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<26・手紙。>

 貰った〝お守り〟の多くはバッグの中に入れて部屋に置いてきてしまった。一階まで階段を駆け下りてから事態に気付いたが、時すでに遅し。残っているのは、ポケットに入っている一つだけである。

 こうなった以上、この残った一つで対処するしかない。多分、一つだけでもあれば効果はあるはずである。


『ええか、由梨さん。……和乃江村の儀式の印。わしらはお守りとして、それを刻んだ人形とかお守りとかを作り続けちょる。少しでも、あの悲劇を忘れたらあかん。そもそもわしらが、一部だけでも疎開の子供らを受け入れとったらこうならなかったかもしれんちゅう、負い目もあるでな』


 弓子はそう言いながら、十個ほどのお守りを由梨のバッグに入れてくれたのだった。


『わしらが知っちょるのは、おっかあや人伝に聞いた情報じゃけ、どれくらい正しいかもわかっちょらん。それに、わしらは素人でお前さんも素人じゃ、効果は薄いかもしれん。でも方法があるとしたら……この印のお守り使って、もっぺん儀式を行うことやけん。それも、今度は誰かを犠牲にする儀式じゃのうて、生贄になった子らを成仏させるための儀式じゃ』


 彼女いわく。

 まだ生きている人間、八幡マンションに汚染されていない人間が彼らの遺体を見つけて儀式の呪文を唱えて祈れば、成仏させてやれる可能性があるという。

 ただし、儀式には危険が伴う。まことさま、の汚染を受けた人間や死者が行えば、逆に引きずり込まれて自分も怪異の一部になってしまうかもしれない、と。


『……ぼかしちょったけど由梨さん、実は危ない目に遭っちょるじゃろ?ただ、可愛そうな子らを成仏させたいとか、課題のためだけとちゃうやろ?……年寄りをなめたらあかん、それくらいわかる。逃げられるなら逃げた方がええ。でも、逃げられんなと思ったら……自分も怪異の一部になる前に、試す価値はあると思うで』


 お守りは、一つだけ。力不足かもしれない。でも、儀式の呪文も聞いたし、帰りに電車とバスの中で必死で覚えた。あとはもう、この呪文とお守りに賭けるしかあるまい。

 問題は。

 伊織も疑っていた、地下というのが――一体どこにあるか、ということ。


「ど、どうしよう……」


 一階のエレベーターホールまで降りてきたところで、由梨はエレベーターを覗き込んでいた。

 やはり、エレベーターには一階から四階までの行先表示しかない。地下室がある、なんて認識ではない。そして階段は、ホールの内階段ももう一つの外階段も地下へは続いていない。

 地下室への入口があるとしたら八幡家の家の中だろうが、果たして中に入れて貰うことはできるのか。いや、入ったところで人様の家で、罠である可能性が高い。広い家の中を探索している余裕などないだろう。


――どうすればいいの、伊織……!


 階段を見る。エレベーターを、もう一度見る。

 今のところ追手が来る様子はない。今なら――このまま飛び出せば、八幡マンションから逃げることもできるのかもしれなかった。しかし。

 そうなったら逆にもう二度と此処に来られない可能性もある。

 このマンションは、明らかに現実世界に存在していない。何度も接点が消えかけている。関わりが途絶えた人間はもう、そこに踏み込むことなどできなくなるのだろう。


――逃げる?……そんなこと、できるの?


 硝子扉の向こうを見た。普通の夜の風景だ。目の前に道路があって、少し離れたところに横断歩道が見えて。まだ深夜というほどの時間ではないから、車が通り過ぎるのも見える。犬の散歩をした若い男性が歩き去っていく姿も見えた。あそこにあるのは、現実だ。ここを飛び出せば、一時だとしてもその現実に逃げることができるだろう。

 でも、それで本当にいいのか。

 伊織を忘れて、杏奈を見捨てて、自分だけ逃げるなんてそんなことが。それで自分は、本当に後悔せず幸せに生きていくことができるとでも?


――それは……でも、本当に私に、あんなオバケみたいになってしまった人達を助けられる?あんな恐ろしい力を持ったまことさまとやらを浄化できるの?霊感なんて全然ないのに……!


 ぎゅっと目を閉じた時だった。かたん、と軽い音を耳が拾う。

 はっとして顔を上げた。音がしたのは、エレベーターホール内にあるメールボックス。由梨の部屋、303号室のポストの端から、何か茶色い封筒のようなものが覗いているではないか。

 まるで、たった今誰かが投函したかのような。


「……杏奈ちゃん?」


 何故か、そう確信していた。彼女の姿は見えなかったが、これは彼女のメッセージに違いないと。思えば、彼女と初めて出会ったのもこの一階のエレベーターホールで、ポストの前だった。ひょっとしたら杏奈なりの思入れとか理由があったのかもしれない。

 由梨はダイアルを回すと、その封筒を取り出した。

 仕事で使いそうな、茶色の、味気ない封筒である。宛先も送り先も切手も何もない。そして封は、開いている。

 由梨は、中身を覗き込んだ。中には、手紙が一枚。


「こ、これ……!」


 それは、杏奈からの手紙だった。大人しくて真面目そうな彼女らしからぬ、少し荒れた文字である。まるで何かから逃げながら必死で記したように見えた。紙の折り方もかなり雑だし、ボールペンらしきインクの文字はあちこちが滲んでしまっていた。

 それでもわかる、伝わる。

 そこには杏奈が八幡家に突撃して――彼らから聞かされた話の一部始終が記されていたのだから。


『八幡家の人達は、全面的にまことさまに協力してしまっています。それで、永遠が手に入ると信じてるから。だからきっと邪魔してくる。でも、どうか、負けないで。わたしはもうなにもできないけど』


 きっと、泣いていたのだろう。涙らしき染みが、最後の行に大きく落ちていた。


『それでも、わたしは……あなたを応援しています。負けないで、由梨さん。 七海杏奈』


 彼女のおかげで、理解できた。まことさま――双子の兄妹が、何故この八幡マンションに縛り付けられたのか。

 八幡賢治の祖父、八幡達治がやらかした大きな罪。流れ着いてきた死体をこの土地に封印して、その力で富を築いたという現実。そのせいで、子孫代々に至って呪いを繋げることになるとは思いもせず、本人はあっさりと老衰で亡くなったというわけだ。

 忌々しいと思うが、恨み言を言うのは後だ。

 キッチンの左隅。勝手口のすぐ前に、地下室への入口がある。

 そこ下にきっと、まとくん、まこちゃん兄妹の遺骨が眠っているのだ。浄化の儀式をやるためには、そこまで辿り着かなければいけない。


――そうだね、杏奈ちゃん。今更引き返すなんて、考えた私が馬鹿だった。


 ここで自分が逃げたところで、事態は悪化の一途をたどるだけだ。杏奈が八幡家の人達から聞いた話が本当ならば、彼らはこれからもえんえんと住人を増やし続けることだろう。それこそ、いつかこの地球上から全人類がいなくなるまで同じことを続けるかもしれない。

 少なくとも――次に犠牲になるのは、由梨の大切な人かもしれないのだ。ならば怪異に気づいた自分が、対処できるかもしれない方法を持っている自分が立ち向かうしかないではないか。


「!」


 もう一度硝子扉を見た。不思議なことに、さっきまで夜だった外の光景が、白い光に満ちている。

 そして扉の前に――伊織が立っていた。見間違えるはずがない。その黄色いパーカーは、由梨が誕生日にプレゼントしたものだ。


「伊織!」


 彼は、何も言わない。ただ泣きそうな目でこちらを見ている。

 言葉はないのに、なんとなくわかってしまった。――責められている。なんでここに来たのかと。どうしてさっさと逃げてくれないのかと。だって彼は昔から、思っていることがすぐ顔に出るタイプだったから。


「……馬鹿だね。私が、あんたを残して逃げるはずないじゃん」


 都合の良い幻かもしれない。それでも由梨は扉ごしに立って、伊織の目をまっすぐ見つめる。


「それに……それにさ。あんたが……大学卒業したら結婚しようって言ってくれた時。その時、私があんたになんて返したか、覚えてる?忘れたとは言わせないよ?」




『ありがと。じゃあ……死ぬ時は、一緒。死ぬまでずーっと一緒。そういうことで、いいよね?』




「重たい台詞ぶっちゃけたとは思うけど、でも……私、嘘ついたつもりないから。あれが、あの時の、私の全部だから」


 由梨の声が聞こえたのだろうか。伊織の顔が泣きだしそうに歪んで――白い光が、消えた。再び扉の向こうに夜が戻ってくる。伊織は、ゆっくりと階段を降りていくところだった。まるで、ついてこいと言っているかのように。


「……ありがと、伊織」


 それは、彼が由梨の意志を尊重してくれた証だと、そう思えた。由梨は扉を開けて、伊織の姿を追いかける。半分透けたように見える彼の姿は、そのまま八幡家の玄関へ向かった。ドアの前で何かをしているように見える。なんだろう、と思って由梨が近づくと、そこで伊織の姿は消えてしまった。

 しかし。


「開いてる……」


 八幡家の玄関は、開いていた。否、伊織が開けてくれたのかもしれない。由梨が中を覗き込むと、玄関にも廊下にも明かりが灯っておらず真っ暗となっている。微かに壁や天井が浮かび上がって見えるのは、どこかの部屋から月明かりが漏れてきているからだろうか。

 由梨は己のポケットを探った。入っているものはお守り一つと、スマートフォンだけ。普段からスマホをポケットに入れっぱなしにしておく癖が功を奏したと言える。充電もまだ残っているし、これなら懐中電灯代わりに使えるだろう。


「……お邪魔します」


 八幡家の家族はいないのか、あるいはどこかに隠れているのか。罠だとしても、飛び込むチャンスは今を置いて他にないだろう。

 申し訳ないとは思いつつ、由梨は靴を脱いで上がり込んだ。スマホのライト機能を使って廊下を照らす始める。あまり使ったことがない人もいるだろうが、このシンプルな機能は存外馬鹿にできないものなのだ。少なくとも、災害時に安全を確保するには充分な明るさだろう。

 みし、みし、と音が鳴る木製の廊下を進み、リビングへ続くドアを開ける。やはり、他の住人がいる気配はない。リビングもキッチンも明かりが消えていて、しん、と静まり返っている。


「……あそこか」


 勝手口の前だと杏奈が教えてくれたので、非常にわかりやすかった。足元に、銀色の四角い枠のようなものが見える。地下収納に見せかけた地下への入口、ということなのだろう。手前の取っ手を引っ張ると、鍵などはかかっていないのかずるずると双が持ち上がった。

 そして、そこには梯子のようなものが。


――嫌な気配が強くなってる。……間違いない、この先だ。


 この先に、きっといる。

 まことさまの本体が。そして、全ての悲しみの根源が。



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