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<19・失意。>

 その後、どうやって部屋に戻ったのか覚えていない。

 気づいたら由梨は部屋のソファーの上だった。どうやら杏奈の部屋を飛び出してきて、そのまま眠ってしまったということらしい。時刻は七時半を指している。ぼんやりした頭でまず思ったのは、「そういえばお風呂入ってないや」だった。

 髪の毛も、頭の中もぐちゃぐちゃである。それでも、このままごろごろして、ひたすら時間だけ潰していいなんてことにはならない。それでは、何も解決しない。望んだ未来を引き寄せる、僅かな可能性さえ――自分で捨ててしまうことになる。


「……伊織」


 由梨は白い天井に向けて、呟く。


「あんた、マジで……死んじゃったの?」


 死体は見つかっていない。けれど、もし異空間に攫われたとか、この空間では同じ時間が繰り返されているとかであったなら、死体が見つからなくてもなんらおかしくはないだろう。そもそも、このマンション自体が招かれた人間しか来られない状態になっているのなら、警察や近隣の人が見つけることもできなくなっているはずである。

 なんとなく、理解できてしまった。

 自分が見た、五里琢磨の転落死。あれは恐らく数日か、あるいはもっとずっと前の――彼が死んだ時の光景だった、ということなのだろう。琢磨は無意識に、死んだ時の恐怖と記憶を繰り返している。それが時々幻として、別の人間の前に繰り返し投影されているのだ。

 ひょっとしたら、杏奈もそうなのかもしれない。

 完全に精神が擦り切れて従順な態度を取るようになってしまうまで、あの地獄のような死の記憶を繰り返されているのだとしたら。


――そんなの、悪夢だ。


 じわ、と視界が滲んだ。

 伊織が生きているなら、助け出したい。そして、もし死んでしまっているのだとしても――そんな苦しみの記憶の中に、彼を閉じ込めておくなんて絶対にしたくない。

 だとしたら自分が、自分にだけはできることがまだあるのではないか。己はまだ、幽霊に明確に襲われていない。そして、このマンションの住人達にもまだ希望はあるはずだ。




『お気の毒に』




『私も何もかもわかってるわけじゃない。でも、可能なら、あなたはここから引っ越した方がいい。間に合うかどうかわからないけれど、そうなってしまってからでは遅い。……面白い題材があるのは確かだけれど、でも』




『四谷さん……!そもそも、いくら恋人さんが行方不明だからって、普通引っ越しまでしてこようなんて発想にならないんです。おかしなことが起きても、神社に頼ろうという気にならないのも、ここから逃げ出そうという気が起きないのも、全部まこと様に誘導されているからなんです!お願いします、今からでも遅くは……』




 由梨に同情する様子を見せた琢磨。忠告を発した律花。そして、逃げるようにはっきり促した杏奈。

 彼らにはまだ、人間としての心が残っている。何もかも支配されていない。ならば、他の住人だってそうなのかもしれないのだ。

 彼らだって本当は救われたいはず。だったら、ある程度協力を頼むことも不可能ではないかもしれない。


「……うん」


 浮かんできた涙を、ごしごしと強引に手首で拭った。


「まだ、泣くのは……早いよね」


 手がかりがあるとすれば、まことさま、の儀式を行ったとされる場所。それから、何故このマンションだけが怪異の巣窟となってしまったのかだ。

 このマンションに何かあるのなら――もう一度大家さんのところで話を聞けば、何か教えてくれる可能性もあるだろう。




 ***




 とりあえず、シャワーを浴びて髪の毛をざっくり乾かす。それから、チンするご飯を電子レンジで温めて、それで簡単におにぎりを作った。青菜を混ぜて、中にスーパーで買ったシャケフレークをつめて海苔を撒いただけの代物だが、それでも充分お腹はふくれる。辛い時こそ、きちんとご飯を食べるのは大事なのだと実感した。とにかく力をつけなければ、何も始まるまい。

 牛乳をがぶ飲みして一息ついたところで、インターフォンが鳴った。ドアスコープを覗いて確認すれば、杏奈が困った顔で立っている。由梨はすぐに鍵を開けた。


「……あ、あの……四谷さん」


 杏奈は泣きそうな顔で、俯く。


「昨日は、本当に……ごめんなさい」

「……七海さん」


 悪いのは、どうみてもこっちだ。彼女は由梨のために真実を伝えてくれただけだというのに。昨日はパニックになって飛び出して、それっきりである。


「悪いの、私だよ。……本当に、昨日は……ごめんね。それと、ありがとう。勇気を出して、いろいろ教えてくれて」

「でも、わたし……」

「もし、何か思うところがあるならさ。……七海さんのこと、杏奈ちゃんって呼んでもいい?馴れ馴れしいのはわかってるけど」


 杏奈が、目を見開く。さすがに不躾だったかな、と思いつつ、由梨は誤魔化すように笑った。


「私、後で人の呼び名変えるの苦手でさ。会ったばっかりの友達とか同僚とか、わりとすぐ名前で呼ばせてってお願いしちゃうんだよね。その方が、仲間って感じがして好きっていうか。友達になれそうというか。……駄目、かな。できれば私のことも、由梨って呼んでくれたら嬉しいんだけど」

「わたし、もう……」

「死んでるとか、関係ないよ。それから……私も、そこまで長くこのマンションにいないかもしれないけど、それでも。……ね、いいかな」


 彼女はきっと、由梨が見えないところでたくさん、たくさん頑張ったのだ。ひょっとしたら由梨よりも前にこのマンションに引っ越してきて、結局救えなかった人もいたのかもしれない。あんな地獄のような経験をしておきながら、それでも誰かを助けようと思えるなんて――それがどれほど貴い心かなど、言うまでもないことではないか。


「私、逃げないよ。伊織のためだけじゃない。……杏奈ちゃんのことも、助けたい」


 由梨の言葉に、杏奈はくしゃり、と顔を歪めて頷いたのだった。


「……ありがとう。ありがとうございます。由梨……さん」

「よし」


 昨日結局、由梨が話をしただけで全部終わってしまった。杏奈が何を知っているのか知りたくて尋ねたのに、それについて詳しく訊く暇もなかったのである。まあ、主に由梨のせいなのだが。


「とりあえず、上がって。……私があなたにお茶を出す分には、問題ないっしょ?」




 ***




 思った通り、杏奈はあれからずっとかまら川、ならびに源流の鎌口川について調査を続けていたらしい。幽霊になってしまってから、知り合いなどに連絡は取れないものの、インターネットは今まで通りに使えるというのだ。

 ヒントとなるのは、大型掲示板に上がっていたという〝かまら川を流れてきた呪物たち〟についていたという、謎のマーク。まことさま、も同じ系列だとは断定できないが、そのマークがついている呪物がやたら多かったという話だから可能性は高いだろう。この画像が手に入ったのはかなり貴重だ。杏奈から、画像の写真を見せてもらった。直接由梨にデータを転送することはできなかったので、スマホに表示した画像を写真で撮らせて貰うことにする。

 この画像に心当たりがある人がいれば、調査は大きく進展するはずだ。


「それと、もう一つ。鎌口川って、●●山の頂上近くから流れている川みたいなんですけど」


 由梨がスマホを操作しながら言った。


「その上流付近にある村が、何故か軒並み廃村になっているんです」


 二似村(ふたにむら)

 鎌口下村(かまくちしもむら)

 安条集落(あんじょうしゅうらく)

 和乃江村(かずのえむら)

 鎌口南村(かまくちみなみむら)など。

 数多くの村や集落が上流付近に集中していたが、どれも廃村となってしまっているという。しかも、その理由が、ネットで調べただけでは全く出てこなかったらしい。もし土砂災害などで潰れてしまっていたのなら、その記録がどこかに残っていそうなものだが。


「それこそ戦前とかだと、もう記録とかなんも出てこなくてもおかしくないよね」


 あるいは、と由梨は続ける。


「その存在と記録が、全部霊的な力で抹殺された、とか」

「どっちもあると思います。それと、双子の死体が流れてきたかも、な時期に関しても……それこそ戦争中とかだったら、みんなそんなこと気にする余裕もなかったんじゃないでしょうか。確か、このへんも空襲で結構焼けちゃってたはずなんで」

「あーあーあー、そっちもそっちで……」


 爆弾がばっかんばっかん落ちてきて人が道端でばたばた死んでいる時、それこそ川に見知らぬ死体が一つ二つ流れてきたところで誰も気に留める余裕などないだろう。

 掲示板の情報が正しいのなら、戦争が始まるずっと前にはもう神社がなくなってしまっていて、川に流れついた呪物の処理ができなくなっている。時期としては、どんぴしゃりで合致してしまう。


「……ひょっとしたら、双子を生贄に、みたいなのも戦争と関係してる可能性もあるかもね」


 時期がそれくらいならば、充分考えられる話だ。

 戦争に勝つために呪いを行ったとか。あるいは食糧不足を解決するために神様にお願いしただとか。場合によっては、子供の口減らしだって起きてしまったかもしれない。

 まことさま、が正確にいつ生贄になってかまら川に流れついたががわからないが。戦時中であるならば、何か未知の存在にお縋りしたくなるとか、オカルト的な儀式に頼って誰かを犠牲にするということも充分考えられるだろう。それほどまでに、人々の心に余裕がなくなっていたのは間違いないのだから。


「これは、提案なんですが」


 杏奈は少し悩んだ後、口を開いた。


「……鎌口川上流の無くなった村付近で、直接聞き込みとか、情報収集をするしかないかもしれません。戦時中の話ならば、まだ生き証人が残っている可能性もゼロではないです」

「それしか、ないか」

「幸い、廃村となった村々のあった場所は集中しています。一番最南端の廃村近くに一つだけ残っている村があって、その付近までバスが出ています。なんとか、そこまで行くことができれば」


 彼女が申し訳なさそうである理由は明白だ。もう杏奈は、マンションから殆ど離れることができないのだろう。精々足を運べても、かまら橋付近くらい。足を使って調査は、由梨にしかできない。


「わかった。行ってみる」


 迷う必要はなかった。そこに、何かヒントがあるというのなら。


「すぐに出発するよ。……大丈夫。絶対、なんか掴んで戻ってくるから!」

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