第五十話 引き分け!
大広間の続きとなった部屋に三人は通され、女官が一礼して扉を閉めていった。
痛いくらいの沈黙を破ったのは、範麗耀だ。
「……理杏、これはどういうことなの」
「そ、それは」
「何も言わずにどこへ行っていたのかと思えば、よりによって七夕の宴にのこのこと現れるなんてっ!!」
「申し訳ございません……」
「このことはお父様にご報告するわっ。官吏の中でも有能な人材が集まる礼部に今後あなたの居場所があるかしらねっ!!」
理杏は肩を震わせてうつむいたままだ。
「それと! 白花音!」
「は、はいっ?!」
呼び捨てされて、花音は飛び上がった。
「選書勝負は、引き分けよっ! 夏妃様が本をお読みにならないんだから、当然よね?!」
「は、はあ……」
伯言の怒った顔が脳裏をよぎり、花音は顔が引きつる。しかし、確かに範麗耀の言う通り、夏妃は範麗耀の選書も花音の選書も《《読んではいない。》》
「いいわね?! 引き分けよ!!」
「は、はい……」
「何よ、不満なわけ?! 調子に乗らないでちょうだいっ」
「そんな……そんなつもりは」
しかし範麗耀は花音に発言させない勢いで次々に怒鳴る。
「あれであたくしに恩を売ったつもりかもしれないけど、貴女のような庶民の小娘にかばってもらう必要など無くってよっ。あたくしは貴族五家のひとつ、範家の娘なんだから!」
一方的に言いたいだけ言うと、範麗耀は部屋を出ていった。
「そんなつもりじゃなかったんだけどな……」
恩を売るとか、貴族とか、庶民とか。
一生懸命に夏妃への選書作業をしたのは、皆同じ。
その気持ちから、思わず出た提案だったのだが、範麗耀にしてみれば確かに余計なことだったのかもしれない。
花音の作業を妨害するように指示したのは範麗耀なのだろうから。
妨害するということは、同じ土俵に立っているということ。
自分が優位なことがわかっているなら、無視すればいいことだ。
ことさら自分が優位だと主張するのは、選書が――己の仕事がうまくいかなかった、という事実を強調してしまうようで。
そんなことをする必要もないし、気にすることもないと思うのだが、範麗耀の山よりも高い矜持が許さなかったのだろう。
そう思うと、花音の提案は余計なことだったのかもしれないし、懸命に怒鳴っていた範麗耀は哀れに思えた。
「……ほんとうに、ありがとうございました」
静かな呟きに、花音はハッと振り返る。
「そんな、あの……ごめんなさい、余計なことを言って」
眼鏡越しの理杏の瞳が、柔らかく微笑んだ。
「それ。貴女のそういう素直なところが、きっと範次官のお気に触ったんだと思いますよ」
「え……」
「わたしも最初、そうだったから」
理杏は小さく息を吐いた。
「悔しかったの。わたし、官吏になってからのこの三年、必死に頑張ってきた。有能官吏の集まりだと言われる礼部で、毎日馬鹿にされないように、使えないって言われないように。そんなわたしより、たかが後宮の蔵書室の司書女官が貴妃様に選書を頼まれているって聞いて、悔しかった。貴女、新人だって聞いていたし」
「あたしは……運が良いだけなんです」
花音は申し訳なさそうに呟く。そう、自分が運がいいのだ。本当に。
上司は鬼だがどこか憎めないし、周囲が有能だからと日々緊張することはない。
「わたし、麗耀様が本を粗末にするのが、とても嫌だったんです」
「理杏さん……」
「わたしも、本が好きだから」
理杏は、花音の手を取った。
二人の手は、よく似ていた。ところどころ赤くなって荒れた手。尚食女官とは違う、紙をよく扱う官吏特有の、荒れた手。
「貴女は本当に本を大切にする人ね。本が好きなんだってことが、隣で作業していてとても伝わってきたわ」
「理杏さんも、ですよね。手際の良さとか、本を大切に運んだり戻したりしているところとか、惚れ惚れしました」
花音が言うと、理杏は驚いたように目を丸くし、ふ、と笑う。
「貴女って、ほんとうに素直ねえ。むかついちゃう。でも――とっても素敵よ」
「理杏さん……」
「貴女は自分の仕事に誇りを持ってる。官吏はそうあるべきだわ。わたし、大事なことを見落としていたように思う。なぜ、礼部で働きたいかっていう気持ち。なぜ官吏になりたかったかっていう気持ち」
理杏は眼鏡を取り、涙をぬぐってもう一度眼鏡をかけ、頷いた。
「がんばってね、華月堂の司書女官さん。わたしも、礼部で一からやり直すつもりで頑張るわ」
そう言って理杏は去っていった。
「あたしも、頑張らなきゃ」
花音が気合を入れたところに、空色襦裙の女官が現れる。
「失礼します、白司書。準備がよろしければ、大広間へお越しいただくによう、尚玲様が」
「はい、すぐに参ります」
いよいよ、夏妃に本の楽しみ方を提案できるときがきた。
これが夏妃の気に入ってもらえれば、夏妃がこの先、本に親しめる道筋を付けて差し上げられる。
吊灯籠の灯りで幻想的な、まるで天界の星河のような回廊を進む。
心臓が喉のすぐそこまで出てきているような気がする。握る手に、じっとり汗がにじんでいる。
(あたし……めっちゃ緊張してる!!)