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<14・帰還。>

 鎌口川の、近隣の村から流れてきた〝ナニカ〟を調べる。それができれば、この異常な状況を解決する手がかりになるかもしれないと、杏奈はそう考えた。しかし。


「問題は……あー」


 鎌口川の、特に●●山に近い上流あたり。その付近に、今はもう亡き村がいくつもあるというところまでは掴めた。

 二似村(ふたにむら)

 鎌口下村(かまくちしもむら)

 安条集落(あんじょうしゅうらく)

 和乃江村(かずのえむら)

 鎌口南村(かまくちみなみむら)、などなどなど。

 大型掲示板には、祖母から聞いたという〝謎のマーク〟の画像を上げてくれている人がいた。この画像で調べれば何かわかるかもしれないと思ったが、画像検索ではこれに似たものはヒットせず。結局どの村のマークなのかもわからなかった。

 もっというと、既に廃村となったこれらの村に関する情報もほとんど何も出てこない。何が原因で廃村になったのかもさっぱりわからなかった。土砂災害などで潰れてしまったとか、過疎化が進んでなくなったとかならどこかに情報が残っていそうなものだが。


――現地に行って聞き込みすれば何かわかる?可能性はあるけど、でも……。


 どうしよう、と杏奈は悩んだ。自分では、そこまで行けそうにない。どうにか思いついたのは由梨の顔だった。彼女なら、そこまで足を向けることもできる、だろうか。

 あまり出会ったばかりの女性を頼るのは忍びなかっが、これは彼女のためでもある。相談する余地は十分あるだろう。ましてや、由梨はいなくなってしまった恋人の行方を捜して――否、その存在に引っ張られてしまってここに来ているフシがある。真実を知りたいのは彼女も同じであるはずだ。


――明日、相談してみよう。うまくいけば……。


 その時。かたん、と音が聞こえた。はっとして杏奈は、和室の方へと視線を向ける。厚い緑色のカーテンを閉めた向こう側。明らかに音は、そこから聞こえた。


――いる。


 かたん、という物音が――こつん、こつん、と窓を叩く音に変わった。怖い。見てはいけないと思うのに、足は勝手に立ち上がり、リビングを出ていこうとするのだ。

 和室の畳を、靴下の足がゆっくりと踏みしめた。慣れ親しんだ部屋のはずなのに、妙に足が沈み込むような感覚を覚える。じわ、じわ、じわ。まるで、畳が急に汚泥に変わってしまったかのよう。油断すれば一気に、何もかも飲み込まれてなくなってしまうような気がする。否。

 その感覚は、気のせいではあるまい。

 自分は己を失う、本当に瀬戸際の瀬戸際にいる。あと少し、あと少し何かが違えば、きっと自分はもう自分でなくなってしまうのだろう。なんせ、こうして呼ばれたらもう、逆らうことができなくなっているのだから。体は勝手に、窓へとじりじり近づいていく。見たくない、知りたくないと望んでも関係なく。


――やめて。


 怖い。


――お願い、やめて。


 怖い。


――何をそんなに、怒ってるの。わたし、わたしは別に、あなた達に何かしようとしたわけじゃない。ううん、わたし達だけじゃない、マンションの他の人達だって、全然……!


 手が、カーテンにかかる。ぶるぶると指が不自然に震え、その震えが布地に伝わって奇妙な揺れを齎す。

 ゆっくりとカーテンを、開けた。

 窓の外は、不自然なほどの闇だった。まだ完全な夕闇に包まれるには早い時間であるはずなのに。そして。




 どんっ!




「ひいっ!」


 窓に、思い切り掌が叩きつけられる。青白い、子供の両手。闇の中から伸びてきた二対の手が、どん、どん、どん、と窓を掌で押し出すように叩くのだ。


 どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!


「い、いやっ」


 どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!どん!


「やめて、お願い、やめてえええええっ!」


 耳を塞ぎ、目をつぶって絶叫する。

 逆らうな。そう言われているのはわかる。お前たちは自分達の僕。地獄に堕ちたくなければ、永遠の苦しみを味わいたくないのなら大人しくしていろと。

 それに頷き、貴方たちに従いますと言ってしまえばこの異変は終わるのだろう。しかし、それは即ち杏奈という存在の終わりをも意味している。彼らの言葉に頷けばもう、自分は自分でなくなってしまうのだろう。ほんの僅かな抵抗はできるかもしれないが、それだけだ。誰かを、自分を助けるためのほとんどの行動が封じられてしまうことは目に見えている。

 それだけは嫌だった。

 どれほど脅されても、怖くても、まだ杏奈は杏奈でいたい。誰のことも救えない、己の価値も見いだせない人間にまで落ちぶれたくはない。


「あんな」


 唐突に、音がやみ――声が聞こえた。耳を塞いでいるのに関係なく。


「あんな」


 杏奈の名前を呼ぶ、まだ声変わりもしていない、舌足らずな少年の声。

 体が勝手に前を向いてしまう。首が、意思に反して、窓を。そして、見た。


「い」


 べたり、と窓に顔が張り付いている。小さな男のの顔と、女の子の顔が。

 びしり、と窓ガラスにひびが入るのが見えて――。


「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 恐怖が、頂点に達する。そこでぶつりと、スイッチを消すように杏奈の意識は途絶えたのだった。




 ***




 晩御飯はちゃっちゃと焼きそばで済ませた。スーパーで、賞味期限が近い焼きそばに値引きシールが貼られていたからだ。

 焼きそばを発明した人は実に偉大だ、と由梨は思う。残り物と合わせて炒めて簡単に食べられるし、結構お腹も膨れる。邪道と言われるかもしれないが、チンするご飯の上に焼きそばを乗せて食べるのもオツなものだった。焼きそばはちゃんとおかずとしても機能するのである。


――とりあえず、六田さんのとこにも挨拶に行ったし……。買い物もしたし、晩御飯も食べた。次にやるべきことは……。


 人を尋ねるなら少し遠慮しなければいけない時間になっているが、伊織の部屋を軽く調べるくらいの時間はあるだろう。由梨は鍵を取り出した。伊織がくれた、スヌーピーのキーホルダーがついた鍵だ。恐らく、当初彼は205号室の部屋で、由梨と一緒に住むことも考えていたのだろう。

 残念ながら結局あれから一度も、この鍵を使う機会はなかったのだが。


「伊織、使うよ……鍵」


 自室の鍵と伊織の部屋の鍵、それからスマホだけを持って自宅を出る。

 エレベーターホールから階段を降りて、一つ下の階へ。そういえば、マンションの中で人とすれ違うことがほとんどないな、とぼんやり思った。引っ越し初日にポストを覗いていたら杏奈に後ろから声をかけられた、くらいだ。あまり外に出るタイプではないのだろうか。201の六田兄弟などは、かなりアウトドアタイプに見えたのだが。


――あー、エレベーターホールの方じゃなくて、反対側の階段使えば良かったじゃん。そっちの方が早かったわ……失敗した。


 203号室の前を通り過ぎたところでやっと気づいた。まあ、ここまで来てしまったなら同じだろう。相変らず、変なところが抜けている。

 そういえば、203号室はやはり空室で間違いないようだった。ここもドアポストが塞がれている。表札も白紙状態になっていた。ずっと誰も住んでいないのか、玄関前もなんだか薄汚れている。この部屋で誰かが亡くなった、という話は聞いていないが。


――まあ、マンションの二階って治安的には微妙だし。安全面を重視したい人は、もうちょっと上の階にするかもなあ。


 由梨が三階にした理由も一つはそれだったりする。自分の場合いざとなったら暴漢くらい自力でぶちのめせる自信はあるが、それでも女の一人暮らしに違いないのだ。

 両親にも、オートロックマンションが高くて駄目なら、せめて三階以上の高さのところに住んで!と口が酸っぱくなるほど言われたものである。二階だと、一階から侵入してくる人がいるかも?とかの懸念が払拭できないらしい。二階の窓から入れる人間がいたら、とび職か何かに限定されるだろうなと自分は思うのだが。


「入るよー」


 205号室。前に来た時と、見た目は何も変わっていない。二階堂、の表札もかかったままだ。ひと声かけて鍵を回した。万に一つ、億に一つ――彼が帰ってきていることに期待して。

 もちろん、そんな淡い期待はすぐに打ち砕かれるのだが。


「……まあ、そうだよね」


 部屋はまっくらだった。ぱちり、と電気をつける。彼が帰ってきた時のため、水道や電気、家賃などのお金は伊織の両親が当分肩代わりして払うつもりだと言っていた。すぐに息子が帰ってくるはずだと信じているというのもあるだろう。

 玄関に靴はない。

 伊織は何も持たずに一人でどこかに出かけて、そのままいなくなった様子だったという。彼の家の、いつも履いていたスニーカーが一足見当たらないそうだ。スマホもなくなっていた。ただし、財布はリビングのテーブルに無造作に置きっぱなし。お金もばっちり入ったままになっていたという。

 玄関の鍵も窓の鍵もかかっていたことから、本人が自分の意志で出て行った可能性が高い。ただし、長期的な用事ではなく、すぐに戻るつもりだったのか――あるいは慌てて逃げ出すように出て行ったのではないか、というのが身内の見解だった。警察も似たようなことを言っていたという。由梨も、彼からの意味深な電話がなければ、外で事件に巻き込まれた方を強く疑っていたかもしれない。


「……伊織」


 数週間以上誰も来ないまま、放置されていたからだろう。部屋の中は少しだけ埃っぽくなっていた。綺麗好きの彼が知ったらしかめっ面をしそうだ。由梨とは違い、几帳面な青年だった。三日に一度掃除機をかければいいと前に言ったら、「それは駄目だってば」とはっきり叱られた記憶がある。


『ちゃんと綺麗にしないとダメだよ!由梨は風邪ひくと咳から来るタイプじゃん。気管支が強くない人ほど、ちゃんと掃除機くらいかけなきゃ。清潔感もそうだけど、何より健康に必要なことなんだからね!』


 そういえば、今日部屋の掃除したっけ?と思う。既に思い出せなかった。

 伊織ならきっと、こんなこと忘れたりはしないのだろう。


「……うん、そうだよね」


 とりあえず、と由梨はリビングの隅にたてかけられた掃除機を見る。


「まず掃除機、かけるか。……感謝しろよな、伊織」


 掃除をしていれば、何か見つかるかもしれない。伊織もきっと、それくらいは許してくれることだろう。

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