<24・永遠。>
嫌な気配が、どんどん濃くなっている。
ごくり、と杏奈は唾を飲みこんだ。本当におかしなことだ、自分にはきっともう体なんてないのだろうに。
あるいは――いや、そんな希望はもう、持たない方がいい。
「……美恵子さんたちの主張は、わかりました」
どうにか、言葉を絞り出す。
「でも……生贄を増やして、このマンションを救われない魂でいっぱいにして……それを永遠に繰り返すつもりなんですか?それじゃあ、まことさまだって救われない!ちゃんと、成仏させてあげないと……!」
「あなたは優しいのね、杏奈ちゃん」
「だ、だってそうでしょう!?本当は、美恵子さん達だって嫌なんじゃないですか?ずっとこのマンションから出られないんですよね?生きた人間に戻ることも、ここから逃げることもできないなんてそんなの……!」
「そこは、考えの相違というものですわ。……ねえあなた?」
美恵子はそう言って、隣の夫を見た。賢治も妻の顔を見て深く頷く。
「確かに、オレたちはこのマンションから出ることができんさ。それを不便に思ったり、悲しく思ったこともあった。しかし、段々と思うようになったんだ……これは本当に、嘆くようなことなのかと」
「え」
何を言っているのか、わからない。困惑する杏奈に、賢治は微笑みかけてくる。
「オレたちはきっともう死んでるんだろう。でも、死んでるってことは、これ以上死なないってことだ。年を取ることもない。世間の多くの災害に巻き込まれて苦しい思いをすることもない。交通事故に遭うことも、火事に遭うことも、強盗に遭うこともない。これ以上年を取って体が悪くなることもない。元気なまま、いつまでも家族仲良くこの場所で暮らせる。命を失ったからこその永遠。そうだ、突然誰かが死んでみんなが悲しみに暮れて、家族がバラバラになるよりずっといい。同時にこの場所で命を落として霊となっているからこそ、オレたちの幸せも永遠なんだ」
杏奈はあっけにとられるしか、なかった。
一理ある、と僅かばかり思ってしまった自分もいる。みんな同時に地縛霊になったからこそ、誰かが死んで残された家族が身を切るような悲しみに囚われる心配はなかった。全員で、霊としていつまでも同じ場所で暮らすことができるようになった。魂だけの存在だから風邪もひかない、老いることもない、不慮の事故も事件もない。
ひょっとしたら、それは人類の多くが望んでいた不老不死に近いものかもしれなくて――その永遠を、幸福と誤解してしまうこともあるかもしれない。実際、何故かネットも使えて、テレビも見られて、何の娯楽もないなんてわけでもないのだから。
でも、それは。
「それは……かりそめの幸せです……!」
反感を買うかもしれない。それでもこれは一人の人間として、言わなければならないことだとわかっていた。
「だって、もう死んでるんですよ?確かに、家族一緒なら寂しくないかもしれません。でも……子供達は、大人になれないんです。外の世界に出て友達と会うことも、好きな人を作ることも、映画を見に行ったりお買い物したり……美味しいものを食べることだってもうできない!生きていたらできたはずのことが、この場所ではずっとできなくて、生まれ変わることもできないからそれがずっと続いて……本当にそれが幸福なことなんですか!?」
彼らは諦めたのだろうか。
あるいは、誘拐犯に同情してしまう被害者のように、何かを錯覚することで心を守るようになってしまったのか。
どちらにせよそれはあまりにも、あまりにも悲しい慰めで。
「まことさま……まとくん、まこちゃんの兄妹だってそうです。あの子たちももう大人になれない。生まれ変わって新しい幸せな人生を手に入れることもできない!……さっき、達治さんがやったことは酷いことだった、ってお二人は言ってたじゃないですか。生きていた時は虐められて、酷い殺され方をして、死んだあとも利用され続けて!……もうそこから、解放してあげたいとは思わないんですか!?」
ひょっとしたら。まことさま、の力が強くなっていくのは、こういう理由があるのかもしれない。
このマンションに囚われた者が、かりそめの幸せに慰められて、それでいいと思い込むようになって。その結果、ますますまことさまの間違った目的に手を貸してしまって――その結果ますます力が強くなって、囚われて。
わかっている――その全員が本来、誰一人悪くないということは。美恵子も賢治もあくまで達治の孫と嫁だったというだけで何も悪いことはしていない。九条辰夫だって、きっと善意で除霊しようとして失敗しただけだろう。
だからこそ。だからこそ、このままでいいはずがなくて。
「目を覚ましてください!みんなで、ちゃんと救われましょうよ。まことさまをちゃんと眠らせてあげれば……っ」
「それはできないんだってば」
「!」
ぎょっとして、杏奈は振り返った。いつからそこにいたのか。すぐ真後ろで、杏奈の手元を覗き込んできている青白い顔がある。
杏奈と同世代くらいの女性ということは――彼女は長女の睦美、だろうか。
「あたし達はこれでいいって言ってんのに、何で邪魔すんの?もうめんどくさい勉強もしなくていい、電車で痴漢に怯えることもないし、ウザい教授に説教されなくていい。最高じゃん、それ」
「そうだぜ、杏奈さん。部活でレギュラー争ってギスギスすることもねえ」
ひょこり、と杏奈の右横から顔を出したのは、高校生くらいの少年。恐らく、長男の勝美。
「いじめもない」
「ひっ」
机の下から、足を引っ張られた。おかしい、なんで、いつの間に――杏奈の足を、小中学生くらいの男の子が掴んでじいっと見上げているのか。次男の初美だろう。彼は杏奈を見上げて、にいいい、と笑った。
「学校でいじめられなくてもいい。クラスがめっちゃくちゃになってるの、委員長として止めなきゃいけないとか、そういうの考えなくていい。本当に楽、ずっとおうちでいい。そう思うようになってさ」
がらがらがら、とリビングに続く引き戸が開かれた。並んで姿を現したのは、老夫婦。
恐らくこの子供達の祖父母であり、美恵子の義母と義父である浩一郎と知恵だろう。にこにこと、能面のような笑みを貼り付けている。
「嫌なことは何も起きない。そして、まことさまはちゃんと救われるんだとも」
「ええ、ええ、そうよ。そうなの。まことさま、可哀想でしょう?だから願いを叶えてあげなきゃ」
「そうとも、願いを叶えてあげなければな」
「みんながここに住めばいいの。みんながこの八幡マンションに住んで家族になればいいの」
「まことさまは全てを恨んではいるが、死ねば許してくれる。みんなが死ねばまことさまは恨みを少しずつ忘れてゆるしてくれるんだ」
「だからここに住んで、みんなわたし達と同じものになればいいのよ」
「同じにな」
「ええ、同じになるの」
「家族になるんだ」
「そうよ、家族になるの」
「家族に」
「家族に」
「みんなみんなみんないんなみんなみんなみんなみんな」
「みんなみんなみんないんなみんなみんなみんなみんな」
ぐわんぐわんと耳の奥で声が鳴り響く。みんなで一つに。みんなで家族に。同じ言葉を交互に繰り返す老夫婦。
彼らが近づいてくる。さらに、美恵子と達治もゆっくりと席から立ち上がる。
杏奈は――立てなかった。足を、初美に捕まれて。両肩を睦美と勝美に押さえつけられて。
「や、やめて……」
彼らは、自分達の理想を押し付け、杏奈を洗脳しようとしている。慌てて身をよじって抵抗するものの、杏奈は両手も両足もちっとも動かせない。椅子に固定されて、縛り付けられてしまっている。
テーブルを回って、美恵子と賢治がやってくる。二人が同時に杏奈の両手首に手を伸ばしてきた。触れた、その瞬間。
ぼっ。
音を立てて、家族全員の体が燃え上がった。掴まれている杏奈の体と一緒に。
「ぎ、ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
ああ、死んでいるはずなのに、どうして痛みを感じるのだろう。
眼球が溶けていくのを感じながら、杏奈は焼けた喉で絶叫し続けたのだった。
***
やはりそうだ。
由梨はマンションのエレベーターから降りながら、思った。
――見間違えじゃ、なかったんだ。
駅から帰ってくる時、また一瞬〝八幡マンション〟の姿が見えなくなった。その場所が空き地であるかのように、何もないように見えたのだ。
恐らく、それが現在の八幡マンションの真の姿なのだろう。
少なくとも九崎辰夫が死んだ時までは、マンションはそこに実在していたはずだ。しかし、人が死んだこととゴミ屋敷を作ったことで悪評が広がり、人が出ていってしまったこともあって経営が立ち行かなくなったのではないだろうか。
あるいは、その時点で生きていたマンションの住人全員が死ぬなり消えるなりして、親戚か何かに売却されてしまった。そして、実際はもう更地になっていて、人あらざる者の世界にだけあの建物が取り残されているのだとすれば。
――いや、今は……そんな予想したって意味なんかない。
バッグの中には、関守村で貰った〝大事なもの〟が入っている。あれを使えば、まことさま、を浄化することもできるはずだ。
問題は、まことさま、が何故八幡マンションだけを呪ったのか、その元凶がどの地点であるのかがわからないということだが。
――すっかり、夜になっちゃった。
村に数時間滞在したこと。純粋に行きかえりの時間がかかったこともあって、既に時刻は九時を回ってしまっている。
除霊云々については、明日杏奈に相談しようと決める。時間はあまりないかもしれないが、夜にアクションを起こすのは無謀というものだ。一般論で言うなら、オバケというやつは夜の方が活発になるもののはずなのだから。
――とりあえず、晩御飯食べよう。コンビニで買ってくるの忘れちゃったし、今日はもう晩御飯もカップ麺でいいや……。
三階のフロアに降りて、303号室の鍵を開ける。
まだ、一縷の望みは残っているはずだ。まことさまを浄化すれば、杏奈たちも解放され、伊織も生きて帰ってくるかもしれないと。
そう、この瞬間はまだ、由梨もそう思っていたのである。




