第三十話 言えなかった言葉
時が止まったかのようだった。
西日が、紅の白い袍を紅く染めていく。
「え、と」
花音はやっとのことで言葉を発する。
「宴……そう、七夕の宴は?」
「すまない、先にそっち行ってからになってしまうが」
紅は申し訳なさそうに眉根を寄せる。
「戌の正刻までには必ず来るから。華月堂で待っててくれないか?」
のぞきこむ紅の顔は、息を呑むほどに整っていて。
紫水晶のような双眸に吸いこまれそうになって、花音は思わずうつむく。
「ごめん」
「ん?」
「あたし、七夕仮装大会に行くことになっていて……友だちに誘われて」
紅の表情が凍り付くのがわかって、花音は必死に謝った。
「本当にごめんね。友だちが、初めて行くから、一人じゃ心細いからって。だから」
膝の上の握りしめた手を見る。どうしてあたしは紅の顔をちゃんと見れないのだろう。もっと言葉を紡がなきゃ。ちゃんと言わなくちゃ。空気がどんどん冷えていくのがわかる。
「だから放っておけないし、御馳走も出るっていうし、だから一緒に行くって約束しちゃったから。だから」
違う! そうじゃない!
あたしが言いたいのはそういうことじゃないの!
自分でも自分がはがゆくてモダモダする。
「だから……ごめんね」
なんか違う!!
だからごめん、の前にもっと言わなくちゃいけないことがあるのに、それをすっ飛ばして言っているのはわかっているのだが、間近に紅がいると大事なことが言えない。言葉が足りない。
いつもそうだ。紅を前にするといつも。
「……わかった」
静かな声が、耳朶を打つ。
怒っている声音ではない。でも紅のその一言に心臓をきゅうと掴まれた。
「褒美を、もらい損ねたな」
低く呟いた笑みは憂いげで。
花音は胸がつぶれるように痛んだ。
「紅……」
「気にするな」
とん、と花音の額にそっと触れて、紅はひらりと立ち上がると扉を出ていった。
◇
「もうっ……あたしのバカバカ」
花音はぎゅっと唇をかみしめる。
(うれしかったのに)
七夕の夜に星を見る、ということがどういうことなのか、恋や愛に疎い花音でもぼんやりとはわかっている。
だから紅があんなふうに言ってくれたことに、夢かと思うほどときめいた。
でも、自分と紅は住む世界が違う。
一下級官吏と皇子では、天と地ほどの身分の差がある。
いくら紅が親し気にしてくれるといっても、官吏としてそこはわきまえなければ、と思っていた。
うれしいけれど、身分が違いすぎるから、一緒には行けない。
(ってこういえばよかったじゃんあたしー!!!)
今さら思いついても遅い。
紅のあの笑み――哀しそうな、がっかりしたような、諦めたような、あの何ともいえない憂いを帯びた笑みが、くっきりと脳裏に刻みついて花音の心をじくじくと苛んだ。
◇
「酒が飲みたいな」
露台でぼんやりと座っていた紅壮がぽつりと呟いた。
「かしこまりました」
柊はすぐさま、準備をする。
準備をしながら整った眉をわずかに寄せる。
主が、夕餉の前に酒を飲みたい、というのは珍しい。
だいたいは嫌なことがあった時だが、そんな時は水明殿に戻ってくるなり怒りを爆発させて柊にひとしきり愚痴を言いまくり「こうなったら酒だっ!」となる。
いわばヤケ酒である。
しかし、今日の紅壮はそういう雰囲気ではない。
どちらかというと、怒っているというより――うちひしがれているような。
夕餉の前なので簡単な酢漬けを酒肴を添えたところで、そういえば、と柊は思う。
今日は、皇城での公務の帰り道、華月堂へ寄ると言っていなかったか。
柊の脳裏に、翡翠色の目をした子猫のような少女が思い浮かぶ。
――白花音と何かあったのだろうか。
「紅壮様。御酒をお持ちしました」
傍らの巨大な黒水晶の卓子に盆を置くと、紅壮の切れ長の双眸がちら、と動いた。
「ああ。夕餉前にすまないな」
「何か、ございましたか」
沈黙があった。それは言葉を探している沈黙だったので、柊はじっと待った。
「やはり、幼馴染には勝てないのだろうか」
主の言葉に、めったに動かない氷の双眸がまたたく。困惑を隠せないとき、己を落ち着かせるための柊のクセだ。
「どなたかと、勝負ごとでもなさいましたか」
「いや、勝負にもならないらしい。けっこう、自信あったんだが。オレの読み間違いだったようだ」
肩を落として酒杯を取る主に、柊は内心眉をひそめる。
――皇城で、いずれかの秀才官吏と囲碁でもなさったか。
自信家の主をこんなにも落ち込ませるのは、一体どこの優秀な官吏であろうか。
柊はいぶかしみつつ、主の酒杯に透き通った甘露を注いだ。