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算数を笑うものは算数に泣くがいい

 1062年9月下旬 イタリア北部 トリノ近郊の修道院 ジャン=ステラ


 視界を白く染め上げ、耳が痛くなるほどの轟音の原因は落雷だった。セイデンキを使った茶番劇を急いで終わらそうと思ったけれど間に合わなかった。もう少し早く雷の兆候(ちょうこう)に気づいていれば、全員逃げられたかもしれないのに。悔恨が心をよぎるが、そうも言っていられない。


ーー 雷はどこに落ちた?


 お腹に響く音に驚き閉じていた目を開けると、真っ二つに裂けている大きな木が目に飛び込んでくる。雷が直撃したのは広場の大木だった。衝撃により太いが枝が折れ、葉っぱも落ちきってしまう。樹皮(じゅひ)がはがれ、材木のような白い中身がむき出しになり、まるで枯れ木みたい。


 そして静寂が広場を支配する。


 先ほどまでのセイデンキの合唱が嘘だったように、広場に(つど)う誰も彼もが大木だったものを凝視している。目の前に落ちた雷の威力のすさまじさに身が凍り、声も出せないのだろう。


ーー お母さまや僕、イシドロス達に落ちなくて本当によかった。


 お母さま達に雷が落ちなかった事に安堵したのも束の間、木の下に倒れている人影を僕の目が捉えた。傭兵のお(かしら)だ。逃げないよう木に繋がれていたため、木に直撃した雷の影響を直接受けたのだろう。


 人が倒れているのにだれも助けに行こうと動き出す者はいない。僕も心が(しび)れてしまったように動き出せないでいる。まるで時間が止まってしまったみたい。


 それから何分が経ったのだろう。遠く上空で稲妻が光り、遅れて雷鳴が広場に届いた。それが合図になったのか、僕を除く広場の全員が両ひざを地面につき、空を見上げつつ神へと静かな祈りを捧げ始めた。


「おお、神よ。その御業を顕現(けんげん)させたもうた事に祈りを捧げます」


 ただし、その声は喜びというよりも、怖れを多分に含んでいるように僕には感じられた。僕にとって雷は自然現象にすぎない。しかし一方でお母さまをはじめとする(みんな)にとっては、本当に神の怒り、それも特大の怒りがこの地に降り注いだと信じてしまったのだと思う。


 畏怖に包まれている広場の中でぽつんと一人冷静な僕。お母さまも一心に祈りを捧げている。僕も冷静ではないかもしれないけど、この事態を収拾できるのは僕しかいない。


 ぽつぽつと雨も振り出した。また雷が落ちてくるかもしれないし、修道院の建物に早く避難してもらおう。


「みんな聞いて!神の鉄槌は下されました。祈りを捧げるなら礼拝堂で行いましょう。それでは解散!」



◆  ◇  ◆  


「ほ、ほんとうに大丈夫なの?」


 修道院の一角に宛がわれているお母さまの客間に入るなり、お母さまが僕に聞いてきた。僕の手を握るお母さまの手は小刻みに震えている。


「ええ、大丈夫ですよ。前にも言いましたよね、雷は神の怒りなんかじゃありません」

「わ、わたし。セイデンキがあれほどの威力を持っていると知らなかったのです」

「いえ、あの雷は僕の懐剣セイデンキが起こしたものではありませんよ。空から落ちてきたのです」

「ひ、ひぃ。やはり神はお怒りなのですね」

「違いますよ、お母さま。自然現象ですって。神様とは関係ありません。大丈夫。僕が保証します」

「ほんと?」

「ええ、ほんと」


 僕がお母さまを優しく抱きしめたら安心したみたい。お母さまの体の震えが収まってきた。追加で背中をとんとんと優しくたたいておく。あかちゃんをあやすように何度も何度も。


 それにしても、8歳児に抱きしめられて安心するお母さま。立場が逆じゃないのかなぁ。ま、いいけどね。



 お母さまが落ち着いた頃合いに、礼拝堂に皆と一緒に祈りをささげていたイシドロスがやってきた。修道院の皆が落ち着いた事を報告してくれた。


「皆が(おそ)れおののき神に祈りを捧げる中、ジャン=ステラ様だけが平然と立っておりました。我々はそのお姿を思い出し、神の怒りを解いていただくにはジャン=ステラ様におすがりするしかないとの結論に至りました。どうかお慈悲を賜りますよう、一同を代表して申し上げます」


 なんか信仰が変な方向に悪化していやしませんか? ま、いいけど。あとで雷と神の怒りって関係ないと説明して安心してもらう事にしよう。


「もう一点ございます。サルマトリオ男爵が執務室にてアデライデ様とジャン=ステラ様に拝謁を賜りたいと申し出ております」


 元はと言えばサルマトリオ男爵の処分を決めるため、男爵本人から事情聴取する事が今回の発端だった。雷が落ちてきたせいで、すっぽりと頭から抜け落ちていたよ。



◆  ◇  ◆  


 執務室の扉を開くと、両ひざをついて(ひざまず)いた姿勢でサルマトリオ男爵が待っていた。


「アデライデ様、ジャン=ステラ様。どうかお慈悲を頂きたく存じます」


 お母さまと僕が椅子に座る間も待てなかったようで、サルマトリオ男爵は僕たちに縋りつこうとしてきて、お母さまの護衛騎士に止められていた。余裕が全くないみたい。


「あらあら、サルマトリオ男爵。さっきまでとずいぶん態度が違いますが、どうされたのかしら」

 左手を頬に沿えつつ小首を傾げたお母さまが、素知(そし)らぬふりでサルマトリオ男爵に次の言葉を促す。


 さっきまで震えていたお母さまを見ていた僕は吹き出しそうになった。だけど頑張って耐えた。うん、きっとこれが上位者としての振る舞いなんだろうな、と。弱みを見せてはならないし、弱みを見たら付けこまないと行けない。ちょっと違うかな? しかしお母さまはサルマトリオ男爵に対して腹に据えかねているのだと思う。



 憔悴しきった顔でサルマトリオ男爵が、自身がおびえている理由を教えてくれた。


「アデライデ様、及びジャン=ステラ様を襲った傭兵が神の怒りを買い、処罰されたのをこの目で見ました。それはもう恐ろしい光景でありました」


 雷が落ちたのは大木だったけど、そこに繋がれていた傭兵のお(かしら)も電撃を浴びて倒れていた。なぜお頭が神の怒りを一身に浴びたのかについて、礼拝堂に集まった修道士たちが議論していたらしい。


 そこで出た結論が、預言者である僕とその生母であるお母さまに襲い掛かったというものであった。さらにサルマトリオ男爵の罪についても糾弾されたのだそうな。


 傭兵部隊がサルマトリオ領を通過するのを見過ごしただけでなく、金品まで与えたこと。結果的にサルマトリオ領内で僕たちが襲われたこと。神がお怒りになるに十分足りる所業なのだとか。そして雷が落ちた際、サルマトリオ男爵は足がピリッとしたのを感じたらしい。


 サルマトリオ男爵も神の怒りに触れたのだ、神の怒りを解かないと一族はおろか、サルマトリオ男爵領全ての者に災いが降りかかるとさんざん脅されたのだ。


 礼拝堂にいたイシドロス達にグッドジョブだと言うべきか、あまり神の名を使わないようにと(いさ)めるべきか悩むところだね。しかし、サルマトリオ男爵がしょぼくれているのを見ると、ちょっと胸がすっとするのは確かである。僕もきっとサルマトリオ男爵に腹がたっていたのだと今更ながら気づかされた。


「ジャン=ステラ、どうしましょうか」

 サルマトリオ男爵の処分をどうするべきか、お母さまが僕に聞いてくる。どうやら僕が処分を決める必要があるみたい。


ーー うーん。どうしよう。この腹立ちをぶつけちゃってもいいかな。 神は怒ってなくても僕はおこってるんだぞ~。


 少しの間、考えた結果、僕は軽くない処罰を下すことにした。



「サルマトリオ男爵」

「はい、ジャン=ステラ様」


 僕の言うことを一句たりとも聞き漏らすまいと、サルマトリオ男爵は全身で聞く姿勢を保っている。そこにゆっくりとした口調で僕は語りかける。できるだけ善人のように振る舞いながら。なぜなら雷が落ちる前、お母さまから演技の重要性を土壇場で教え込まれたから、ね。



「神はもうあなたにお怒りではありません。ピリッとしたのは傭兵のとばっちりだったのでしょう」

「お許しいただき、誠に恐縮至極でございます」


 感無量になったのか、僕の目の前でサルマトリオ男爵がむせび泣きそうになっている。


ーー おっちゃんの泣き顔なんて見たくないなぁ。


 神が怖いのはわかる。しかし雷は自然現象であって神とは無関係なのだ。さきほどまでの態度からの豹変度合がひどすぎて、なんだか僕の気持ちがちょっと嗜虐(しぎゃく)的な方向に傾きそうになる。


「でもね、僕はまだ怒っています。だから処分を下します。謹んで聞いてください」

「はい」

「サルマトリオ男爵、たしかあなたは41歳でしたね」

「よくご存じで。ジャン=ステラ様がお産まれになったとき、私は33歳でした。あの時はトリノ辺境伯領が喜びに包まれました事をよく覚えて……」


「だまらっしゃい! そんな事はどうでもいいです。ジャン=ステラの話をちゃんと聞きなさい」

「し、失礼いたしました」


 神に許されたと思って気が大きくなったのだろう。サルマトリオ男爵がおべっかじみた事を口にし始めたところでお母様が途中で遮った。


ーー まったくもう。呆れたよ。 


 酷い処分を下すこと対してさきほどまであった躊躇(ためら)いが僕の心から消えていった。



「サルマトリオ男爵への処罰は物納で行ってもらいます」

「ええ、もちろんですとも。我が城にはジャン=ステラ様に気に入っていただけそうなお宝が沢山ございます」

「お宝なんていらないよ。僕が欲しいのは小麦なの」

「はぁ、小麦ですか?」


 サルマトリオ男爵は、なぜ小麦なんか欲しがるのか不思議そうな顔をする。

「では、どれほどの量の小麦を準備いたしましょう」


「僕の言った通りの量を、サルマトリオ男爵領からこの修道院まで届けること。まず1日目は小麦を1粒」

「はぁ。たった一粒ですか?」


「そう1日目は一粒。そして2日目には倍の2粒を修道院に届ける事。3日目にはさらに倍の4粒、4日目は8粒。毎日治める量を倍にします。これをサルマトリオ男爵の年齢と同じ数である41日まで続けてください」


「それだけでよろしいのですか?」

 サルマトリオ男爵の顔がにちゃぁと嫌らしく歪んだ。

 その顔を見て不快に思ったのか、お母さまが何か言いたげにこちらを見てくるが、ニコッと笑い、目で制しておく。


ーー 大丈夫ですよ、お母さま。



「ただし、期限内に納められなかったら男爵領を没収するからね。それとももっと重い罰の方がいい?」

「いえいえ、とんでもありません。このような軽い罰で収めていただき感謝いたします。このサルマトリオ男爵、謹んでこの処罰を受け入れます」


そう言ってサルマトリオ男爵は深々と(こうべ)を垂れた。


ーー ひっかかった!


ほほがゆるみ、自分の口角が上がっていくのを僕は感じた。



算数を笑うものは算数で泣かしてやればいい。かくして算数がお家芸のサルマトリオ男爵家は、算数の計算が出来なくて領地を失うのであった。


ーーー

ア: アデライデ・ディ・トリノ

ジ: ジャン=ステラ


ア: ねえ、ジャン=ステラ。いくらなんでも処分が軽すぎやしませんか?

ジ: そうですか?

ア: ええ、6日目でも16粒でしょう? 41日目でもたかが知れてるじゃないですか。

ジ: そんなことないんですよ。11日目で千粒。

ア: やっぱり大したことないじゃない。

ジ: 21日目で100万粒、31日目で10億粒。41日目で1兆粒になるんですよ

ア: 数が大きすぎて理解できないわ

ジ: 小麦一粒が0.03g だから、21日目で30kg

ア: 30kg なんて簡単に準備できるわよ

ジ: 慌てない慌てない。31日目で30トン、41日目で30,000トンにもなるんです

ア: 今度は数が大きすぎて理解できない……

ジ: 一頭立ての馬車に詰めるのが1トン位だから、41日目は馬車3万台分の小麦です

ア: それほどの量を準備できるわけないじゃない

ジ: だから充分な処罰になっているんですよ

ア: そんな面倒なことをするよりも、最初から領地も爵位も没収すればよかったのでは?

ジ: 領地や爵位を没収したらトリノ辺境伯の評判が悪くなってしまうじゃないですか

ア: たしかにそうね

ジ: 小麦が足りない分も、サルマトリオ男爵が溜め込んでいた財産で払って貰えば全財産没収できるでしょ

ア: えぐいわねぇ

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[気になる点] 1粒スタートなら十日目は512粒じゃないかな? 1 2 4 8 16 32 64 128 256 512
[良い点] 倍々はヤバイからなあ。 死ねる。まあ 5%の利息も大変だし、昔、8%利回りで倍になる年の説明読んだとき、痺れたなあ。
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