第二話 死体処理人
それから10年が過ぎていた。
隣国との緊張感は、もはや奇跡といってもいいレベルで危うい均衡を保ったままだ。限界まで膨らんだ風船は、割れることも、しぼむこともないままその形状を維持し続けた。
もっとも、そんな張り詰めた空気にさらされ続ければ、やがて人は正気を保てなくなるものらしい。
ウィルの死体処理場には、以前にもまして大量の死体が届けられるようになった。
しかも、増えたのは数だけではない。人間以外の死体も、ここに届けられるようになった。
悪法に輪がかかったのだ。
遺体を埋葬する高額な費用は、家畜やペットなど、あらゆる動物にも適用された。
庭先で小鳥が死んでいるのを見かけた者は、周囲の目につかないようにそっと隣の家に小鳥の亡骸を投げ入れるのが当たり前になった。
──もっとも、翌朝には投げ入れたはずの小鳥の亡骸に、犬の死骸がセットで送り返されることはザラだったし、そんなリレーが繰り返されるうちに、両家から人気そのものが消えうせるのだ。
そんな中、ウィルとその相棒は今日も職場にお客を運び入れる。
昔から変わることのない、それが彼らの仕事だった。
だが、ここ数年、変化が起こっていた。原因は他でもない。今やこの部屋の主となった、彼らの新しい家族だ。
「よう、弟よ。調子はどうだ」
「──兄者か。どうもこうもない。いつも通りだ」
10歳の少年、ジャック=ハンターは、慣れ親しんだ”職場”で、今日も黙々と”仕事”をこなしていた。
「相変わらず、見事なメス捌きだ。見ていてほれぼれするぜ」
「まったくだ。おかげで、昔よりも運び込まれる亡骸の数は増えたってのに、この地下室は逆にすっきりとキレイになっちまったんだからな」
以前は死肉と腐臭が埋め尽くしていた地下洞だったが、最近では随分とこざっぱりと整頓された空間になっていた
職場の先輩である二人が絶賛する通り、ジャックには生まれ持った天性の才能があった。
まずなにより、その手先の器用さ。そして恐ろしく精密な視力。その二つを掛け合わせることで、まるで蝋を溶かすかのように見る間に遺体を細切れに分解して見せた。
しかし、それらの才能ですら、ジャックがその身に秘めた、呪いと呼んでも差し支えないレベルの好奇心に比べればかすんで見える。
「そんなことよりも、兄者。聞きたいことがある」
「またかよ。お前のその質問癖には、優しい兄でもげんなりすることがあるぞ」
「この、細長い管はなんだ?肉や骨でなく、体中のあちこちにある。別に切りにくいわけじゃないけど、傷つけると赤い汁が飛び出てきて仕事がしづらい」
ピンセットでつまみ上げた、赤黒く染まった管を見せながらそう問う。
兄者──ウィルは軽く苦笑いしてこう答える。
「そいつは血管だよ。お前が赤い汁って呼んでるのは血液──俺たちにとっちゃ、まさしく生命線だな」
「血管……。それは、いったいどんな役割がある?全部で何本なんだ?」
また始まった、と。二人は顔を見合わせる。
ジャックの尽きることない好奇心は、余すことなく、目の前にある無数の生物の亡骸に向けられていた。
この環境は、後天的にジャックの才能を大きく刺激し、また花開かせる場所でもあった。
何しろ、国中の遺体が集まっているのだ。しかも、老若男女、種族すら問わず。
そしてなにより、ジャックの育ての親であるウィル。彼の影響を無視することはできない。
ウィルの型にはまらないものの考え方は、普通の家庭であれば無意識に制限をかけていたであろうジャックの才能を、際限なく成長させる原動力となった。
こんな時、ウィルはいつも決まってこういうのだ。
「知らねえよ。そんなに気になるなら自分で調べな」
「……わかった。そうする」
素直にうなずくと、ジャックは再び自分の仕事に戻るのだった。
食い入るように目を凝らし、一本ずつ丁寧に血管を引きはがしにかかっていった。
「やれやれ……」
そんな弟の様子に、ウィルは苦笑する。
しかし、不意にジャックが視線を上げ、何かを思い出したようにウィルに向ける。
「そういえば、兄者。もう一つ聞きたいことがある」
「なんだよ、今日はいつにもまして質問の多い日だな」
「兄者は、俺の生みの親じゃないな?」
「ああそうだ。お前のおっかさんは、ここに運び込まれる途中でお前を生んで、そしてそのまま息を引き取った」
ウィルは、ジャックの出生にまつわる出来事には本人には内緒にしていた。
死体の腹を裂いて出てきたなどとは、実際にそれを目撃したウィル本人ですらにわかには信じがたかったためだ。
「それで、兄者は俺を養子として引き取った。そうだったな」
「この国の法律じゃ、戸籍の無いやつは施設送りで、そのままろくな生活もできずに死んでいくことが多いからな。戸籍を得るには、結婚か、養子縁組しか認められてねえんだよ」
「それじゃ、兄者は俺の義父──ということになるな」
苦虫をかみつぶしたような顔で静かにうなずくウィル。
ジャックが何を言おうとしているのか、おおよその察しがついたのだ。
「じゃあ、なぜ俺は兄者を兄者と呼ぶ?父上、もしくはダディと呼ぶのが普通ではないのか?」
ウィルは深々とため息をつきながら、ジャックの頭に手を置く。ボサボサの髪をワシャワシャとかき回しながら、
「あのなあ。お前を引き取ったとき、 俺がいくつだったか知ってんのか?」
「?そういえば、兄者の年齢は聞いたことがなかったか」
作業の時にはいつも厳しく引き絞られている瞳が、不意に大きく見開く。
年相応の少年が見せるような、素朴なリアクションである。
「16だぞ!そんな年で、急に父親になったんだ、俺は!呼び方くらいは俺の好きなようにさせろってんだよ……!」
「あの時、自分で言ったくせによ」
隣でぽつりと呟く相棒──ジェームズをすっぱりと無視して、ウィルはこれ以上は問答無用とばかりに話を切り上げた。
いつものようにジャックの頭をワシャワシャとかき回した後、地下室を後にする。
「あんまり根を詰めすぎんじゃねえぞ。この地下室は寒い。いつまでもいたら風邪ひいちまうからな」
「……わかったよ、兄者」