イシドロスの奸臣疑惑
1062年9月下旬 イタリア北部 トリノ近郊の修道院 ジャン=ステラ
「そ、そ、それが謀反人の言葉ですか! いいでしょう。我が統治を理解しない家臣なぞ 『お母さま!』」
僕は慌ててお母さまを制止する。 続きは処刑とか攻め滅ぼすとか物騒な言葉に違いない。それはまずい。悪手だ。
既にトリノ辺境伯家とサルマトリオ家の間だけの問題ではなくなっている。トリノ辺境伯家の統治に関する疑義が、それも公開の場で持ち出されてしまったのだ。サルマトリオ男爵の口を物理的に封じたりしたら、よりいっそう問題が悪化してしまう。
こんな事になるなら話し合いをしない方がよかったなぁ。今となっては後の祭り。後悔先に立たずだよね。しかし、このまま放っておくわけにもいかない。
幸い、僕が制止したことが発端になり、お母さまも冷静さを取り戻してきてみたい。ちょっとばつが悪そうな表情を僕に向けてきた。
ーー お母さま、後は任せてもらえますか?
落ち着いてきたとはいえ、今のお母さまよりは僕の方が幾分かましだろう。サルマトリオ男爵との話し合いをおねがいしたのは僕だった。自分で蒔いた種は自分で刈り取らねばならない。
僕はお母さまと視線を交わして了解をとり、2人の間に割って入った。
「サルマトリオ男爵、お母さまに代わって僕が答えます。それでよろしいですね」
「もちろん、異存はございません。アオスタ伯ジャン=ステラ様。それにしてもよろしいのですか、お側にイシドロス殿の姿が見えないようですが」
サルマトリオ男爵は大げさに周りを見渡した。そして僕から離れた場所にイシドロスが立っていることを確認し、にやっと笑う。
それにしてもなぜ唐突にイシドロスが出てくるのだろう。ここはイシドロスの修道院なので、近くにいてもおかしくはないけれど、サルマトリオ男爵がそれを指摘する意味がわからない。
「イシドロス? どうしてイシドロスがここで出てくるのですか?」
「いえ、なに。今回の件に限らず、アデライデ様とジャン=ステラ様に良からぬ事を吹き込んでいるのがイシドロス殿だとの噂を聞いているのです」
「良からぬこととは?」
「なぬ? 心当たりございませんか」
「いや、ないよ。だから聞いているのです」
サルマトリオ男爵は驚いたような表情をみせた後、真剣な面持ちに戻り、堰を切ったように語り始めた。
「まずは街道整備の件です。賊をおびき寄せ、領地の収入を奪うような下策を採用するよう働きかけたのはイシドロス殿だと我が耳に入っております。
さらに、アラビア式の計算法を持ち込み、我がサルマトリオ家を誹謗しようとしております。その計算法が素晴らしいのなら我慢もできましょう。しかしながら、計算勝負では私が圧勝しております。
それだけではございません。ジャン=ステラ様が預言者などという噂を流して近隣諸侯やローマ教会の不興を買っています。
そのせいで数年前にはトスカーナ辺境伯であるゴットフリート3世と戦う寸前になりました。今は亡き教皇ステファヌス9世も世を乱す原因となると、苦言を呈しておりました」
教皇ステファヌス9世はゴットフリート3世の実弟である。トリノ辺境伯家は、そのゴットフリート3世と戦争になりかけたのだから、ステファヌス9世が兄の味方をして不快な噂を広めるのも頷ける。
ただし、ステファヌス9世は今から2年前の1058年には亡くなっている。その後、ニコラウス2世、アレクサンデル2世と2人も代替わりしているため、当時の噂に影響力は皆無となっている。しかも、教皇の座を巡るいざこざは今も続いており、ホノリウス2世が自分が真の教皇だと主張して、アレクサンデル2世に対立している。正直なところ、教皇の権威は地に落ちてしまっていると言っていいだろう。つまり、2代前の教皇の苦言を持ち出した所で、鼻で笑われる程度の価値しかない。
「さらには、恐れながらジャン=ステラ様と皇帝ハインリッヒ3世の末娘であるユーディット姫様とのご婚約が解消されてしまったのも、神に不敬なこの噂が関係していないはずがありません」
こちらも別に婚約の約束だけで、婚約していたわけではない。むしろマティルデお姉ちゃんが大好きな僕にとって、願ったり叶ったりである。そもそも噂とは無関係だしね。
ここまで一気呵成に物申したサルマトリオは一息ついた後、締めくくりの言葉を発した。
「それもこれも、根本的な原因はギリシアからの流れ者であるイシドロスをお側に置いているからではないのですか!」
最後の言葉はイシドロスを睨みながら大声で叫んでいた。