<10・転落。>
「な、なに?なんなの?」
一体どこから、と由梨は周囲をきょろきょろと見回す。当然だが、自分が今いるリビングの部屋ではないし、和室の窓も割れている様子はない。というか、音の距離からして自分の家ではないことは明らかだ。
「一体どこから……?」
しかし、そこまで遠いわけでもない。由梨は立ち上がると、和室の方へ足を運んだ。ベランダに行ける部屋は和室だけだからである。
窓に近づくと、ばたん、どたん、と何やら暴れるような音が聞こえてくる。
『ああああああああああ!やめろ、やだ、やだ、やだあああああああああああああああああああああああああああ!!』
そして耳に入ってきたのは、男性の絶叫。この声には聞き覚えがあるような気がした。隣の304号室、フリーターの五里琢磨ではないだろうか。
「五里さん!」
まさか、誰かに襲われているのではないか。このマンションの鍵は最新型ではないようだし、ピッキングなんかで開けることもできてしまうのかもしれない。
とりあえず様子を確認しようとサンダルをつっかけてベランダに出て304号室の方を覗いたところでところで、由梨ははっきりと聴いてしまった。
物を投げつけるような音。
人を殴るような音。
転ぶような音、呻き声。そして、はっきり視界に入る、割れた窓ガラス――。
「助けて、助け、助けてえええええええええええええええええええええええ!」
やがて、硝子辺を踏みながら飛び出してきた男性。五里琢磨は、割れたガラスで切ったのか額や手から血を流していた。まるで部屋の中にいる何かから逃れるように、転びそうになりながらベランダの柵を乗り越えている。
「五里さん!五里さん!な、何があったんですか!?」
話を聞ける状態ではない。わかっていたが、訊かずにはいられなかった。確かに、少し神経質そうな男性だと思っていたのは確かだ。しかし仮にも成人男性がここまで怯えるなんて、一体何に襲われているというのだろう。
「ひいいいいいい、いいいいいいいい、や、やめてくれ、ぼ、僕はなんも、悪いことなんかっ……なんで、こんな!」
彼は由梨の声などまったく聞こえていない様子だった。というより、こちらの存在に気付いていないと言った方が正しいか。パニックになりながら、這いずるようにベランダの柵を乗り越えようとしている。彼が壁が床を触るたび、手から流れた赤が派手な血痕を残した。血の手痕を残しながら、彼は柵に跨る。
「ご、五里さん、駄目です!ここ三階です、危ないです!!」
何が起きているのかわからないが、このまま落ちたらあまりにも危険だ。二階だったら軽傷で済むだろうが、三階からでは死んでしまう可能性も高いはず。
それなら手摺を伝って、隣の部屋に逃げた方がマシなはずだ。
「こっちへ来てください!私の部屋なら安全です、早く!」
助けなければ。その一心で手を伸ばすも、琢磨は由梨の存在などまったく目に入っていない様子で、ひたすら部屋の中を凝視している。
引きつれたような声が、恐怖に歪んだ口元から漏れた。
「どうして……?僕は、僕はこの部屋に住んだだけなのに、なんで……?こんなの酷い、こんなのって……」
その足がずるり、と滑った。ああ!と思って由梨は身を乗り出すも、とても手が届く距離ではない。
「あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
落下していく、琢磨。僅かに遅れて、ぐしゃり!と酷い音が聞こえてきた。
「五里さん、五里さああああん!」
ベランダの向こうには狭い通路があり、通路の向かい側には塀があって一軒家が立ち並んでいる。落ちるとすればあの通路だと、由梨は真下を覗き込んだ。
そして。
「う、うぐっ……!」
見て、しまった。
灰色のコンクリートの上。両手、両足をおかしな方へ捻じ曲げて、仰向けに倒れている五里琢磨の姿を。
否、手足が折れるくらいは想定の範囲内だった。おかしいと思ったのは、そのねじ曲がりぶりだ。
右腕が、肘のところでぐるんと一回転し、ひっくり返った手首が上を向いている。
股関節は完全に可動域を無視し、右の足首が彼の顔の近くに転がっている。
当然左側も酷いものだった。一番マシに見える右腕もぴんと伸びたまま、手首が裏返って腕の下に入っていた。
左足に至ってはまるで折りたたまれたようにぐしゃぐしゃになり、完全に原型をとどめていない。
さらには腹が不自然にぱっくり割れて、その中身をどろどろとこぼしているのである。由梨は、お魚を捌いた時のことを思い出してしまった。腹を裂いて、中の管のような袋のような臓物がどろりと溢れてきたあの時と同じ。人間にはもっと複雑なものが大量に詰まっているのだと、学生時代に理科の授業では確かに勉強していたはずだ。ああそれを実地で、確認する経験なんて一生したくはなかったのに。
「う、うぐううっ……」
口元を押さえて、吐き気を堪える。琢磨は鼻が潰れ、頬が陥没していた。目からも、耳からも、口からも大量の血を流している。その状態で――なんとまだ息があるのか、びくびくと全身が痙攣しているのだ。
――な、なんで?なんであんなことになってるの?
何かが、おかしい。確かに、人が転落死するとその死体は酷いものになると聞いたことがある。だが、琢磨はあくまで三階から落ちただけなのだ。場合によっては助かることもあるくらいの高さである。それでどうして、こんな機械でプレスでもされたような凄惨な傷を負うことになるのか。
もっと言えば、仰向けで落ちたっぽいのに、顔面まで潰れているのもおかしなことだ。
――だ、駄目。気持ち悪くなってる場合じゃない!ま、まだ生きてるのかもしれない。た、助けないと……!
痙攣していたということは、その可能性がゼロではないということ。勿論あの怪我で生き延びられる見込みがあるとは思えないが、それでも見捨てるなんて選択肢はない。
とりあえず下へ確認しにいき、救急車を手配しなければ。スマホを取りに部屋に戻ろうとした時、由梨はかしゃん、と軽い音を耳にした。それは、誰かが硝子片を踏む音だ。
――!そ、そういえば、五里さんは何にあんなに怯えて……?何かが、部屋にいたからじゃ。
405号室の方を、もう一度見た。そして、息を呑むこととなる。
部屋の中から、ゆっくりと出てくる人影がったのだ。小さい。髪の毛を、二つに結んでいる。小学校低学年くらいの――女の子。
だが、おかしい。何故、その姿が黒いモヤがかかっているように見えるのだろう。時々ノイズがかかったようにぶれるのだろう。
まるで、人間でないみたいな――。
「ひっ」
その顔が、ゆっくりとこちちらへ傾いていく。由梨の方を向こうとしているのだ、と気づいて慌てて視線を逸らした。
アレと、視線を合わせてはいけない。頭の中で、何かが激しく警鐘を鳴らした。心臓がばくばくと五月蝿いくらいに鳴っている。いくら空手で鍛えていても、きっとあれは、そういうもので太刀打ちできる何かじゃない、と。
――と、と、とにかく五里さんを、助けに……!
背中に感じる視線に気づきながらも、サンダルを脱ぎ捨て、転がるように部屋に戻ったのだった。
何か。自分が想像もしていなかった、何か恐ろしいことが起きている。それはもう、殆ど確信に近いものだった。
***
スマホだけ握りしめて、サンダルをつっかけて、外へ。
エレベーターを待つ余裕もなく、ホールの階段をひたすら駆け下りる。とにかく状況を確認しなければいけない。ここで隣人を見捨てるようでは、人間としておしまいではないか。
「はあ、はあ、はあ、はあ……!」
玄関のガラス扉を、まるで体当たりをするように開いて飛び出し、目の前の歩道に出る。
八幡マンションは左手に駐輪場を併設していた。マンション裏の通路に行くには、この駐輪場を経由する必要がある。自転車の合間を通り抜け、給水タンクが見えてきたら左に折れる。さっき自分が見たものが真実なら、彼が落ちたのは通路のど真ん中であったはずだ。
ところだ。
「……え?」
今度こそ、由梨は立ち尽くすことになってしまった。
無いのだ。
あんな、吐き気を催すほどぐちゃぐちゃになった五里琢磨の体が、どこにも存在していない。見間違えるはずも、見落とすはずもないというのに。
目の前にあるのは綺麗なコンクリートの道だけだ。隣家の塀も、マンションの壁も、何一つ血で汚れている様子はない。誰かが彼を運び出したなんてこともないだろう。そもそも、由梨が飛び出してここに辿り着くまで三分もかかっていないはずなのだ。
「なに、これ……」
自分は夢でも見たのだろうか。由梨は恐る恐る、マンションを見上げた。五里琢磨の部屋は、自分の部屋の隣。大きなマンションではないし、位置はすぐわかる。
やはりおかしい。
琢磨の部屋の手摺も、まったく血で汚れていない。それどころかこうして見ると、硝子さえ割られていないような。
「幻……?」
自分は、白昼夢でも見てたというのか?それにしては、あまりにも悪質な内容だった。思わず頬をつねり、耳を引っ張ってみる。確かに痛い。夢を見ているような感覚など、一切ないというのに。
――いや、でも、確かに悲鳴も聞こえて、あ、あれ?
そういえば、悲鳴も聞こえて人が落下する音もしたのに、何故マンションから飛び出してきたのが自分一人なのだろう?もっと大騒ぎになっていて、人が集まってきてもおかしいはずだというのに。
まさか本当に、真昼間から幻覚でも見ていたというのか?それともこれは。
「ゆ、夢……?」
「違う」
「!」
ぎょっとして振り返った。
いつからそこにいたのだろう。眼鏡をかけたおかっぱ頭の若い女性が、まるで幽霊のように佇んでいるではないか。
「夢じゃない。でも、今でもない」
彼女は低い声で、そう言った。
「ここは、そういうところ。貴女も直に、思い知る」