下空間があろうとは。

 そして、ここまで深く穴を掘ったのも、きっと理由があるということなのだろう。


――鍵、壊れてる。


 木製のドアには、南京錠のようなものがぶら下げてあった。が、それはまるで、何かにねじ切られたかのように破壊されている。まことさまが自分の力で壊したのか、あるいは別の誰かが壊したのか。いずれにせよ、中に入るための障害にはならないようだ。

 ごくり、と唾を飲みこみ、ノブを握った。氷のように冷たいそれを、力をこめて回す。ゆっくりと押してみると、ぎぎぎぎぎぎぎぎ、と嫌に軋む音を立てて開いていった。途端。


「うっ」


 鼻孔を突き刺す、凄まじい腐臭。


「げほっ!ごほ、ごほっ……げっほ!」


 思わず、激しく咳きこんでしまった。じわ、と目に生理的な涙が浮かぶ。

 小説で読んだロンドンの死体安置所の話を思い出した。冷蔵庫なんか何もなかった頃のモルグというのは、こんな臭いがしていたのだろうか。まるで、死体を大量に押し込んで、圧縮して、そのまま放置したかのようなひどすぎる臭いだ。

 梯子を降りている時も多少感じていたが、今はその非ではない。


「ううううっ……」


 入りたくない。

 でも、行くしかない。


「ああ、もう、もうっ………!」


 ここまで来て逃げることはできない。鼻で息をしないように気を付けながら、一歩中に踏み込んだ。

 途端、べちゃり、と靴下が濡れたものを踏む。ただの液体ではない。何かぬめっとした肉の塊のようなもの。生きたカエルを踏みつけたような感覚に背筋が泡立った。

 そして、スマホで照らされた光景は。


「ひ、ひいいいいいいいいいいいいっ!」


 もはや、絶叫も出ない。由梨はその場で腰を抜かしそうになったのを、ギリギリで堪えていた。

 恐らくは、元々はだだっぴろいだけのただの部屋だったはずだ。さながら炭鉱のように、穴を掘り、それを木製の板と土で固めたような壁があったとか――そんなところだったと思われる。

 それが、〝だったと思われる〟としか表現できない理由は、ライトで照らしてなお暗いからだけではない。

 真っ赤だからだ。

 壁も、天井も、床も。どこもかしこも血と、肉塊と、骨の欠片のようなものが積み上げられているのである。ほとんどが腐り果て、原型をとどめていなかった。ごく一部だけ、まだ人の形を保っている遺体があるのみだ。

 そのうちの一つが、ボブヘアーの女性の死体だと気づいて言葉を失った。うつぶせている上、手足が無茶苦茶に捻じ曲げられているので断定はできないが――あれはもしや、杏奈の死体ではなかろうか。もしかしたらこのどこかに、伊織の遺体も紛れている可能性がある。もしそうだったらどうしよう、という気持ちが探索の手を鈍らせた。

 血と、臓物と、骨と、死体と腐肉。

 その真ん中に、真っ黒な棺のようなものがある。紫色の紐が、棺に絡みついていた。恐らく元々は棺を縛っていたものだったのだろう。それが、あちこち切断され、ほどけてしまっている。もしかしたら、これをやってしまったのは九崎辰夫だったのだろうか。


「はあ、はあ、はあ……」


 由梨は、ゆっくりと震える手を棺に伸ばした。お守りは一つしかない。中に本当に、双子の遺骨が入っているか確認しなければ。


――あるはず。ここで間違いだったら、もう……。


 由梨が棺の蓋をずらした、次の瞬間だった。


「!」


 中から伸びてきた白い手が、由梨の手首を掴む。そして、頭の中にビジョンを叩きつけてきたのである。




 ***




『あんたらのせいじゃ』


 かつん、かつん、かつん。


『あんたら双子なんぞがここに来るから、災いを招いたんじゃ。ああ、疎開の子供なんぞ、受け入れるべきじゃあなかった!わしらが作った食べ物を、お前らなんぞにわけてやるべきじゃあなかった!』


 かつん、かつん、かつん。


『おまえら学校の子供と、先生が憎い。でも、その憎しみは、お前ら二人が全部受け止めろ。そうして、その恨みを浄化して、このおっそろしい戦争を日本の勝利で終わらせるんじゃ……!鬼畜な者どもがいなくなれば、また日本は、わしらの生活は元通りになるけ……!!』


 訛りの強い言葉が、石とともにあたしとお兄ちゃんに投げつけられる。痛い。すごくすごく痛い。目に当たって、破片が入った。すごく痛いのに、目をこすることもできない。縛り付けられたまま、誰もこの紐をほどいてくれない。

 もう二日くらい、あたしとお兄ちゃんはここに縛り付けられたまま。石を投げつけられて、体中から血が出てる。それに、お便所にも行かせてもらえないから、スカートはもうおしっこまみれだ。


『おにいちゃ……痛いよ。喉かわいたよ……うんち、したいよ』

『真子……』


 首だけは辛うじて動く。隣で縛り付けられたお兄ちゃんは、自分も苦しいはずなのにあたしを励ましてくれた。


『大丈夫だ、真子。だっておれたち、なんも悪いことなんかしてないじゃないか。たしかに、村ではひどいことが起きてしまったけど、でもおれたちが何かをやっちまったわけじゃない。ちゃんと訴え続ければ、きっと村の人もわかってくれる。苦しいけど、それをちゃんと言い続けるんだ。あとちょっとで、きっと解放してもらえる……』


 そんなものが希望的観測だってことくらい、お兄ちゃんにもわかってたはずだ。でも、それでもあたしの心が折れないように、必死で励まし続けてくれたってことなんだろう。

 そうじゃなきゃ、生きることを諦めてしまう。自分達が悪かったかもしれないなんて、そんな気になってしまう。わかってる、お兄ちゃんが正しい。

 でも、あたしは――もう喉の渇きにも、石の痛みにも、おしっこまみれの不衛生な体にも耐えられそうにない。それどころか。


『う、うううううっ』


 この山は、春でもかなり冷え込む。今日もかなり寒い日だった。ただでさえお腹を冷やしやすいあたしが、お腹を壊してしまうには充分だったわけで。

 お尻から、嫌な音がした。ぶちゅぶちゅぶちゅ、という音とともに、下着とスカートが濡れていくのがわかる。凄まじい匂いとともに、どろどろと生暖かいものが太ももを伝うのがわかった。こんなのは、人間じゃない。人間の扱いではけしてない。

 あたし達はたまたま疎開に来ただけで、そしてたまたま双子だったというだけで――どうしてこんな酷い目に遭わされないといけないんだろう?


『だれか、たすけて、たすけて……』


 絶望の淵。この世界に神様なんていないことを、あたしは嫌になるほど思い知るのだ。

 だってそうだろう。日が少し陰ってきた頃になって、村の人たちが再び現れたと思ったら――とんでもないことを言い出すのだから。


『お前たちに、儀式の仕上げを施す。そして、聖なる川に流す』


 神様はいない。

 この世にいるのは、地獄の鬼より残酷な人間だけだ。

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