<25・襲来。>
そういえば、今日は一文字も原稿を書けていない。
どうしよう、と由梨は少しだけ悩んでしまった。仕事どころではない状況と言われればその通りなのだが、それはそれとして〝仕事どころではない状況〟を取引先に納得してもらうのが難しすぎる。いっそのこと、家族の誰かが病気になったことにでもしようかな、と考える由梨である。
多分今月は、いつもほど記事件数を上げられないだろう。
カップ麺を食べ終わったところで、パソコンを立ち上げた。そして、会社にメールを送信したその時である。
「……?」
きし、きし、きし。
何か、妙な音が聞こえてきた。窓の方からだ。人の足音でもなく、声でもない。カーテンを閉め切っているので外の様子は一切見えないが――一体何の音なのか。
――嫌な音。
眉をひそめる。窓枠が軋んでいる、のとも違う。そう、一番近いものと言えば、黒板を爪で引っかく音に近いだろうか。あれと比べると少しだけ不快度はマシだが、しかし長く聞いていたい音でもない。
何かが引っかかっているのか、あるいは。
「…………」
予感がした。由梨はそっと和室に入り、窓に近づく。
きし、きし、きし。
やはり、間違いない。やはりこの窓から音が聞こえてくる。まるで、何かが窓をひっかいているかのような音だ。
――また、何か死んだ人の幻が見えるとか、そういう?あるいは……。
杏奈とのやり取りを思い出す。
抵抗しようとする者がいると、悪霊はその力を増す。杏奈と伊織が由梨を助けようとした結果、かえって悪霊の反発が大きくなってしまっていると言っていた。それこそ、今夜にでも新しい襲撃がある可能性は充分考えられるだろう。
――だ、大丈夫。
確認せずにはいられない。しかし、何かあっても、窓を開けさえしなければいいと考えた。そうだ、怪談では鉄板ではないか。力の弱い幽霊ならば、こちらが招かなければ入ってこれない可能性が高い。ドアを叩かれても、見知った声で呼ばれても、無視をすればそれでいいのだと。
――万が一、入ってきても……や、やっつけてやる。私は、強いんだから……!
自分に言い聞かせて由梨は――勢いよく、カーテンを開けた。ざざざざ!という音と共に、夜闇に染まったベランダが現れる。
何もない。
安堵した、次の瞬間だった。
どんっ!
「きゃあっ!?」
窓に、血まみれの手が叩きつけられた。かなり低い位置だ。慌てて視線を下に逸らせば、窓の向こうで二つの影が這いずっているのが見える。赤い右手で、窓を叩く人物。赤い左手で、窓を叩く人物。どこか似た顔立ちの青年二人には、見覚えがある。
――そ、そんな……!
血まみれの、201号室の六田遥と、六田忍。遥が右手で、忍が左手で、窓を叩き続けている。何故反対の手を使わないのかは明白だった。――彼らはそれぞれ、片腕がないのだ。肘から少し先のあたりでちぎれ、ぎざぎざの骨が飛び出している。二人が窓を叩くたび、その折れた骨が窓や窓枠をひっかいて、軋むような音を立てていたのだ。
きし、きし、きし、きし。
きし、きし、きし、きし。
どん、どん、どん、どん。
どん、どん、どん、どん。
「アアア、ア……!」
彼らは頭からも口からも血を流しながら、ひたすら苦悶の表情で窓を叩いている。これは、幻だ。由梨はそう言い聞かせた。きっと五里琢磨が転落死した時と同じ。過去に起きた出来事を幻として見ている、それだけに過ぎないと。
しかし。
ぴし、ぴしぴしぴしぴし。
「ひっ」
窓ガラスに、ゆっくりと罅が入っていく。兄弟が窓を叩く力がそんなに強いというのか。
そして、本当は幻ではなく、実在するものだとしたら。
――は、入ってくる……!
ほとんど腰を抜かしていたが、それでも這うようにして由梨はその場を離れた。彼らはきっと、まことさまの使役霊にされているようなもの。襲ってきたところで大きな害があるとは言い切れない。
だが、少なくともまことさま本体に襲われて杏奈は拷問死させられている。まことさまに使役された幽霊たちにも同じ能力がないなどとどうして言い切れるのか。
――に、逃げなきゃ……!
由梨は何度も転びながら、リビングに戻り、廊下へ飛び込んだ。まだ、かろうじてパニックにはなっていない。慌てていたもののの、玄関で靴を履くだけの余裕はあった。
しかし。
ギイイイイイイイイイイイイイイイイイ。
今度は、ゆっくりと脱衣所のドアが開いていく。暗闇の中、脱衣所の奥――風呂場のドアも。
まるで、そこから何かが入ってきているかのように。
――なん、で。
気づいた。よくよく考えてみれば、部屋の開口部というのは窓やドアだけではないのだ。お風呂には排水溝がある。キッチンには蛇口がある。トイレからだって、人あらざる者が入り込むことができてしまうかもしれない。そう、換気扇だって。
ごぽぽぽぽぽ、と水音がした。ゆっくりと、黒く濁った水が風呂場から溢れて、脱衣所の床を濡らしていく。さらには、廊下まで流れ出してくるのだ。
鼻を刺すような、腐臭。
まるで、肉を水につけてそのまま腐らせたかのような。
「ああ、あ」
べちゃり、と風呂場のドアの向こうから、灰色に腐りかけた腕が突き出した。その腕もまた、おかしな方向にねじ曲がっている。ばきばきばき、と動くたびに折れた骨がひっかかるような音がして、手首が不自然に裏返った。
ずる、ずる、ずる、と風呂場から這い出してきて、脱衣所にでてきた怪物の姿が玄関の明かりの下に――。
「そんな……ああ、あ」
おかっぱの黒髪、長い前髪、眼鏡。
ずるずると風呂場から這い出してきた、腐りかけの水死体は――紛れもない、202号室の九崎律花のもの。
やはり、彼女ももう死んだ存在だったのだ。そして、こうして由梨を襲ってきたということは、もう。
「ごぼ、ごぼっ」
口から、濁った水を吐き出しながら匍匐前進のような形で廊下を迫ってくる律花。苦悶の表情のまま、飴細工のようにねじ曲がった手をこちらに伸ばしてくる。
「がぼぼ、ごぼ、ごぼぼぼぼっ」
「い」
窓の方で、窓ガラスが砕ける音が聞こえた。もう時間は、ない。
「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
由梨は絶叫し、ドアに縋り付いて玄関をこじ開けた。そして、転がるようにして通路へと飛び出す。
幻かもしれない。けれど、鼻につく臭いも、音も、何もかも本物にしか思えない。仮に幻でも、こんなものを見せられ続けたら心が耐えられるはずがない。
後先を考える余裕などなかった。外階段がある305号室の方へ走りだす。閉塞感があるエレベーターホールとその階段より、こちらの方が安全であるような気がしたのだ。
その選択は、誤りだった。
305号室の前を通り過ぎたところで、何かにぶつかって転ぶことになったからである。
「な、なに!?」
それは、何かもふもふとした生き物だった。尻餅をついた衝撃で痛みに呻いていると、わん!という軽やかな鳴き声が聞こえてくる。
まさか、と思って顔を上げれば、そこにはリードがない犬が座ってシッポを振っている。イエローの短い毛並み、ラブラドール・レトリーバー。なんでこんなところに、犬が。いや。
――このマンションで、犬を、飼ってる人は……!
「まったく、あいつが、あいつが余計なことをしたせいでよお」
どすん、どすん、と重たい足音が四階の階段の方から聞こえてくる。誰かが階段を降りてくる。
「あいつのせいで、おれたちは迷惑かけられっぱなしだ。冗談じゃない、冗談じゃないぞ。元々は真っ当な性格だったのに、自分のレイカンなんぞに飲み込まれて……あげく、まことさまを叩き起こすような真似をして。本当に最悪だ、最悪だ、そのせで」
誰で、あるかなどいうまでもなかった。四階唯一の住人――405号室に住んでいる、三ノ宮敦彦だ。彼はでっぷりと太った腹を掻きながら、ゆっくりと階段を降りてくる。
腹をひっかくたび、破れた皮膚の間からぼとぼとと内臓と、肉の塊を落としながら。
「そのせいで、おれたちはこんなことに。ふざけるなよ、辰夫。お前のせいでなあ……!」
べちょり、と太い腸管が由梨の足元に落下した。それだけじゃない。
強烈な腐臭に気付いて視線を戻せば――さっきまでふかふかで愛らしい姿だった大きな犬の姿が、グロテスクなそれに代わっている。
あちこち剥げて、皮膚が溶け落ち、肋骨が露出した体。どろり、と目玉が腐って零れ落ちた顔。でろ、と大きく開けた口からは腐った唾液と一緒に、黒ずんだ舌が脱落していった。
「お前だけ苦しい思いをしなくていいなんて、そんなバカな話はない。そう思うだろ?え?」
「や、やだあああああっ!」
伸びてきた手を、由梨は力任せに振り払った。叫びながら学生時代の技を本能的に繰り出している。足を払った瞬間、べちゃり、とスニーカーと靴下に臓物が飛び散った感覚があって泣きたくなった。
――いや、いや、いやっ、こんなの、いやああああああああああああ!
逃げなければいけない。血まみれの地面に手をついて、その感触に吐き気を催しても。わん、わん、と生前と同じように元気に鳴く犬の声に胸が締め付けられても。
とにかく、逃げて、生き延びなければ。そうしなければなんのために遠い山の村まで調査に行ったかわからない。杏奈が助けてくれたのかわからない。伊織を――助けに、ここまで来たのかがわからない!
――泣くな、まだ……泣いてる場合じゃ、ない……!
通路を疾走し、来た道を戻る。303号室のドアが僅かに開いていた。中からもう、律花や六田兄弟が這い出してきているのだろう。もうあそこには、戻れない。
――狂うな、絶望するな……私は、まだ、負けないんだから……!
記憶の中、伊織の笑顔を探す。
それだけが今たった一つ、由梨を支える礎の他ならなかった。




