疑わしきは罰する?!
1062年9月下旬 イタリア北部 トリノ近郊の修道院 ジャン=ステラ
遠くから聞こえる鳥の鳴き声に起こされた朝。
ベッドの上で伸びを一つして僕は起き上がった。
ーー 今日は平穏だったらいいなぁ。
昨日はとても大変な一日だった。
トリノから地中海へと抜けようとサルマトリオ男爵の領地を通ったら、当のサルマトリオ男爵が謀反したとの知らせが入り、元来た修道院へとんぼ返り。その帰り道では、街道を塞いでいた傭兵との戦いもあった。
戦いとは言っても、僕は馬車の中にいただけだったけどね。
お母さまと違って僕は全く活躍できなかった。
そもそも、馬にもろくに乗れないのだから、全くのお荷物でしかなかないのは明白なこと。
騎馬単騎で敵陣に突入し、当たるを幸いに並み居る敵をばったばったとなぎ倒す!
そんな活躍ができる8歳児がいるわけないのは理解している。
それでも、もうちょっと活躍できたら良かったのに、と思わずにはいられない。
周りが頑張る中、守ってもらうだけの存在である事に申し訳なさも感じるのだ。
「まだ8才じゃなく、もう8才なんだもの馬ぐらい乗りこなせなくてどうする!
そんなんじゃ、マティルデお姉ちゃんを迎えに行くことすらできないぞ!
頑張れ、ジャン=ステラ!」
両手でほっぺをぱしっと叩いて自分に発破をかけ、お母さまやイシドロス達の待つ食堂へと足を向けた。
食堂といっても専用の部屋があるわけではない。
修道院長でもあるイシドロスの執務室に大きなテーブルを並べて食事をとれるようにしただけの場所である。
食堂ではお母さま、そして新東方三賢者を名乗るイシドロス司教、ユートキア輔祭、ニコラス副輔祭の3人が、僕が来るのを待っていた。
「おはよう、ジャン=ステラ。昨日はよく眠れましたか?」
「お母さま、おはようございます。いろんな事がありすぎて疲れていたためか、朝までぐっすりでしたよ」
「そう、よかった。昨日は初陣だったでしょう?
興奮して寝られないのではないかと、心配だったのですよ。
私の客室は別の建物でしたから、寝顔を見に行くことも出来ませんでしたしね」
ここは修道院なので男女別々の建物で暮らしている。
男性棟はニコラスが管理し、女性棟はユートキアが目を光らせている。
さすがのお母さまといえど、外聞が悪すぎて夜間に男性棟を訪れるわけにはいかなかったのだろう。
続いてイシドロス達3人と挨拶を交わす。
「「「ジャン=ステラ様、おはようございます」」」
僕と目のあった3人が一斉にお辞儀してくる。
それも深々と頭を下げる最敬礼。この3人の僕に対する挨拶はいつもこんな感じ。
キリストへの尊崇を表現するお辞儀と同じ丁寧さで挨拶してくるのだ。
今はもう慣れたけど、最初は2つの意味で戸惑った。
一つは大の大人にお辞儀されること、そして僕がお辞儀を返してはいけない事。
「ジャン=ステラ様は私どもより立場が上なのです。我々にお辞儀を返さないようおねがいします。恐縮してしまい、かえって困ってしまいます」
と注意されたっけ。
2つ目は、ヨーロッパにお辞儀の文化があった事。
ヨーロッパの挨拶は握手とかハグで、お辞儀はしないと思ってた。海外の豆知識が載っている本で習ったのだと思う。あの知識って嘘だったの?って思うくらいこちらの人もお辞儀しいてる。
そんな昔話はおいておき、イシドロス達に挨拶を返そう。
「おはよう、イシドロス。昨日は救援に駆けつけてくれてありがとう。
昨日はバタバタしていて碌にお礼も言えなかったでしょ。改めてお礼をさせてね」
「勿体ないお言葉です。そして何よりもジャン=ステラ様がご無事であったこと、これに勝る喜びはございません」
立派なあご髭のイシドロスが顔を綻ばせ、喜びを表現してくれている。
ーー ありがとう、イシドロス
僕はもう一度、心の中でイシドロスにお礼を言った。
「そして、ユートキア。男たちが出払った後、女たちだけで修道院の守りについていたのですよね。普段守りについている修道院の騎士達と男達がいない中、よく頑張ってくれました。ありがとう」
「最後に、ニコラス。イシドロスと一緒に救援に駆けつけてくれたのでしょう。武具と馬具を整えて素早く出発できたのは、ニコラスが常日頃から準備していたお陰だと聞いています。目立つ役割ではないけど、大手柄だと思っていますよ。ありがとう」
「「勿体ないお言葉にございます、ジャン=ステラ様」」
ユートキアとニコラスは感極まったのか、うつむいて涙を流しはじめてしまった。
ーー うーん、困ったね。
今回の件で迷惑をかけちゃったから一言お礼を言いたかっただけなのにな。
困惑する僕と、感涙にむせぶ3人の間に流れる微妙な空気を打ち破ってくれたのはお母さまだった。
「はい、そこまでにしましょう。ジャン=ステラもイシドロス達も朝食の席に着きなさい」
皆がそれぞれの席に座った後、お母さまは話を続けた。
「ジャン=ステラ、あなた困ったような微妙な顔をしていますよ。なぜイシドロス達がああまで感動しているかわかっていないのでしょう?」
僕の感情ってそんなに分かりやすい?
お母さまが指摘した通りだ。ちょっとお礼を述べただけで、ああまで感動されてしまうと、どう振舞えばいいのか困ってしまう。
「その通りです、お母さま。どうしてイシドロス達が泣いてしまうほど、心が揺れているのでしょう?
お母さまはその理由がわかるのですか?」
溜息と共にお母さまが「やはり分ってなかったのね」 と呟いた。
「ジャン=ステラ、いま神に祈りを捧げたとしましょう。
そうしたら神はあなたに何か返してくれますか?」
うーん。難しい質問だなぁ。
言葉を返してくれたり、奇跡を与えてくれたりするって聖書には書いてある。
しかし、お母さまはきっとそういう事を言いたいんじゃないと思う。
それはイシドロスとの間の短い会話にも表れている。
「アデライデ様、その質問はあまりにも神に不敬では……」
「いいのです。イシドロスは少し黙っていてください」
お母さまはピシャッとイシドロスの意見を封じ込めた。
「そうですね。僕は現世では基本的に何も返してくれないのだと思います。
神から何かを返してもらえるとしたら、それだけで預言者とか聖人とか呼ばれてしまいますよね」
僕の言葉にお母さまは、「はい、よくできました」と生徒に向かって微笑む先生のように、にっこりと頷いた。
「その通りですよ。そこまで分っているのなら、なぜイシドロス達が感涙しているのかわかるのではありませんか?」
えっと、イシドロス達にとって僕という存在は、最低でも預言者であり、ともすると神の再臨ではないかと思っているような至高の存在なんだよね。
うん、自分で言っていてなんだそれ?って思うけど。
「つまり、僕の口からは非常に言いにくいのですが、神から感謝の言葉が返ってきたって事ですか?」
「ええ、そういう事。ようやく分かったみたいね」
えー、困る。とっても困る。
お礼を言っただけでこんな状態になってもらっては、おちおち声をかけることも出来なくなる。
「お母さま、僕どうすればいいですか?このままでは僕、お礼を言うこともできなくなってしまいます」
「別にお礼なんて、言わなくてもいいではありませんか」
へ?
お礼、言わないの?
ーー お礼上手は愛され上手。
皆が快く生きるためには、ささいな事でも「ありがとう」の言葉を欠かさないようにしましょう。
そんな風に道徳の授業で学んできた僕の常識に、お母さまの言葉が真っ向からぶつかってくる。
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたのだろう。
お母さまが再び溜息をつき、ぼくに説明してくれた。
「ふぅ、困った子だこと。あなたの方が上位者なのですから、基本的にお礼は不要なのですよ。イシドロス達にとってあなたに仕えるのは当たり前の事。むしろ仕えさせてやっている、と思っていてもいいのよ」
ーー えー!!!
あいた口がふさがらない。
もしお母さまが本心から思っていても、イシドロス達本人がいる前で「仕えさせてやっている」なんて言葉をいってはだめでしょ?
それって失言、それも大失言でしょ?
あれだけイシドロス達は頑張ってくれているのに。
それなのに、それなのに!
一人、ぷんぷんと、憤っていた僕の怒りを冷ましてくれたのは、当事者であるイシドロスであった。
「その通りでございます。預言者であるジャン=ステラ様にお仕えできる事こそ、我ら3人の喜びなのです。どうかジャン=ステラ様は、心の赴くままにご自身の欲する事を為してください。それこそが神の御意思。我らは全力でジャン=ステラ様を支援いたします」
再び仰々しくお辞儀するイシドロスを見ていたら溜息がでていた。
ーー どうしてこんな狂信者になってしまったのかなぁ
◇ ◆ ◇
「イシドロス達の事はもうおしまいにして、本題に入りましょうか」
居住まいを正して背筋がピーンと伸びたお母さまが、今後の方針について話し出す。
「ジャン=ステラ、あなたにはまだ話していませんでしたが、今朝早くサルマトリオ男爵が修道院の城門前に出頭しました」
サルマトリオ男爵は、謀反を起こした事実はないと申し開きをするため、夜を徹して修道院へと駆けつけたらしい。
男爵に使者として赴き、お母さまと僕が撤退する時間稼ぎをしていたラウルが報告してきたそうだ。
「そっかぁ。男爵が謀反をしたというのは間違いだったのですね。よかったぁ」
僕は胸をなでおろして安堵した。
緊張していつの間にか強張っていた体から力が抜けていくのがわかる。
「いえ、ラウルがそう報告してきただけで、本当に謀反する気がなかったのかはわかりませんよ」
僕の家臣ラウルは、サルマトリオ男爵の実弟である。サルマトリオ家の不利になるような報告をするとは思えない、とお母さまは言う。
「それにね、私が提唱していた街道の整備を断ったり、トリノへの顔見せを怠ったりと、サルマトリオ男爵は普段から反抗的だったのです。火のないところに煙は立たないというではありませんか。謀反を疑うだけの状況は揃っているのです」
「でも、お母さま。サルマトリオ男爵が本当に謀反していたのなら、出頭してこないのではありませんか?」
「いいえ、そんな事はないわ。私たちが迅速に撤退したせいで、不意を撃つ事ができなくなったのです。形勢が不利と判断して謀反を思いとどまっただけなのかもしれないのですよ」
うーん。お母さまに言われると確かにそんな気もしてくる。
サルマトリオ男爵は本当に僕たちを殺そうとしたのかな?
「お母さまはどう考えているのですか?」
「難しいところね。しかし十中八九は謀反していないと思うのよ。サルマトリオ男爵みたいな計算が得意なタイプは博打のような賭けにでる決断は苦手なのよ」
「えー。お母さま、それは偏見が入っていませんか?」
「いいえ、そんな事ないわ。ラウルを思い返してみなさいな。表向きは忠実でしょ? 」
「えっ。表向き?」
表向きって、裏があるってこと?
「ええ、表向き、よ。人間だれだって裏があるものよ。ラウルの場合、すこし怠ける部分があったり、面倒くさがりだったりするわ。お金に少し汚くはあるの。しかし、あなたを裏切る事はないと思ってますよ」
「裏切らないと思うのは、ラウルが僕に忠誠を誓っているからですか?」
「いいえ、忠誠を誓っていたって裏切る者はいますよ。ただ、裏切るためには心が強くないといけないの。神に誓った忠誠を破るのですもの。それに失敗した場合、裏切り者には死が待っているわ。生半可な決断力では裏切れないのよ」
「つまり、ラウルはへたれ、だということですか?」
「へたれ? 聞いた事のない言葉ね。ですが決断を他者に委ねる弱い者だと私は見ているわ。ですから安心してラウルを使ってやりなさい。よっぽどの事がない限り裏切らないと保証してあげる。
すこし話が逸れたわね。
十中八九、謀反していないだろうというのは私の考えにすぎません。
疑わしきは罰するって言葉があるでしょう?
わざわざ単身で、ノコノコと現れてくれたのですもの、後腐れなく殺してしまおうと思うのだけど、
ジャン=ステラ、あなたの考えを教えてくれる?」
えっと、僕、耳がおかしくなったのかな。
「お母さま。疑わしきは罰せずではなく、罰するですか?」
「ええ、罰せる時に罰しないでどうするのです? そのような甘い態度をとっていたら後に禍根を残しますよ」
お母さまが僕を軽く嗜める。
ーー というか、 軽くしか嗜めないの?
サーッと音を立てて、顔から血の気が引いていくのがわかる。
疑われたら殺しちゃうの?
十中八九とはいえ、お母さまにはもう疑われているんだよね。
ということは、僕が「謀反を起こしたかもしれない」って言えば、サルマトリオ男爵の死刑が確定するという事になる。
男爵の命運を僕はこの手に握っている。
文字通り人の生死を決定する立場になった僕は、どうすればいいのだろう。
顔がどうしても俯いてしまう。
テーブル上のパン皿を意味もなく凝視してしまう。
どう答えればいいのかな。
いっそ、気を失ってしまえば楽なのに……
源頼朝を見逃した平清盛の弱さを、お母さまは持ち合わせていないようですね。
(ちょっと違う?)
次回、ジャン=ステラちゃんの決断はいかに?