<23・元凶。>
ふらつく足を叱咤して、杏奈はどうにか八幡家に辿り着いた。
出迎えたのは八幡美恵子。八幡家の嫁である。
「まあまあ、いらっしゃい杏奈ちゃん。待ってたわ」
「……はい」
杏奈が何をしているか、何を考えているかは八幡一家にも全て筒抜けのはずである。ましてや、この八幡マンションの大家である彼らは実質〝まこと様〟の守り人である可能性が強い。最もその影響を受けているであろう彼らが、純粋な味方とはとても思えなかった。
にも拘わらず、表向きは笑顔で、さながら歓迎しているような素振りをしてくる。100%、罠。わかっていても、杏奈にはここで逃げ出すという選択など微塵もないのだった。
もうすぐ、自分も彼らと同じものになってしまう。
マンションの住人の中には自我を残している者もいるし、新しくやってきた由梨のような者を不憫に思っている者もいる。けれど、中には表向きの人格を維持したまま、狂った思想を植え付けられておかしくなっている者もいるのはわかっているのだ。
そうなりたくはなかった。
これは、由梨のためだけではない。杏奈がまだ杏奈であるために、杏奈のままここから逃れるためにも必要なことなのだ。
「上がって頂戴」
言われるがまま、杏奈は黙って靴を脱いだ。おかしなものだ、もう食べることも眠ることもしなくていいのに、靴を履いて、脱いでという習慣だけは残っているのだから。
玄関に上がり、正面の廊下を直進し、ドアを開けてリビングへ。
リビングには他にも住人がいた。眼鏡をかけた痩身の男性。五十に行くかいかないか行かないかの年に見える彼は美恵子の夫、八幡賢治である。
八幡家の家族は多い。賢治のご両親であり美恵子の義父・高一郎と義母の知恵。それから、賢治と美恵子の三人の子供達である大学生の娘の睦美、高校生の息子・勝美と中学生の息子・初美。
賢治以外の住人達はどうしているのだろうか。生きている時、この八幡家を訪れた時も何度か「今他のみんなは出かけているから」と美恵子に言われたことがある。しかし、このマンションの住人は全員、このマンションの近辺からろくに離れることなどできないはずだ。特に浸食されている大家は、この一階フロアからも離れられない可能性がある。
ならば「出かけている」というのは、生前の習慣から「学校や仕事に行っている」ことにしているだけ、と考える方が自然だ。実際、なんとなく気配はある。この家のどこかに、他の家族もいるはずだ。
「あの、えっと……お話があります」
「わかっているわ。座って頂戴」
「……はい」
リビングで椅子を勧められ、座る杏奈。あとの二人もそのまま真正面に腰掛けた。
美恵子と賢治も、杏奈にお茶やお菓子を出すことはしなかった。杏奈が食べるはずがないことがわかっているからだろうか。
「八幡美恵子さん、八幡賢治さん、あの……」
彼らがまことさまの守人であるのは事実だろう。だが、彼ら自身の意思がまったく残っていない、とまでは断定できない。
仮に完全に守り人になってしまっていても、情報を引き出すことができればそれでいい。
自分は既に死んでいる身だ。多少の無理は効くというものである。
「お二人は……いえ、この八幡家は。まことさま、についてどれくらいご存知なんですか?」
意を決して、杏奈は切り出した。
「今から何十年か前に、鎌口村上流のどこかの村から、まことさまと呼ばれる双子の兄妹の死体が流れついた。その怨霊を封印しようとして、403号室に住んでいた九崎辰夫さんが失敗して……むしろ怨霊の恨みを買ってしまった、というところまでは予想しています」
辰夫を恨むことはできない。恐らく彼も彼なりに、怨霊をなんとかしようと必死になったのだろう。
まあ正直、生きていた頃なら彼だって神社仏閣を頼ることはできたはずなので――なんでプロに任せてくれなかったんだ、とは思ってしまうが。己のスキルに自信がある者や、凝り固まった考えの高齢者などはなかなか他人に頼るのをよしとしないこともあるのではなかろうか。
「でも、最初の段階が気になるんです。……川を死体が流れてきて、それで近隣が祟りを受けたなら。なんで川の流域全体に呪いが蔓延していないのか。ほぼピンポイントで、八幡マンションだけが呪われたのか」
これが、一番の謎だった。
管理会社の人間――特に由梨を担当した職員は、ほぼ間違いなく既に死んでいる者だろう。あるいは、彼だけ取り憑かれて操られているなんて可能性もあるかもしれないが、いずれにせよあれは例外なのは間違いない。
例外。
外部から、八幡マンションへの新しい住人を増やすために、必要な舞台装置。
つまり、ほとんど呪いは八幡マンションそのものに一極集中しているのである。もし流れてきた死体を弔って貰えなかったことで双子が恨みを抱いているのなら、近隣住民全てが呪われていてもかしくないはずなのに、何故このマンションだけなのか。
「由梨さんには、建前を話す必要もあったんでしょう。でもわたしは……わたしはもう、ここから出られない〝住人〟です。隠す必要はないはず。どうか、本当のことを教えてくれませんか。真実を知らないままでは、死んでも死に切れません……!」
自分が由梨に情報を漏らす可能性は、彼女たちも重々理解しているはず。素直に話してくれなかったらどうしよう、と杏奈は思った。一応、交渉材料をいろいろ考えてはきていたが――。
「……美恵子」
口を開いたのは意外にも賢治の方だった。
「オレとしても気の毒な気持ちはある。若い女の子が、何も知らずにこの場所にずっといなければいけないのは、なかなか酷なことじゃないか?同情するわけじゃあないが、彼女も我々の仲間である以上は、ちゃんと話しておいてもいいだろう?」
「まあ、そうね」
美恵子も反対するつもりはないらしい。少し困ったように笑って、どこから話せばいいかしらね、と言った。
「そうだわ。……この人のお父さんのお父さんが……お寺の息子さんだった、という話は言いましたっけ?」
「え?いえ、初耳です」
「お寺のね、三男坊でね。だから実家の寺を継ぐ必要とか、そういうのがなかったんですって。今、うちの人が四十九歳で、お義父様が七十五歳なのね。で、そのお義父様のお父様が……我々がこうなる前に亡くなってて、生きていたら百二歳とかそれくらいになったかしら。若い時に家を出て、自分だけの新しい事業を始めようとこの八幡マンションのある土地を購入したんですの」
生きていれば百二歳の、賢治さんのお祖父さん。
杏奈は心の中で計算する。戦争が終わったのが1945年ということは、終戦の時その人は七十九年前――つまり、二十三歳といった年齢の若者だったはずだ。
普通に考えたら、兵隊にとられていそうな年齢だが。
「戦争で亡くならなかったんですね、おじいさんの、えっと……」
「達治さんですね。達治さん、体が弱くて丙種判定だったとかで、戦争に呼ばれるのが本当に遅かったみたい。で、運がいいことに、呼ばれた直後に終戦したらしくて。だから生き残って、奥さんのところに帰っては来たのだけれど」
肩をすくめる美恵子。
「ご存知の通り、帰ってきても東京は焼け野原でしょう?せっかくの土地もめちゃくちゃなわけよ。せっかく土地があっても、お店を運営することもままならない。資金も物資も何もない。困り果てていた、その時……」
彼女は目を細める。
「川の〝掃除〟を手伝っていて、偶然見つけたそうですわ。……背中合わせに縛り付けられ、両手両足が捻じ曲げられ、体に奇妙な印を刻まれた……双子の兄妹の死体を。空襲のせいでだいぶ焼け焦げていたし、すすまみれで虫もたかっていて酷い状態だったようですけどね。そのご遺体をね、達治さんは拾ってきたそうなんです」
「な、なんでそんなことを……!?」
「達治……オレのじいさんが、寺の息子だったからだな。一応、霊能力的なものは多少受け継いでいたらしい。その遺体が、争いを防ぎ、平和を願う儀式の生贄だということにすぐに気づいたようだ。自分を生贄にした者達に恨みはあったものの、その恨みは既に晴らされたあとで、浄化されかかっていたんだと」
まさか、と杏奈は冷や汗をかく。
「成仏しかかっていた遺体を……無理やり現世に縛り付けたってことですか!?」
なんて酷い。
しかも、その目的は明白である。つまり。
「本当に酷い話だ。その儀式をちょいといじって、〝自分の家が繁栄するための術〟に変えて……人柱として、この土地の地下に埋めちまったんだから」
酷い、と思っているのは本当なのだろう。賢治は不愉快そうに吐き捨てた。
「だがその結果、じいさんは莫大な財産を得た。戦後のズタボロの状態からいち早く立ち直り……このマンションがある土地に自分たちの屋敷を立て、団子屋を構えて繁盛したんだ。でもって、その団子屋の経営が苦しくなってくると今度は自分たちの屋敷ごと土地をいっぺん更地にして、今度はマンションを建てて経営を息子たちに任せたというわけさ。で、マンションの部屋を貸すことで儲けようって商売を始めたと。その経営はさらにオヤジの息子のオレが引き継いで今に至るわけだ」
「私も詳しくは知らないんだけどね。人がたくさん増えれば増えるほど気が集まって、まことさまの力が強くなる……って考えだったそうなのよ」
ちらり、と美恵子が杏奈の後ろを見た。現在、杏奈の後ろにあるのはキッチンで、美恵子と賢治が隣接するリビングを背に座っている状態である。キッチンの左横には勝手口があるのだった。杏奈はそちらを振り向いて――気づく。
勝手口の前の床。明らかに四角い切れ込みのようなものがある。銀色の取っ手が見える。地下の収納スペースか、もしくは。
――まさか、地下室……?
もしやその下に、まことさま、の遺体が封印されているのではないか。
ならば、その遺体をどうにかすることができれば――。
「やめた方がいいわ」
杏奈の思考を呼んだのか、美恵子がぴしゃりと言った。
「まこと様は、とっても怒ってる。……確かに、達治さんがやったことはとても酷いことだった。眠れるはずだった魂を無理やり縛り付けて、自分達の栄耀栄華に利用したのだから。でもね、それでも……九崎辰夫さんが余計なことをしなければ、その力がここまで増大になることも、恨みが深くなることもなかったのよ」
貴女には無理です、と彼女は繰り返し告げる。
「まことさまは、どんどん生贄を欲しがっている。このマンションを、もっともっと生贄の住人でいっぱいにしたがっている。その命令に従順にならない限り……私達は、地獄のような苦しみに囚われるだけなのですよ」




