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第三十九話 伯言の判断


 次の日。


 製作棟へやってきた花音は、回廊のずっと先に人だかりができていることに気付いた。


「ていうか、あれってあたしの作業部屋じゃない??」


 首を傾げていると、中庭で作業をしていた職人が顔を上げた。


「あんた、あの部屋で作業してる司書さんだろ?」

「はい、そうですけど」

「なんか、部屋の中がえらいことになっているみたいだよ。早く行って確かめるといい」

「あ、ありがとうございます」


 嫌な予感がする。


 足がもつれそうになるのを何とか走って、花音は人だかりをかきわけた。


「あの、すいません! 通してください!」


 屈強な職人たちの足元をくぐるように部屋へ入った花音は、息を呑んで立ちすくんだ。


 床に広げていた畳一畳分はある大きな紙。

 下書きの終わったその紙の上に、黒々とした染みが広がっている。



「な、なにこれ……!」


 花音は這いつくばって確認する。

 黒いのは墨で、大した量ではない。しかし、まだ乾ききってない箇所もあるから、気を付けて紙を観察する。


 昨日。

 下書きした紙を乾かすため、床に広げていく際、周囲の物は注意深く片付けた。

 間違っても、汚れが付いたり、破けたりしないように。


 床に広がった紙の他には、不自然なほど物がどけられて、《《絶対に紙に触れないようになっている。》》


 誰かが、故意に、紙を汚した。


 誰が見ても明らかな子の状況に、集まった職人たちは戸惑いを隠せない。

「一体誰が」

 ここに出入りしているのは工部の職人だけだ。もしくは花音のように、蔡尚書に許可をもらった者だけ。

「あの、お嬢ちゃん……」

 花音は笑顔を作って振り返った。

「大丈夫ですよ! ささ、みなさんお仕事に戻られてください」

「しかしなあ」

「きっと、あたしが何か片付け忘れて、ネズミか何かがそれにつまずいちゃったんでしょう。うん、きっとそうですよ」


 そんなはずはないことは、この場の誰もが思っていることだ。


 しかし当の司書女官が笑顔でこの場を納めようとしているのに、それ以上食い下がるのも野暮な気がして、後ろ髪引かれつつ各自持ち場に戻っていった。


 花音は立った位置で紙を隅から隅まで観察する。


「高い位置から墨をぶちまけたんだわ」

 墨の広がり方から察するに、垂らしたのではなく、勢いをつけて撒いたのだろう。

 一か所に固まっておらず、長い軌跡を描いて墨が広がっている。


「お嬢ちゃん、残念だったな」

 年配の職人が花音の横に屈んだ。

「あんなに一生懸命やっていたのにな」

「はは……」

 なんとか乾いた笑みを返すので精一杯だ。

「この大きさの紙をすぐに調達するのはちょいと難しいかもしれんが、孫工芸長に相談してみなよ。あの人は力になってくれると思うから。わしも、ここの職人たちも、力になれることはなんでもしてやるから、いつでも言いな」

「はい……ありがとうございます」

 その心遣いに胸が熱くなる。


 職人は花音の肩をぽんぽん、と叩いて去っていった。


 それと入れ違うようにして、生真面目そうな小柄な人影がやってきた。

「孫工芸長」

「回廊を進む間に聞きました。皆、あなたの仕事に興味があるし、応援してもいるのでね。心配していましたよ」


 孫工芸長は改めて紙を見下ろし、大きく息を吐いた。


「もう下書きが終わっていたのですね。形になっていたのに……これは酷い」


 墨の広がり方を見て、孫工芸長は目を険しくした。


「これでは、修正紙を貼りにくい。中央に細長く墨が広がっているし、その飛沫が周囲に飛び散らかっているので……最も推奨する修正方法は、紙を全部取り換えることなのですが」


 花音を見下ろした几帳面な顔が、申し訳なさそうに歪む。


「蔡尚書から伺った話では、こちらの作品は七夕に使うものだとか。この大きさの紙をもう一度用意するとなると……正直、七夕には間に合いません」

「そんな……」


 花音はうなだれた。

 七夕まであと数日、これが順調に仕上がっていたとして、夏妃に事前に見せる時間を一日入れて、ぎりぎりだったのだ。


 固い沈黙が流れる。


 孫工芸長が再び口を開こうとしたとき、花音が言った。


「……大丈夫」

「はい?」

「なんとか、やってみます」

「し、しかしこの状態では」

「でも、諦めるわけにはいきません。諦めたくない!」


 爽夏殿の蔵書を、華月堂に。

 なにより、夏妃のために。


「白司書……」

 気遣うような孫工芸長に、花音は微笑んでみせた。

「大丈夫です! なんとかしてみますから! いくつか、お借りしたいものがあるのですが、いいですか?」





「そうですか。そんなことをが」


 華月堂の事務室で話を聞いた伯言は、無表情に頷いた。


(一体誰が)

 心の中で眉をひそめる。花音の落胆ぶりが目に浮かぶようだ。

 目の前の生真面目そうな官吏も心を痛めているようで、悲痛な表情をしている。


「そんなわけで、白司書はおそらく今日も終業まで工部で作業されるので、華月堂には戻られないかと……」

「承知致しました。わざわざ恐れ入ります」

「とんでもない。蔡尚書から、鳳長官が御心配なさるだろうからお知らせするように、と言われて参っただけです」

「水木ったら、いつからそんな気遣いの女になったのかしら」

「は?」

「……こほん、いいえ、なんでもございません」


 伯言は居ずまいを正した。

 痩せた柔和な顔が生真面目に笑う。


「いい新人ですね」


 今度は伯言がきょとんとする番だった。


「白司書のことです」

「ああ……」

「あんなに一生懸命に仕事をする新人は、最近では見たことがありません」

「はは、そうですね。たしかに仕事への情熱はあるかもしれません」


 本に対する、情熱。

 本のためなら寝食もおしゃれも、恋ですら忘れる。

 あんなにわかりやすく迫られているのに、気付かないド天然ド鈍感。

 年頃の女の子だったら、皇子たちのあの麗しい姿が近付いてきただけで卒倒してしまうだろう。

 確かに花音ほどの本好きは珍しいかもしれない。


「蔡尚書がぜひ工部に、と言われるのもわかります」

「水木が?」

「は……?」

「あー、こほん。蔡尚書が、そんなことを」

「ええ。モノづくりには欠かせないですからね、情熱というのは。情熱と才能。両方が揃っている新人を見出すのはなかなか難しい」

 丁寧に茶碗を置いて、孫工芸長は去っていった。


「失礼」


 入れ違いに入ってきた大きな人影が、孫工芸長に丁寧に拱手する。


「飛燕殿」

「鳳長官。少し、お耳に入れたいことが」


 飛燕の話を聞いて、伯言は顔をしかめた。


「……あのクソ女狐」

「締め出されたこと自体は、気の利いた衛兵の計らいと紅壮殿下の助力により、どうにかなったのですが」

「紅壮様の?」

「はい。しかし、紅壮様と、我が主が同時に心配したことが現実になったことの方が重大でして」

「もしかして、制作中の作品に墨が掛けられていた話ですか」


 端整な無表情の中で、かすかに眉が上がった。


「なぜそれを」

「たった今、工部から遣いがきまして」

「そうでしたか。それなら、話が早いかと存じます」


 飛燕は声をさらに低めた。


「その犯人を、我らで捕えております」

「なんですと?」

「礼部の官吏です」


 そんなことだろうと思った、と伯言は内心舌打ちする。範麗耀の差し金に間違いないだろう。


「それで、主と紅壮殿下が処断してよいのか、この件を白司書の上司である鳳長官にお返しするのがよいのか、お伺いを立てるために参上しました」


 華月堂 対 礼部。


 伯言は唸る。華月堂を礼部の資料保管庫に、などとふざけたことを言っている範麗耀をこの際、徹底的に責めたて、華月堂に手を出せないようにしてもいいのだが。


(まだ足りない)


 範麗耀だけでなく、父の範文若礼部尚書まで巻き込むには、華月堂にはまだ力が足りない。

 もっと、華月堂の後宮での地位を盤石なものにしなくては。

――もっと、花音を育て上げなくては。


「恐れながら、もし藍悠様と紅壮様さえお許しくださるのなら、この件、殿下がたに一任いたしたく」


 伯言は、深々と頭を下げた。


「承知いたしました。そのように主に伝えます」


 低い呟きに顔を上げると、飛燕の姿はもう、風のように消えていた。



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