ヴぁいおれんす~霊柩車のスム~
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トレーニングジムの中央にはリングがある。リングの上で、私の相棒と「私のパパ」とが真正面から取っ組み合う。突進をかました相棒をパパが組み止めている格好だ。
身体をぐっと沈ませ、パパを押し込もうとする相棒は、ふっふっふっふっと早い息をしながら足を前に進めようとする。金色のクルーヘッドが爽やかなパパはびくともしない。「そんなものか」と笑い声すら上げる。相棒が「があああぁっ!」と雄叫びをあげ、前進を試みる。まるでブルだ、ブルドーザーだ。パパはパパだから微動だにしない。下がらない。パパが相棒の顔面を右膝でこつんと蹴り上げた。鼻血を強要されても相棒は顔を上げず、なおも突っ込む。そのうちうなじにチョップを落とされ、リングに貼りついた。すぐさま立ち上がろうとしたところで、顔面を蹴飛ばされた。相棒はロープにまで飛ばされた。脳が揺れたことウケアイだ。目の前だってくらくらしたことだろう。それでも立ち上がると、強い目をして「まだだ、おっさん!!」とライオンみたいな大声を発してファイティングポーズをとる。負けん気なら世界一だ。
「もういい。今日はここまでだ。ガチがすぎるとご婦人方が気を揉む」
「馬鹿言ってんじゃねーぞ! 鼻血食わしといて逃げんのかよ!」
「いつでも襲ってこい。勝てると思った瞬間でいいぞ。かかってこい」
「それがいまだっつってんだ!!」
「今日はダメだ。明日以降、かかってこい」
「ぐ……っ!!」
私は手を叩いて「あはははは!」と大笑いしながら、ロープ越しに、相棒の汗ばんだ背を右手でばしばし叩いてやった。相棒はすぐに増長する悪癖があるので、たまにこうしてパパにしばいてもらっている。やる気にせよそうでないにせよ、やるとなったら相棒は本気でぶつかる。それでも敵わない。本人からすれば、まあ、あまり気分がいい話ではないだろう。
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じつにおいしいチンジャオロース定食を食べ、しばらくの喫煙時間を公園のベンチの上にて設けてから、夜、あらためて市街地に車を向けた。定例のパトロールである。特に指示がないときはそうしろという、「上」からの暗黙の了解的な指示であることは言わずもがな。継続は力なりとも言う。
夜の高速。
くわえ煙草のまま、よほど具合が悪いのか、調整するようにして何度も顎をさする相棒。
「おっさんとやり合うといっつも顔のかたちが変わっちまった感じがすんぜ」
「彼が生きている限りは、あんたは腕力世界一にはなれないよね」
「馬鹿言え、抜かせ。俺に勝てる奴がこの世にいるかよ」
「でも、負けてるじゃない、あんた」
「花持たせてやろうと思って手加減してやってんだよ」
「へぇぇ、そうなんだ」
「そうなんだよ、ばーか」
「だいじょうぶ。顔腫らして文句言うあんたもかわいいよ」
「うるせー、ばーか」
繁華街のいつものコインパーキングに車を止めた。行動がパターン化してしまうことで、たとえば敵に、うまいこと立ち回られたら厄介なのだけれど、特に相棒が、こそこそすることをあまりよしとしない。それでも話せばわかってくれる奴ではあるのだけれど。危機管理の基本と重要性くらいはわかっている奴なのだけれど。ともあれインシデントはともかくもったいぶった問題はNGだ。今後は相応の措置を取る必要があるだろう。
寒空。
澄んだ空気。
明確すぎる夜空。
ふいに相棒が、すんすんと鼻先に夜の空気を嗅いだ。
「今日の天気はいまいちだ」
相棒の嗅覚は確かだ。
いまは星が見えるけれど、これから雨に見舞われるのかもしれない。
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喫茶店に入った。時間が時間だから、アルコールも出している。「あんたは飲んでもいいよ」と言ったのだけれど、相棒はブラックをオーダーした。先輩思いというわけではなく、ただ単純にそういう気分ではないということだろう。
私は窓を背にして座り、相棒はその向かい。
隣の二人席に座った男が視界に入った。一人客であるにもかかわらず窓を正面にしたことが多少気になりはした。連れがいないならフツウは窓を背負うべきではないだろうか。えらく貧乏くさい紺色のトレンチコートを着たその男は、「にいさんはとことんオスだな。ああ。立派なオスだ」などと口にした。他に「にいさん」と呼べる男はいないわけで、だから相棒は自分に発せられた言葉だと考え、「ああん?」と不機嫌さたっぷりに男のほうを見たわけである。私もいよいよそちらを向いた。おっさんだ。ほおのこけた四十くらいのおっさんである。白髪交じりの短い黒髪。私たち以外のなにかと会話するようにして、こちらにはまるで目を向けようとしない。
「おっさん、あるいはおまえ自身は童貞だとでも言いてーのか?」
「その飛躍した物言いはどこから来るんだ?」
「当てずっぽうに決まってんだろうが」
「いい勘だ。おれは童貞さ。女から見れば俺は不潔だろう?」
「そうかね。おまえみてーのだってフツウだろ」
「それはあんたではなくあんたの相棒さんに言ってもらいたい」
「そりゃそうだ」
相棒は大きな声で笑った。
「おしゃべりおしまい」私は口を開いた。「ねぇ、あんた、あんたには私たちが相棒同士に見えるわけ?」
男は私のほうを見て、辛気臭い目をしたまま口元だけで笑った。
「お二人は相棒だろう? そういう情報だ」
そういう情報?
私たちは咄嗟に立ち上がる。次の瞬間、低い姿勢から男が相棒にタックルをかました。そのまま凄まじい勢いで相棒を引きずっていき、ガラス壁をぶち破って、二人一緒に外へと飛び出した。落ちていった。まるで怪物だ。フツウ、タックルの勢いだけで頑丈に違いないガラス壁を割れる? あの紺色のトレンチコートの男はいったい……。
私は走ってジャンプ、彼らに続いて二階から飛び降りた。
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うつ伏せの状態からなんとか身体を起こそうとしている相棒の後頭部に、くだんのおっさんは拳銃を向けていた。私は「やめな!」と照準をその頭部に定める。ヘッドショットは得意だ。絶対にはずさない。おっさんは私のほうを見て、暗い目をした――というか、ずっと沈んだ目のままだ。仕事に忠実な犬には見えない。だからといってノリのいい殺し屋みたいな覇気も感じられない。おっさんは相棒の背を踏みつけるようにして二度蹴り、それから相棒の身体を右足の爪先で器用に仰向けにした。
脳震盪を起こしているのか、相棒の動きは鈍い。だけど、叫んだ。「あと、三分、逃げんな、おっさん! 捻り潰してやっからよ!」。大の字になっているにもかかわらず大見得を切るあたりは大したものだ。ビッグマウスは私の大好きなところでもある。
おっさんは怪力だった。喉首を左手だけで掴み上げると、相棒のことを軽々とこちらに投げて寄越した。
私は銃を懐に引っ込めた。
「あんたさ、私とやってみない?」
「セックスの話か?」
「それでもいいよ?」
「いや、嘘だ、冗談だ、お嬢さん」
「こっちだって冗談に決まってるじゃない。っていうか、お嬢さん?」
「気に食わないのなら謝るさ」
「せめて、おねえさんくらいにしておきな」
「了解した」
おっさんはコートのポケットに手を突っ込むと、やさぐれた感たっぷりに、「俺はもう、そういう生々しいのは、いいんだ」と独特な言い回しをした。
相棒はまだ立てないでいる。ほんとうに頭を打ったのだろう。でなければとうに起きているはずだ。
「あんた、誰? 私が知ってる組織のニンゲン?」
「『霊柩車』って言って、わかるか?」
「あら、あちらさん?」
「ボスだよ。スムっていう」
「スム? 変な響き」
「でも、スムさんだ」
私はああだこうだと二つ三つの要素を考慮し、その結果として、今一度「やる? 帰る?」と訊ねた。「話そう」と提案された。
「俺はなぁ、むかしから力が強くてなぁ、なにを与えられてもすぐに壊しちまうんだ。年を食って、そいつが悪者だってんならちょうどよかったんだろうが、あいにく俺の場合、そういうわけでもなくてなぁ。べつに悪者退治をしたいわけでもなくてなぁ。ところでねえさん、この世界で最も壊れにくいものって、なんだと思う?」
「物理的な話? それとも論理的な?」
「両方だ」
「だったらちょうどいいのはニンゲンじゃない?」
おっさんが左手を前に出して「待て」みたいなポーズをとった。右手で懐から銀色のスキットルを取り出した。レモンティーでも入っていれば笑えるところだけれど、酒だろう。しかも、純度の高い、ウイスキー、あるいはバーボン。
「殺すなら、男に限る」
「あらま、ミスター・スム、それはどうして?」
「男のほうが女より強いからだ」
「一概には言えないし、なにより古い考え方だね。嫌いじゃないけど」
「転がっている相棒殿にも訊いてみたいところだが」
相棒は仰向けのまま静かな顔をしている。
「ほんと、しばらく動けねーわ。やるな、おっさん。やっぱ力尽くで負けちまったら、心にまでダメージ残るわ」
「いい加減、おっさんおっさん言われるのに腹が立ってきた。にいさん、訂正してもら――」
「うるせー、ばーか、ばーか。とっとと行っちまえ。俺が起きたらおまえの一人や二人わけねーぞ」
「俺は一人しかいないんだけどな」
「死んじまえ、ばーか、ばーか」
駄々をこねるようにして、相棒は手足をばたつかせた。
「帰るよ、ねえさん、いいかな?」
「仕掛けてきといてよく言うね。目的は? なんだったの?」
「これから戦う相手の力量を知りたかったのさ」
「結果は?」
「やりがいはありそうだ」
おっさんが身を翻し、去っていく。
意味不明極まりない不可解な男だからこそ、少なからず魅力的にも映った。
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ジムにおいて、今日も「私のパパ」に相棒が突っ掛かる。どれだけ踏ん張り、前へと足を進めようとしても、相棒はパパを退かせることができない。それでも、がんばる、がんばる。身体に組みつき、短い呼吸をしきりにくり返しながら、今日も今日とてブルドーザーみたいなタックル。
「やはり日本人は軟弱者ばかりだな」
「うるせー、馬鹿! 訂正しやがれ!」
「おや、日本人はそうだろう?」
「俺はそうじゃねーっつってんだよ!」
パパが相棒を叩きつぶすのは簡単だ。だけど、パパは安易にそうしたくはないように映る。頃合いだろうと見計らい、私はロープをくぐって中に入り、相棒の脇腹に右足の甲で蹴りを入れてやった。相棒は簡単にリングに転がった。
「いてーよ、馬鹿! テメー、コラ、なにしやがる!」
私はリングの外に出て、とっとと歩く。
「泳ぎに行くよ。ついてきな」
「馬鹿言え! まだやれんよ!」
「あんたに付き合う方の身にもなれって話だよ」
振り返らずともわかる。
相棒は苦虫を噛み潰したような顔をしていることだろう。
だけど、そのうち、追いついてきて。
エレベーターには一緒に乗って。
「あー、くそ。次こそぶっ潰してやんよ。引導ってもんを渡してやんよ」
「あんたはじゅうぶん強い。気にすることないよ」
「やだっつってんだ」
「どうして?」
「男だからだ」
大馬鹿野郎が、ここにいる。