<1・来訪。>
どうしよう、やっぱり資料が足らない。
七海杏奈は、パソコンの前でため息をついた。
時刻は既に深夜一時を回っている。それでも自分が起きていてパソコンに向かっている理由はただ一つ。大学のレポート課題が、全然終わっていなかったからである。
明日は吹奏楽サークルの練習もあるし、ほとんどレポートをする時間なんてないだろう。今日のうちにほとんど終わらせてしまわないと間に合わない。なんでこんなにギリギリまでほっといたの自分、なんて今更後悔してもどうしようもないことだった。ゲームが楽しすぎて、うっかりレポート課題の存在自体を忘れていたのは自分自身なのだから。
――今更、図書館とか行けないし。もちろん、取材する時間もないし……どうしよう。
とある河川の歴史についてまとめるレポートだった。人々の生活とどのように関わってきたのか、どういう成り立ちなのか、今はどんな形状をしているのか。ある程度事細かに描かなければ、A判定を貰うことなどできないだろう。しかし、今更その土地に調べに行く時間などあろうはずもない。ネットで調べれば情報が出てくるだろうなんて、タカをくくっていたのもまずかった。まさかこんなにも資料も写真も出てこないだなんて。
レポートは、ある程度写真などの画像が入っていた方が映えるものである。というか、全部を文字で埋めるのがあまりにもしんどい。なんとかして、川の画像の一つも入れられたらカッコつくというのに、それだとはっきりわかるものが殆どネットに上がっていないのはあまりにも誤算だった。
――支流は、このマンション近くの川まで繋がってるかんじなんだよね。……こっちの川の写真とか情報載せて、なんとか誤魔化すしかないかな。
ここでA判定がどうしても欲しい。というか、お世辞にもテストで点が取れると思っていないので、何がなんでもレポートでポイントを稼いでおかないとまずいのだ。
うんうん唸ってみたものの、結局これ以上文章を捻りだすのは難しそうだった。適当に自分の感想を書いて文面を埋めようにも、その感想も出てこない始末である。だってそうだろう、隣県の、自分の目で見たこともない川に対してなど大した感想が出てくるはずもない。感慨もへったくれもありゃしないのだ。
「はあ……」
背もたれによりかかると、思いのほか大きな音がした。おっと、と慌てて椅子に座り直す。この賃貸マンション、あまり壁が厚くないのだ。こんな時間に五月蝿くしたらご近所迷惑になってしまう。大学と同じ最寄り駅、やっと見つけた格安物件なのだ。ここでご近所の住人とトラブルになるのは避けたいところである。
「うーん、うんっ」
両手を伸ばし、凝り固まった体をほぐす。襲い来る眠気を、なんとか振り払わなければならなかった。明日も授業はあるが、午後だけなので少し遅くまで寝ていても問題ない。一年生の頃は大学まで一時間かかっていたが、このマンションを見つけてからはなんと片道徒歩ニ十分で済んでいる。どうして去年、見つけることができなかったのかと思ったほどだ。ギリギリの時間まで眠ってもなんとかなるはずである。ゆえに、もう少しやる気があるうちに、課題に目途をつけてしまいたいところだった。
暫く体操をして少しだけ体は柔らかくなったが、残念ながらそれでもやっぱり次の文章は出てきそうになかった。ご近所の〝支流〟の川を撮影しようにも、今の時間ではまっくらでまともな画像にならないだろう。明日、明るくなってから撮りにいくしかない。
――画像はそれでいいとしても、もうちょっと文章。文章……うーん、なんか書くことないかなあ。
仕方ない、と杏奈は立ち上がった。向かう先は部屋のキッチンである。杏奈は一人暮らしだったが、このマンションはなんと3LDKの広さがあった。東京なら、ワンルームでもウン十万するところが少なくないのに、ここはたった三万で済んでいる。安いなんてものじゃない。しかも、建物もそこらの木造アパートと比べたら格段に綺麗だ。なんで空き部屋が多いのか、不思議で仕方ないところである。
この土地自体に人気がないのだろうか。
それとも――先日聞いてしまった、このマンションに関する噂は本当なのか。
――や、やめやめ。考えるのやめ。深夜に想像するこっちゃない!
ぶるり、と体を震わせ、キッチンの電気をつけた。そのまま冷蔵庫を開ける。牛乳を取り出すと、キッチン端に置きっぱなしになっていた白いマイコップに注いだ。そして、そのまま電子レンジの中に突っ込んで回し始めた。古い電子レンジを実家から譲って貰えたのは本当にラッキーだったと思う。家電を揃えるお金も馬鹿にはならない。こちとらバイトもろくにしていない貧乏大学生なのだから。
小さい頃からホットミルクが好きだった。
眠気を覚ますためなら、本当はコーヒーの方がいいのかもしれない。でも、ホットミルクの方が断然美味しいし、気分も落ち着けると杏奈は思っている。ものすごく甘いわけでもしょっぱいわけでもないのに何でこんなに好きなのか、その理由は自分でも説明できないことだったけれど。
「!」
ミルクを飲んで、コップを洗おうと流しに置いたその時だった。聴覚がある音を拾って、慌てて顔を上げる。
「なに……?」
何か、足音のようなものが聞こえたような。それも、子供が走り回るような。
――気のせい、だよね?だってこんな時間だし。
いくらなんでも、深夜一時に子供を走り回らせるのは非常識というものだろう。いや、そもそもこのマンションに、〝走り回る〟くらいの年頃の子供なんて住んでいただろうか。家族連れはいたが、あの一家の子供はまだ歩くこともままならない小さな赤ちゃんだったはず。夜泣きすることはあっても、バタバタと駆け回ることなんてできるはずもない。
あるいは誰かが、深夜にテレビでも見ているんだろうか。だとしても音量は下げて欲しいのに、と思ってコップを洗い始めた時だった。
バタバタバタ、バタバタバタバタバタ、バタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタ!
――やっぱり、気のせいじゃない……。
もし。
自分がこのマンションに引っ越してきたばかりであったなら。あるいは、他の住人に一切挨拶もしないくらいコミュ障だったなら。
夜中に子供を走らせるなんて迷惑だな!と怒って終わりになったかもしれなかった。しかし、実際杏奈は引っ越しの時に住人の多くに挨拶をしているし、幼児から小学生くらいの子供がいる家庭がないことも確認しているのである。
ならば、この足音は何なのだろう。しかも、走っているのは一人ではないような。
「……誰?」
思わず、呟いていた。
「誰か、いるの……?」
杏奈が尋ねた途端。不思議なことに、走り回る音はぴたりと止まった。まるで、気づかれたから自重しましたと言わんばかりだ。まさか、こちらの声が聞こえているのだろうか。いやそんなバカな、と背筋に冷たい汗が走る。
そもそも、自分が住んでいるのは301号室。上の401号室は、そもそも空き部屋となっていたのではないだろうか。もちろん足音や声が、真上から響いてくるものとは限らないのは知っているけれど。
「…………」
聞いたことがあった。このマンションは、人が死んだことがある、と。
四階の、403号室。この部屋も空き部屋になっているのだが――この部屋で、人が死んでいたことがあるというのだ。詳しいことはあまりわかっていない。死んでいたのは老人で、部屋をゴミ屋敷にした上で倒れていたから事件性がないとみなされた、と聴いている。ただ、それ以来このマンションでは、奇妙な出来事が多発しているというのだ。
死んだおじいさんの呪いなのか、そもそもそのおじいさんもなんらかの呪いで死んだのか。
おじいさんの幽霊が出るのではなく、おじいさんの孫っぽい子供の幽霊が出るというのがおかしなところではある。ただ、確かに何かが出る、なんて噂されてしまっているせいで、このマンションは価格が下がってしまたっというのだ。
今杏奈が住んでいる部屋で人が死んだわけではないので、正確には事故物件というわけではない。だからそういう話を聞いても、「ふーんそうなんだー」くらいの感想しか抱かなかったわけだが。
――まさか、本当にいるんじゃないよね?
子供の幽霊なんて、そんな悪さをしそうなイメージもない。そもそもこのマンションで死んだのはあくまでおじいさんだというのなら、子供達は此処で死んだわけではないはずだ。だったら、このマンションの住人を呪うとか、そういうこともないはずだろう。
――!
再び、音が。
今度は、表の通路を歩く足音だった。
ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた。
ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた。
――気のせいじゃない。こんな時間に誰か……通路を歩いてる。
それも、足音は恐らく二つ。
軽い音――小さな子供のもの、であるような。
「…………」
コップを洗い終えると、杏奈は玄関横の部屋へと足を運んだ。
リビングから玄関は短い廊下で繋がっており、その左右に二つ部屋があるという構造だった。そして、どちらの部屋にも曇りガラスの窓がある。どっちの部屋も半ば物置状態となっていた。今夜は、カーテンを閉めることも忘れていた気がする。
左手の部屋に入った時だった。くもり硝子の向こうを、小さな影がゆっくりと通過していくのが見えたのである。それも、二つ。まるで子供が縦に並んで歩いてきたような。
――こんな時間に、なんで……。
何か、とてつもなく嫌なことが起きているのではないか。そう思った次の瞬間だった。
ピンポーン!
その音は、唐突に室内に響き渡ったのである。
「うそ……」
それは、我が家のベルに相違なかった。足音は、確かにうちの前で止まった。さっきの子供達が家に来たと思って間違いない。上の階から、階段を降りてきたということなのか。いや、今はそれよりも。
「なんで、鳴るの?」
玄関のベルは、壊れていたはずだった。先日音が鳴らなくなってしまい、来週修理が来てくれることになっていたのである。自分が押してもうんともすんとも言わなかったのに、何故それがこんなはっきりと鳴るのだろう。しかも。
ピンポーン!
ポンポーン!
ポンポーン!
ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!ポンポーン!
音は、どんどん大きくなっていく。早く出ろ、出なければいつまでも鳴らし続けるぞと言わんばかりに。
何かがおかしい。こんな音でインターホンが鳴っているのに、何故近所の人は何も言わないのだろう。煩いのは自分だけなのか。これではまるで、自分の家でだけ、音が鳴っているかのような。
「や、やめて……」
よろめきながら、玄関に近づいていく。心臓が、ばくばくと五月蝿い。絶対にドアを開けてはいけないと思うのに、何故か手は勝手に鍵へとのびていく。この音を止めなければ。ドアを開けない限り止まらない。焦燥と、恐怖、嫌悪感。体が、言うことをきかない。
「やめてよ……!」
鍵穴を覗く余裕さえ、なかった。チェーンを開け、玄関の鍵のツマミを回した、その次の瞬間。
「ひっ」
ドアがあちら側から、強引に開いた。そして――青白い腕が伸びてきて、杏奈の右手首を掴んでいたのである。