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<20・愛子。>

 本当は、このマンションに一人取り残されるのは怖い。例えもう、自分がとっくに死んでいるのだとしても、人間としての心まで失ったつもりではないからだ。

 それでも杏奈が由梨をマンションの出口で見送った理由は単純明快。それが、自分に残された最後の意地であるからである。

 どうせ、自分にはもう何もない。どうせこの場所で怨霊になって取り込まれていくのを待つだけなら、何か一つでもできることをしたい。それが自己満足だとしても。最終的に、逆効果になるかもしれなくても。


――それに……わたしだって、救われたい。


 まだ生きている由梨が、呪いを解く方法を見つけてくれれば――自分もこのマンションの中から解放されることができるかもしれないのだ。彼女が駅の方へ歩いていくのを見る。杏奈はそっと、玄関ホールの硝子扉を開いて外へ出た。

 おかしなことだ。頬に感じる風はこんなにも気持ちよいと思うのに。太陽の日差しの温かさを、眩しさを、確かに感じることもできるのに。

 扉を出て、玄関前の階段を一段、一段、一段。最後まで降りた次の瞬間、ばちばちばち、と頭の中にイナズマが走った。ふらついて、その場で蹲ってしまう。足が、確かに地面を踏んでいるのに、目の前の光景が揺らいでいく。


「あ、ああ……」


 気づけば、玄関ホールの内側に戻されている。少し前までは、かまら橋のあたりまでは行くことができたのに、どんどん自分の行動範囲が狭まっている。いずれ、硝子扉の外にさえ行くことができなくなるのだろう。否、ひょっとしたらそのうち部屋から出ることもできなくなってしまうのかもしれない。


――だ、駄目だ。絶望するな。まだ、まだ絶望して、立ち止まるには早いんだから……!


 震えながらも、杏奈は振り返り次の瞬間、背筋が凍り付いた。

 エレベーターのランプが全て消えている。ここのエレベーターはガラス窓がついていて中の様子が見えるようになっているのだが――その向こうに、不自然なほどの闇が広がっているのだ。

 何かが来る。そう思った次の瞬間。




「あ、あ、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」




 女性の、絶叫。

 エレベーターが勢いよく落下してきたのが、見えた。バキバキバキ、グシャ!という籠が床に叩きつけられる音と、中の人が派手に潰される音が響き渡る。


「あ、あああ、あ……!」


 真っ黒な闇一色だった硝子窓が、飛び散った血と臓物で真っ赤に染まった。その状態で、ぎし、ぎしし、と扉が不自然に軋みながら開いていく。まるで、人間の指か、骨か何かを挟んでしまっているかのように。


「い、い、イタいぃ……」


 ずる、と。ぐにゃぐにゃに曲がった右腕が、ドアの向こうから突き出してきた。


「いた、イタイ……ああ、アア……!」


 ゆっくりと顔を上げた女性。少しぽっちゃりと円い顔、おだんご頭。204号室に住む、一井愛子の顔に他ならなかった。


「タス、けて……たす……」


 ぐしゃぐしゃになった体で、エレベーターの中から這い出してくる。由梨はぎゅっと目をつぶり、耳を塞いだ。わかっている、これは幻だ。まことさま、が自分を脅すためにこのようなものを見せている。逆らう気がなくなるように。お前にもっともっと苦痛を味遭わせてやるぞというために。

 そして、お前は逃げられやしないんだと突き付けるために。


「はあ、はあ、はあ、はあ……!」


 ああ、おかしなことだ。自分は死んでいるはずなのに、何で息をしているのだろう。息が苦しいと思うのだろう。生々しい血の臭い。苦痛を訴える愛子の声。何もかも、こんなに身近で感じ取ることができるというのに、全部幻だなんて。


――ここは、地獄だ。


 死んでも、逃れられない。むしろ、死んでからが呪いの始まりだなんて、あまりにも馬鹿げている。


――ねえ、ねえ……まことさま。なんで、こんなことを望むの?わたしも、このマンションの人も、何も悪いことなんてしてないでしょう?それなのにどうして、どうしてわたし達をこんな目に遭わせるの?わたし達が、どうしてこんなにも憎いの?


「お願い、やめて……」


 掠れた声で、そう告げた時だった。


「やめて欲しかったら、自分をなくすしかないのよ」


 はっとして目を開いた。すぐ目の前に、困った顔の愛子が立っている。さっきまでの血まみれで、グチャグチャの姿ではなかった。エレベーターも通常通り、明かりがともった状態で運行している。飛び散った血も、臓物も何もない。

 何もかも夢だったかのように、消えている。


「あたしだってこういうこと、言いたいわけじゃないの。でも、あなたはまだこのマンションで新入りの方だから……わかっていないんじゃないかと思って」

「わかって、ない、って」

「まことさまは、可哀想な子供なの。苦しんで苦しんで死んだ挙句生贄にされて、川に流されて、故郷から遠く遠く離れた場所まで行かされた挙句……誰にも弔われずに、ゴミのように捨てられた。恨まない理由なんてある?戦争中だったからとか、そんなこと関係ないでしょう?」


 あたしは同情しちゃったわ、と愛子。


「そして……それでもいいかと思ってしまった。夫と、息子と、あたしの三人。三人揃って、ずっとこのままマンションで過ごすのもいいんじゃないかって。そりゃ、悠が大きくなるのを見たかったけど……あの子たちのことだって、ほっとけないじゃない?」


 それは、彼女が子を持つ母親だからだろうか。だから共感してしまうということなのだろうか。

 一緒に地獄に堕ちたのが家族全員だったから、もうそれでいいとでも?


「……納得できないって顔してるわね。いいのよ。それが普通」


 愛子は杏奈の顔を見て、ため息をついた。


「でも、これ以上下手なことはしない方がいいわ。逆らえば逆らうほど、まこと様は容赦なく心を切り刻んでくる。それに耐えられる魂なんてそうそういないんだもの。……ああ、大家さんと話をしたいなら、それを念じて外に出なさい。その時だけ、表に出ることができるはずだから」

「一井、さん……」


 それは。彼女が最後にできる、たった一つのアドバイスだったのかもしれない。本当は、愛子もどこかで葛藤があるのかもしれなかった。


「……ありがとうございます」


 誰だって、そうだ。望んでバケモノになりたい者なんて、一体どこにいるのだろう。

 ただ普通に生きていたかった。子供を産んで、育てて、仕事をして、友達と遊んで、映画を見て、遊園地に行って、愛を確かめ合って、笑って、泣いて、怒って。

 それなのに、そんな当たり前のことが許されなかった。許されなくなってしまった、この場所に運悪く来てしまったというそれだけの理由で。

 きっとそれはまことさまも同じで、だからこそ彼らはその理不尽をどうにもできずに恨みをまき散らしてしまっているのだろうけど。


――だからって……他の人にも不幸になってほしいなんて。そう願うのはやっぱり、間違ってるわ……!


 杏奈は彼女に会釈をすると、もう一度ガラス戸に手をかけた。

 不思議なことに、さっきよりも少し、扉が軽く感じたのである。




 ***




「あ、あづい……」


 日帰りのつもりだったので、荷物は最小限にとどめた。財布、Suica、スマホと充電器、水筒と折り畳み傘と上着。意外と上着が邪魔だったが、持っていかないわけにもいかない。なんせ、暑い日であればあるほど冷房で体が冷えることが多いからだ。

 それはそれとして。由梨は現在、駅のホームでぐったりしているところである。

 電車から降りた途端これだった。九月とは、残暑とは一体なんぞや、と思うほどの暑さ。駅の構内に設置されていた温度計を見て「げえええ」と舌を出してしまった。なんで36℃とか、わけのわからない数字を指しているのだろう?


「35℃超えを!九月に!記録!すな!!」


 湿度も70%。そりゃじめじめするはずである。一応、九月というのは秋に入るのではなかったか。何でからっと爽やかな日!というのがちっとも訪れないのだろう。

 かと思えば、やけに寒い日が時々混じるのが頂けない。気温差で風邪をひきそうである。


――くっそ……ここから先、どう行けばいいんだっけ?


 降りたのは、乗り換えを三度して、やっとたどり着いた駅だった。出発したのは八時半くらいだったのに、既に太陽はてっぺん近い。途中で電車を乗り間違えたのも痛かったし、本数が少なくて〝待ち〟時間が発生したのも痛かった。こんな調子で、今日中に目的地にたどり着くことなんぞできるのだろうか。

 ●●山の中腹。上流の村々が廃村になる中、唯一残った最南端の村、関守村(せきもりむら)。そこに向かうためにはこの関守南(せきもりみなみ)駅から、さらにバスに乗らなければいけない。田舎の村のわりにバスの本数は多めであるようだったが、それでも関守村停留所へ行くバスはあと三十分待たなければ来ないようだった。駅校内に貼られたバスの時刻表を見て、がっくりと肩を落とす。


「このクソあっつい中、三十分待つんか……」


 日陰は少しマシだが、それでもクーラーがきいた部屋ほどではない。由梨はとぼとぼと改札に向かった。ここに来て〝もしや無人駅とかで、Suica使えなかったらどうしよう〟と焦ったが(Suicaで入ったのに通れる改札がない!なんてことがこの令和の世でさえ稀にあるのである)、幸いにして改札がないほどの田舎駅ではなかったらしい。

 眠そうな顔の駅員が見ている前でSuicaをタッチして、改札をくぐっていく。駅の前には、ボロボロの商店街の看板がかかった通りが見え、一応タクシーのターミナルのようなものがあった。が、タクシーの姿はまったく見えない。右を見ても左を見てもほとんど人影がないので、そりゃ停まっている意味もないのかもしれないが。


「……飲み物、買い足しておきますか」


 駅の隣にある小さなコンビニ(コンビニ?なのだろうか。セブンとかローソンのような、よく見るチェーン店の看板ではないのだが)に入ることにする。少しくらいは時間稼ぎができるだろう。

 何より、ここで買い逃すともう、当分自販機にも出会えない可能性が高い。


――頑張れ私……これも伊織と杏奈ちゃんのためぇ……!


 ハンカチで汗を拭いながら、自動ドアを潜った。

 暑さでめげている場合ではないぞと、自分自身に言い聞かせながら。



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