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<2・引越。>

 八幡(やはた)マンションは、こうして見ると築十三年の割に随分綺麗な外観をしていた。以前ここに来た時は、こんなにじっくり観察しなかったな――と四谷由梨(よつやゆり)は思う。

 四階建てであり、部屋は一号室から五号室まで。ただし一階には大家さん一家が住んでいるので、普通の住民が住むことができるのは二階から四階までとなっているようだ。管理人は常駐していないが、大家が一階に住んでいていつでも相談できるらしい。管理会社の事務所もすぐ近くだ。

 最寄りの数中かずなか駅まで徒歩十五分という立地も充分許容範囲だろう。近くにコンビニやスーパーもある。それで、一月たったの三万円。東京の住宅事情を鑑みれば、破格の値段と言って良かった。


――なんでこんなに安いんだろ。変なの。


 既に基本的な家具や荷物は引っ越し屋さんが運び込んでくれている。まだ荷ほどきはやっていないが、元々衣類も商売道具も多いというわけではない。

 さっさとひとしきりの作業を終わらせて――否、それよりも前に住人たちへ挨拶をしてしまった方が無難か。硝子扉を開き、エントランスへ入る由梨。視界に入ったのは一基だけある小さなオレンジ色の扉のエレベーターと、ずらずらと並んだメールボックスである。由梨が今回引っ越してきた部屋は、三階の303号室だった。まだ何も入っていないはずだが、ついつい自分のメールボックスを覗き込んでしまう。


――えっと、パスワードは512、512……。


 くるくると鍵を回し、中を覗いた。案の定、何も入っていない。


「あ、あれ?どちら様……?」

「どわっ!」


 突然後ろから声をかけられ、心臓が跳ね上がった。慌てて振り向けば、ボブカットの小柄な女性がどこか不安げにこちらを見ている。階段の前に立っている、ということは階段を降りてきたのだろうか。ちっとも気づかなかった。


「あ、あの、すみません!私別に、怪しい者とかではなくてですね!」


 思わず手をひらひらして言い訳じみたことを言ってしまう。


「その、今日からこっちに引っ越してきた、四谷由梨と申します。303号室です、よろしくお願いします!」


 思い切りおじぎをしたせいで、ポニーテールが顔面を強打することになってしまった。地味に痛い、と額を押さえる由梨。そろそろ三十路に届くのに、この髪型はイタいだろうか。しかし昔からのお気に入りだしなあ、なんてことをつらつら思う。


「あ、そ、そうだったんですね。えっと、学生さん、ですか?」

「あはは、そんなに若く見えるなら嬉しいですわ!一応WEBライター的な仕事やってるモンです。自営業、になるのかな?」

「あ、そうですか。ごめんなさい、わたしが大学生なので、同じなのかなと思って。ここ、大学近いし」


 なるほど、彼女は大学生だったらしい。彼女は由梨の目の前のポストを指さした。


「わたし、301号室なんです。この四月から住み始めたばっかりで。七海杏奈と申します」

「同じ階なんだ、よろしくお願いします!若い女性が住んでるって知ってちょっと安心しちゃいました」

「わたしもです。このマンション安いし大学近いしいいんですけど、ちょっと変わった人が多いから。あ、挨拶は、全部屋にしておいた方が無難だと思います。お菓子、足りるならですけど」


 彼女がそう言ったのは、由梨が有名なお菓子ブランドのロゴが入った紙袋を下げていたからだろう。

 実は、この年まで一人暮らしなんてしたことがなかった由梨である。引っ越しした先で、どのように住人に挨拶すればいいのかもまったく分かっていなかったのだった。ゆえに、お土産として何を渡せばいいのかわからず、結局日持ちしそうなクッキーを買ってしまったのだが。


「一応、多めに買ってあるから大丈夫。あ、ここで七海さん……に渡しちゃっても大丈夫?ていうか、一人暮らし初めてで、ご挨拶のお土産がクッキーでいいのかも知らんのだけども」

「大丈夫じゃないでしょうか。日持ちするお菓子なら、そんなに邪魔にならないでしょうし。あ、今ここで受け取ります」

「だよね!ありがとー!よろしくお願いします!」


 既に丁寧語はだいぶ崩れている。我ながらいきなりフレンドリーな対応をしすぎたかと思ったが杏奈はまったく気にしていない様子だった。紙袋からさらに小さな袋に入れたクッキーを杏奈に手渡す。今日は朝まで雨が降っていたこともあってか、九月にしてはだいぶ冷え込んでしまっている。杏奈の手も結構冷たくなってしまっていた。


「えっと……これ、お尋ねしてもいい、ですかね?」


 杏奈はおずおずと口を開いた。


「四谷さんは、どうして九月に引っ越されてきたんです?この時期に御引越って、珍しいですよね」

「あー」


 やっぱり突っ込まれるか。どうしようかな、と由梨は暫し考える。なんとなく、杏奈は信頼できそうな気がする。初めて会ったばかりだけれど、若い女性だし、親切そうだ。ならば、本当のことを少しだけ語っても問題ないだろうか。


「このマンションの205号室にさ、私の彼氏が住んでんの。正確には……住んでた、なんだけど」

「彼氏さん?205号室というと……」


 杏奈の目がポストを見る。

 205号室には、『二階堂』という表札がかかっていた。


「そう、二階堂伊織(にかいどういおり)。私の、年下の彼氏。……最近、ここに帰ってきてないみたいだけどさ。ていうか……行方不明っていうか」


 九月なんて時期に、どうして由梨が引っ越しを決意したのか。

 それは連絡が一切取れなくなってしまった彼氏、二階堂伊織の行方を知るためだった。彼は八月に、この八幡マンションに引っ越したばかりであったのである。会社に近い良い物件を見つけたと言っていたのが、つい最近の出来事のようだ。由梨も一度だけ、このマンションに遊びに来ている。どうしてこんな良い物件を見逃していたんだろうね、なんてお互いに笑い合っていたことも。

 伊織はまだ、大学生だった。

 大学を卒業して、きちんと就職したら結婚したい。由梨には何度もそう言ってくれていたのである。そして実際、狙っていた会社から内定をもらっていた。大学からも遠くないし、早いうちにとこのマンションに引っ越しを決意したのである。3LDKだから、最終的に由梨と住むにもぴったりだと思ったのだろう。

 まさか、引っ越して一か月で突然いなくなってしまうなんて――そんなこと誰が想像できただろうか。

 伊織の部屋の合鍵は、由梨以外にも数人が持っていた。伊織の家族と、それから彼と同じサークルに所属していた親友である。しかし連絡が取れなくなった後、友人が部屋を確認したらもぬけの殻。財布も置きっぱなしで、どこかにいなくなってしまっていたというのだ。

 何らかの事件に巻き込まれた可能性が高い。

 警察に捜索願は出しているが、まだその足取りは一切つかめていない状況だった。


「二階堂さん……確かに、最近見かけないですね」


 杏奈の目が曇った。


「私、大学生なので結構出かける時間とか、バラバラなんですけど。会うと必ず、笑顔で挨拶してくれる人でした。モデルでもやってそうな、背の高いイケメンさんですよね」

「そうそう、あいつ無駄に顔だけはいいの。中身は天然ボケちゃんなんだけどさ。……私のことが嫌いになって連絡とらなくなったとかならもうしょうがないんだよ。でも実際は、友達とも家族とも連絡絶ってるわけで。スマホはなくなってたみたいだけど財布は置きっぱなしだったし……そりゃ、心配にもなるじゃない?」


 非常に真面目な性格だった。ましてや、家族や友人や恋人に、必要以上に心配をかけるようなタイプではないだろう。

 何かあったと、そう考えるのが妥当だ。

 警察に任せるのが無難であるのは知っているが、それでも何かしなければ落ち着かないのである。幸い、こちらは在宅でライターの仕事をしている身。多少なりに時間の融通はきくのだ。それこそ、自己都合で引っ越しをするなんてことも。


「あいつの部屋の鍵は持ってるけど、許可もないのに泊まり込むのもなんか……その、さすがに悪いしさ。でもきっとあの部屋に帰ってくるから、それまで近くで待っていたいなって思って」


 それは、半分本当で半分嘘だった。

 本当の引っ越し理由は、伊織がいなくなった原因を探るため。そして、このマンションの奇妙な噂について調査するためだった。

 というのも、伊織が行方不明になる直前、妙なことを電話で言っていたのである。


『……今度、うちで飯食べる約束してたけど、あれ、ナシにしてもらっていいか』

『あれ、なんか予定は言っちゃった?伊織』

『違うんだ。場所を変えたい。外のレストランにしたい』


 伊織は女子力高い系男子だった。料理が得意で、最初にこのマンションに来た時も手料理を御馳走してもらったのである。だからこの時も、美味しい御飯を作って貰う約束をしていて、結構楽しみにしていたのだが。




『このマンション、何か、やばいものがいると思う。失敗したよ、俺。……少なくとももう、由梨はここに来ない方がいい』




 ちょっとした霊感っぽいものがある。伊織は以前から、由梨にそう語っていた。ちょっとナニカを感じるとか、たまに少し変なものが見えるとか、その程度の能力らしいけれど。

 オカルトを全面的に信じているわけではない。それでも、言っていた相手が恋人の伊織ならば、多少なりとも信じたくなるのが人情というものだ。伊織は、明らかに何かに怯えていた。このマンションに本当に何かが棲みついているかもしれないというのなら、確かめたいと思うのは当然のことだろう。

 ましてや犯人がオバケの類なら、警察なんてアテにできるはずもないのだから。


――もちろん、人間の犯人って可能性もあるっちゃあるけど。……何にせよ、伊織を諦めるとか、そういう選択あるわけもないし。


 自分も同じマンションに住んでみれば、何かわかるかもしれない。そうと決まれば有言実行、でさっさと実家からの引っ越しを決意してしまったのが由梨だった。両親には「無駄に行動力溢れすぎでしょ」と少々呆れられはしたけれど。


「伊織、最後に見た時なんか言ってなかった?様子が変だったとか、悩んでたとか、そういうのあったら教えて欲しいんだけど……」


 一応尋ねてみる由梨。すると杏奈は、やや暗い顔で言ったのだった。


「わたしは、挨拶していただけですから。でも……少し、顔色が悪かったかもしれません。やっぱり、いるのかな、ここ」

「いるって」

「ナニカ、です。あまり大きな声じゃ言えないですけど……」


 その時、エレベーターが動く音がした。はっとしたように杏奈がそちらを見る。誰かがホールに降りてこようとしている。流石に、この話を住人に聞かれるのはよろしくないと思ったのだろう。彼女は「あの!」と少しだけ大きな声を出した。


「こ、今度お話させてください!仲良くしたいですし、よろしくお願いします!」

「あ、うん……!」


 まるで逃げるように、階段を駆けあがっていく女性。由梨は首を傾げたのだった。


「ナニカって……なに?」



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