人は見たいと欲する現実しか見えないもの
今回、通商路の話がでてきます。トリノ周辺の地図をあとがきに載せています。
1062年9月下旬 イタリア北部 トリノ近郊の修道院 ジャン=ステラ
「それもこれも、根本的な原因はギリシアからの流れ者であるイシドロスをお側に置いているからではないのですか!」
サルマトリオ男爵がイシドロスを指弾するために放った言葉が広場に響きわったった。
驚いた。僕にとってイシドロスはギリシアから移住してきた忠義者だった。僕の代わりに方位磁針を作ってくれたり、蒸留酒を作ってくれたりと手足の代わりに働いてくれている。しかし、領土を持つ貴族達にとっては、お母さまや僕に甘言を弄して取り入り、政治を壟断しようとする悪人に見えているみたいだ。
たしかに、「息子さんは預言者です。神に愛され、神の言葉を授かって産まれてきたのです」ってどこの怪しげな宗教だよってくらい胡散臭い。しかも、それを言っているのが地元であるイタリアとは全く無縁のギリシアからやってきた一団だときたものだ。お母さまに上手く取り入っているようにしか見えないかぁ。
八歳のこどもを摂政につけ、アオスタ伯に任命し、街道整備という内政にまで手をつけている。その結果、地元イタリアの貴族の収入が減り、かわりにギリシア出身者の修道院が建てられる。そりゃ、苦言の一つ二つは言いたくもなるかな。
でもね、だからといって反乱していいわけじゃないと思うよ。まだ確定ではないけどね。
そして街道整備は僕が言い出したことだ。オリーブオイルやワインといった液体を運ぶためには凸凹道じゃ困る。馬車の荷台が盛大に揺れると、ワインを入れた樽は歪んで壊れ、陶器の瓶は割れる。この状況は簡単に改善できるんだよ。なにせ北イタリアには古代ローマ街道の痕跡が残っているのだ。石造りの橋は現役だし、道の舗装石だってたくさん残っている。すこし整備をするだけで流通状況が劇的に変化するんだよ。ちょっとの手間で大きな利益が手に入る。逆に、いままでなぜ手を付けていなかったのか、僕には理解ができないよ。
それはさておき、まずはイシドロスにいいように操られていない事を示すところから始めよう。
「なるほど。つまりサルマトリオ男爵は、お母さまや僕がイシドロスに操られていると懸念しているんだね。それで合ってる?」
「はい、その通りです。イシドロス殿は言葉巧みにアデライデ様とジャン=ステラ様に取り入っています。そのことに気づいていただけたのでしたら、幸いです。
いい機会です。私に代わり、イシドロス殿にこの場に立っていただき、彼の尋問を行いましょう」
まるで運動会のかけっこで一等賞をとった男の子みたいに喜びを素直に表すサルマトリオ男爵。「さぁ次はお前の番だ」とばかりに、勝ち誇った顔をイシドロスに向けて挑発している。
しかし、そんなサルマトリオ男爵に僕は、僕の事実を突きつけなければならない。気が重いけど仕方ない。息を一つ吐いたあと、努めてゆっくりとした口調でサルマトリオ男爵に語りかけた。
「そうかぁ。僕はとても残念だよ、サルマトリオ男爵。
街道の整備は元々僕が発想し、僕がお母さまにお願いしたものなんだ。お母さまからの書状に僕の名前を添えてあったでしょう」
「あっはっは。お戯れを。恐れながら8歳に過ぎずトリノ城館から外に出たことのないジャン=ステラ様が思いつくような事ではないでしょう。それに街道整備は失敗したのです。なぜイシドロスのような奸臣を庇うのですか」
「庇ってなんかいないよ、事実だからね。それに街道整備は失敗していないんだ。トリノとアスティは商人からの上納金は増えているんだよ。
それにこの2都市だけじゃないんだ。街道を整備していないけれど、アスティとジェノバを結ぶ途中にあるアレッサンドリアの町も上納金が増えたんだって。街道をきちんと整備したらお金が増えるんだよ」
ジェノバとは、イタリア半島東側付け根にある交易都市。北イタリアにおいて、ピサ・ヴェネツィアと地中海交易の覇権争いをしているお金持ち商業国家である。トリノとアスティ間の街道を整備した所トリノ経由でジェノバとアルプスを超えてドイツへと至る交易が盛んになったのだ。
ちなみに、アレッサンドリアはトリノ辺境伯領ではなく、モンフェッラート侯爵領にある。このモンフェッラート侯爵の当主は、お母さまの2回目の結婚相手エンリコの兄に当たる。エンリコとの結婚生活は子供ができないままエンリコの死亡のため3年ちょっとで終わったのだが、今でもお母さまと義兄であるモンフェッラート侯オッドーネ2世との交誼は続いている。
「そんな事はありません。先ほども申しましたが、我がサルマトリオ男爵領の上納金は減っております。街道を整備したら収入が増えるなどまやかしです! 収入が増えたという報告そのものが君側の奸によって歪めらえているに違いありません!」
ふぅ、とおもわず溜息がでてきた。一度、イシドロスのせいだと思ったら、その思考から逃れられないのかな。
しかしながら、盗人にも三分の理。たしかにサルマトリオ男爵領の商人が減ったのは、トリノーアスティ間の街道整備が一因でもある。
地中海からトリノへと至る通商路は大きく2つある。ジェノバからアスティを経由してトリノへ至る東側の通商路。もう一つは、地中海のサヴォナやアルベンガからサルマトリオ男爵領を経由してトリノへと至る西側の通商路。
ただでさえサボナやアルベンガはジェノバに比べて遥かに商業規模が小さいのだ。そこにきてトリノーアスティ間の街道が整備されれば、東側の通商路が栄えるに決まっている。
ーー なんでわからないのかなぁ。
子供に諭すように、できるだけ優しい口調でサルマトリオ男爵へ説明する。
「ねぇ、サルマトリオ男爵。そもそもサルマトリオ領は街道を整備していないよね。それなのに収入減を街道整備のせいにするのは間違っていない? むしろサルマトリオ男爵領の街道が悪路だから商人が迂回してしまうんだよ」
「な、私を愚弄するのですか!」
「愚弄なんかしていないよ、サルマトリオ男爵。むしろサルマトリオ男爵が街道整備してくれないから、商売の利益をジェノバに奪われているんだよ。お母さまも僕もむしろ被害者なんだ。どうして邪魔するの?」
地中海からトリノへの交易がアルベンガ経由になってくれれば、トリノへの交易とドイツへの交易の利益は全部トリノ辺境伯に落ちる事になる。しかし、今は交易の利の美味しいところをジェノバにとられているのだ。それを見逃し、指をくわえて見ているわけにはいかない。なにせ、大西洋を渡る準備にはとてつもないお金が必要なのだ。
「わ、私が邪魔ですと? そうおっしゃいましたか」
「ちがう。サルマトリオ男爵が邪魔なのではなく、僕を邪魔しているの」
別にサルマトリオ男爵が何していようと僕は構わない。ただし、僕を邪魔しなければ。
「邪魔とはお金儲けの邪魔をしているという意味ですか」
「さっきからそう言っているんだけどなぁ。通じていないの?」
「キ、キリスト教はお金儲けを悪徳と断じているのですぞ。そのことをご存じないのですか!」
ーー あー、うるさい。小さい声でしゃべってよ。
僕がわざわざ穏やかに話しているのに、大人であるサルマトリオ男爵が興奮して大きな声をだしている。
「そんな事、当然しっているよ」
その辺りの事情はアイモーネお兄ちゃんから滔々と説明されたからね。
「ではなぜ、知っているのにお金儲けをするのですか!」
おいおい、商人からの上納金が減ったと文句を言っていなかったかい? それってお金儲けじゃないの? サルマトリオ男爵は、自分で自分の事を悪徳者だと罵っている事になるんだけどなぁ。興奮しすぎて理性が落ちている? それとも、金儲けが悪徳というのは、噓も方便ってことかな。
「お金儲けは悪徳じゃないからだよ。悪徳なのは儲けたお金をため込むこと。僕の場合、お金はすぐに使っちゃうから悪徳にならないんだよ。そしてこれは司教のお墨付きを得た回答でもあるんだ」
ま、お墨付きを得た相手はアイモーネお兄ちゃんとイシドロスなので、身内びいきである事を否定できないんだけどね。それでもキリスト教的にアウトという線は超えていないのだ。
とはいえ、話がそれてしまっているなぁ。しかし、サルマトリオ男爵にはもう一つだけ言っておかないと。
「お母さまと僕はこの後、地中海のアルベンガ離宮に行き、港町を整備するんだよ。アルベンガからトリノの交易を活発化させて、ジェノバから利益を取り返すつもり。しかし、そのためにはサルマトリオ男爵領の街道整備が不可欠なんだよ」
サルマトリオ男爵領は、アルベンガとトリノのおおよそ中間点にある。交易が盛んになれば、サルマトリオ男爵領は中継点として栄える事まちがいなしの立地である。 逆にその中継点の街道を整備しないなんて、故意に妨害しているようにしか思えないってわけ。
サルマトリオ男爵は首を横に振って、不同意を表明する。これだけ説明しても理解してもらえないのって悲しいなぁ。
「事はお金だけの問題ではありません! 街道整備は敵軍や盗賊の利益になってしまいます。少々お金を儲けたとしても、戦争になれば無駄になります。そうならなくても、盗賊を討伐するための費用がかかるではありませんか。 現に、今回も傭兵に襲われたではありませんか」
盗賊だったり、傭兵だったりややこしいなぁ。実際、盗賊と傭兵って簡単には区別できない。敵の領地を荒らしてこいと雇われる傭兵だっているのだ。雇う側にとっては傭兵でも、襲われる側にとっては盗賊と同じ。
「その点はサルマトリオ男爵の言う通りだと思うよ。領内の盗賊対策は必要だよね。街道を折角整備しても、商人が襲われるようでは意味がないもの」
「そうでしょうとも。盗賊が出るような下策を進言する者が御身の近くにいることが悪いのです。今こそ、イシドロス殿をトリノ辺境伯家から放逐すべきなのです!」
話がまたイシドロスの所に戻りそう。そもそもイシドロスは関係ないっているのになぁ。ここは無視して話を進めるしかないよね。
「盗賊対策は考えているよ。イシドロスに望遠鏡という道具を開発してもらってる。遠くのものが近くにあるように見える道具なんだ。これがあれば、遠くにいる盗賊をすぐ発見できる」
「また、イシドロス殿ですか。それに望遠鏡などという道具なぞ聞いた事ございませんぞ」
サルマトリオ男爵が嫌そうな声を上げる。
「聞いたことがないのは当然だよ。今は僕の記憶の中にしかないんだから。それに、僕が考える道具を作ってくれるのはイシドロス達、修道院の者だけだからね」
僕も不機嫌な声でサルマトリオ男爵に言い返す。言外に「おまえは僕を邪魔するだけで役立たないでしょ」という不満を込めている。サルマトリオ家には、算数の教科書を最初に頒布しているのだ。それにも関わらず、僕に一切の報告も送られてこず、役立てたような様子もない。
「まだお分かりになりませんか。それもこれもイシドロス殿の甘言にすぎません。街道整備によって収入が減ったという失敗を隠すため、出来もしない新たな道具の事を話しているのです。
その望遠鏡についての記憶をジャン=ステラ様はお持ちだとおっしゃいましたが、それもイシドロス殿がジャン=ステラ様に植え付けた偽の記憶でしょう。
なぜそのことがお分かりにならないのですか」
ーー サルマトリオ男爵、頭が固すぎない?
なんでもかんでもイシドロス。イシドロスのせいにすればいいってものでもないでしょう? それに、僕が前世の記憶を持っているのは、事実なんだもの。それを否定されるのは、面白くない。
「そう。あくまで僕の知識を否定するんだ。イシドロスに教わったものなんだと」
「その通りにございます。よくぞお気づきになられました」
「よ~くわかったよ。君が僕の話を理解しようと思っていない事が、ね。」
でも、もういいや。サルマトリオ男爵の好きにすればいい。古代ローマの英雄カエサルの言葉にもある。
「誰にでも現実の全てが見えるわけではない。見たいと欲する現実しか見ていない」 と。
彼にとって僕はイシドロスの操り人形に見えてるんだろう。無理に理解してもらうのは諦めた。
謀反を起こしていようが、そうでなかろうが、どうでもいいや。排除しよう。