<18・杏奈。>
「お気を悪くしないでくださいね。呼び寄せたと言っても、二階堂さんがあなたに危害を加えたかったはずがありません。何もしてないのに匂いが届いてしまうとか、望んでいないのに引き寄せてしまうみたいな現象だと思ってください」
「う……うん……」
どんどん、嫌な予感が強くなってくる。嫌な汗が止まらない。由梨はぎゅっと、机の上で拳を握るしかなかった。
「お話を聞いた限りだと、二階堂さんは必死で抵抗して、四谷さんにヒントを与えようとしていると思います」
心の底から気の毒そうに、杏奈は告げた。
「わたしも……これ以上、新しく入って来た人が被害に遭うのは嫌で、どうにかして真相を究明しようとしてたんですけど。……多分それが、まことさま、には嫌だったんじゃないでしょうか。だからいつもより、反応が早いんです。急速に、あなたの周囲で悪い事が起きている、というか」
「怪異が、抵抗しているから?」
「はい。多分、二階堂さんがかなり早く飲み込まれたのも、マンション住人の誰かが良かれと思って……警告文を出したからじゃないでしょうか。わたしとしては、六田さんのご兄弟か、九崎律花さんのどっちかだと思うんですけど」
何か。
何か、気づいてはいけないことに、気づいてしまおうとしている。
今、杏奈ははっきりと「二階堂さんが飲みこまれた」と言ったのだ。つまり、過去形。確かに伊織の部屋に彼はいなくて、神隠しされた可能性を疑ってはいたけれど。
「……飲み込まれた、って伊織はどうなったの?」
由梨は掠れた声で告げた。
「それに、あなたも。あなたも……七海さんも四月からこのマンションに住んでるって。もう、まことさま、とやらに命令されてるってことでしょう?なら……」
「……っ」
「ねえ、答えて!伊織は生きてるんだよね、そうだよね!?」
由梨は慌てて、杏奈の手を掴んだ。冷たい。そう思った瞬間、バチバチバチ、と頭の中で火花が散るような感覚を覚えることになる。
「いっ!?」
見える。
自分の意識が、杏奈のそれと重なっていく。杏奈の記憶が、己の中に飛び込んでくる。
そう、あれは――あれはまだ杏奈が大学のレポートを書いていた時。かまら川のことを調べて、レポートのために夜遅くまで起きていたその日。インターフォンが鳴って、それで。
ああ。
それで。
***
『うそ……』
杏奈は茫然と呟いていた。
それは、我が家のベルに相違なかった。足音は、確かにうちの前で止まった。さっきの子供達が家に来たと思って間違いない。上の階から、階段を降りてきたということなのか。いや、今はそれよりも。
『なんで、鳴るの?』
玄関のベルは、壊れていたはずだった。先日音が鳴らなくなってしまい、来週修理が来てくれることになっていたのである。自分が押してもうんともすんとも言わなかったのに、何故それがこんなはっきりと鳴るのだろう。しかも。
ピンポーン!
ポンポーン!
ポンポーン!
ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!
音は、どんどん大きくなっていく。早く出ろ、出なければいつまでも鳴らし続けるぞと言わんばかりに。
何かがおかしい。こんな音でインターホンが鳴っているのに、何故近所の人は何も言わないのだろう。煩いのは自分だけなのか。これではまるで、自分の家でだけ、音が鳴っているかのような。
『や、やめて……』
よろめきながら、玄関に近づいていく。心臓が、ばくばくと五月蝿い。絶対にドアを開けてはいけないと思うのに、何故か手は勝手に鍵へとのびていく。この音を止めなければ。ドアを開けない限り止まらない。その時、杏奈は何故かそう思い込んでいた。焦燥と、恐怖、嫌悪感。体が、言うことをきかない。まるで誰かに、見えない糸で操られているような。
『やめてよ……!』
鍵穴を覗く余裕さえ、なかった。チェーンを開け、玄関の鍵のツマミを回した、その次の瞬間。
『ひっ』
ドアがあちら側から、強引に開いた。そして――青白い腕が伸びてきて、杏奈の右手首を掴んでいたのである。
『や、いやあああああああっ!』
右手をぐいぐいと引っ張られる。細い、細い子供の腕だ。それなのに力がこんなにも強い。杏奈がどれほど抵抗しても、まるでこちらの手を握りつぶそうとしているかのような力で外へと引きずりだそうとしてくる。
『やめて、助けて!誰か、誰かあああああああああああああああ!』
おかしい。こんなに叫んでいるのに、誰も気づく様子がない。深夜で、みんな眠ってしまっているのだろうか。いや、違う。廊下の向こうからは不自然なほど音がしない。しかも、月明かりの一つも射し込んでこない。すぐ向こうは外だ。自分が知っているマンションの外の風景が見えるはずなのだ。廊下は外に面している。なのに、町の明かりも月の光も何一つない真っ黒な闇、闇、闇。
引きずり込まれたらもう、絶対に逃げられない。
『やだ、やだ、やだああああああああっ!!』
どれほど叫んでも、腕は強く引っ張られるばかり。やがて肘のあたりから、みしり、と嫌な音がした。このままでは関節が外れてしまう。そもそも玄関にしがみついて足を踏ん張るにも限界がある。
ふと、杏奈は視線を下へ向けた。向けて、しまった。そして気づくのだ。
自分の腕を引っ張っている腕とは、別。まるで子供がしゃがみこんでいるような位置。闇の中に、子供の顔が浮かんでいることに。
小さな男の子の顔だ。真っ白なその顔が、じい、と杏奈を見上げているのである。その灰色の唇が、動いた。
『み ん な き ら い』
ごきり、と右腕から鈍い音。肘が外れたのだと気づいた瞬間、激痛が足元から駆け上がった。
『ぎ、ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!』
もう、抵抗もできない。ずるるるるるるる、と体が闇の中へと引きずり出されていく。何もない。そこはもう、生きた人間の世界ではない。右腕だけではなく、体が何本、何十本、何百本という腕に絡めとられていく。
その一本一本が、凄まじい力を持っていた。関節が外れた右腕の肘が、ぐるんと360°回転させられる。左膝が上向きに、関節の方向を無視して捻じ曲げられ、バキバキと骨が折れて皮膚を突き破ってくる。胸のあたりをむんずと掴まれたと思ったら肋骨に圧力がかかり、みしみしと砕けていく音を聞かされる。
腹に置かれた手が、皮膚の上から内臓を押しつぶす。肛門から、尿道から、大量の血が噴出するのを感じ取っていく。
『いだい、いだい、いだい、いだい、あああ、ああああああああああああああああっ』
誰も助けてくれない。自分が生きたまま、壊されていく。そして。
――ああ、こんなところに、来なければ。
最後に視界に入ったのは。こちらを能面のような顔でじっと覗き込んでくる、男の子と女の子の顔だったのだ。
***
「あ、あああ、あ……」
由梨は椅子から崩れ落ち、杏奈から距離を取るように後退った。杏奈はそんな由梨を見ることなく、俯いて肩を震わせている。
「……騙した、つもりではなかったんです。そもそもわたしも最初は……あれは、夢だって思おうとしたから。気づいたら朝で、わたしはパソコンの前で座って眠っていた、ように見えたから」
でも違ったんです、と杏奈。
「わたし、もう、いなくなってた」
ぽろり、と。その頬を涙が伝うのが見えた。
「大学の友達とも、家族とも、誰とも連絡つかないんです。誰も、わたしを探しにこないんです。いつの間にかおなかも空かない。トイレにも行かない。眠らなくても平気。そして……外に出ても、少ししたらすぐまた、部屋の中に戻されてる。そして、マンションの外へ行ける距離が、どんどん縮まってるんです。試しに……試しにマンションから飛び降りたら、わたし、また、部屋に戻ってて……!」
ああ、と由梨は呻く他なかった。杏奈は、自分が死んだことがすぐにはわからなかった。ただ状況と記憶から、そう推察するしかなくなったのだと。
「まことさま、が圧力をかけてくるんです。どんどんこのマンションに新しい人を呼べって。生きてる人を呼んで、新しい〝住人〟にしてしまえって。そうして、みんなみんな、死んで苦しみ続ける人間にするんだって。みんなが嫌いだからそうするんだって」
「そん、な……」
「なんで嫌いなのかは教えてくれませんでした。でも、わたしは……これ以上、わたしみたいな人を増やしたくなかったんです。だから、由梨さんにお茶も出しませんでした。死んだ人間であるわたしが食べ物を出したら、それが黄泉戸喫になってしまう可能性があるから……」
黄泉戸喫。
黄泉の食べ物を食べることにより、現世に戻れなくなるという考え方だったはずだ。由梨はそれを知っていて避けたということなのだろう。
思い返せば、由梨も、なんなら律花にもおかしなところはあった。気配もないのにいつの間にか後ろに立っていた、どちらもそんな登場の仕方をしたはずだ。
ひょっとしたら、死人であるのはマンションの住人だけではないかもしれない。呼ばれた人間しか住人になれない、認知できないならば、管理会社の人間だって怪しい。彼らも死んだことを認識されないまま、マンションに人を呼び込む役目をさせられているのだとしたら。
「……じゃあ」
由梨は、掠れた声で尋ねる。
「伊織、は……?」
杏奈は、答えない。答えないのが、答えのようなものだった。
つまり、生きている望みはほとんどない、と。
「四谷さんは、まだ外に長時間買い物に行けてるんですよね。なら、引っ越せば間に合うかもしれません」
「……やだ」
「四谷さん……!そもそも、いくら恋人さんが行方不明だからって、普通引っ越しまでしてこようなんて発想にならないんです。おかしなことが起きても、神社に頼ろうという気にならないのも、ここから逃げ出そうという気が起きないのも、全部まこと様に誘導されているからなんです!お願いします、今からでも遅くは……」
「やだ!伊織を諦めろっての!?絶対嫌、嫌だから!私……私、信じないからっ!」
「四谷さん!」
彼女が、本気で自分を心配してくれたこと。死人でありながらどうにか由梨を助けてくれようとしているのはわかっていた。それでも、受け入れることができない事実はあったのである。
もし伊織を助けられないなら、自分はなんのために此処に来たのか。
由梨は泣きながら、杏奈の部屋を飛び出していた。自分の無力さと、どこまでが己の意志かもわからない現実に怯えながら。




