敵軍旗の正体
1062年9月下旬 イタリア北部 サルマトリオ男爵領 アデライデ・ディ・トリノ
味方が鬨の声を上げ士気が最高潮に達したタイミングで、視界に敵騎馬隊が入ってきました。
街道の前方に広がる林を抜け、横2列に並んだ騎士たちがこちらへと行進してきます。
ーー なんという幸運なのでしょう。
まるで私たちの突撃体勢が整うのを待っていたかのようなタイミングです。
しかも、敵はまだ行軍体勢のまま。戦闘モードに入っていません。
馬上から敵の様子をうかがえば、伝令の報告通り、軍旗が掲げられているのが見えます。
空を模した青地の旗。
空には太陽と4羽の鳥が描かれており、軍旗の下半分は白い雲におおわれています。
ーー 見たことがないわねぇ
子供の頃から叩きこまれてきた貴族たちの紋章と軍旗。
貴族にとって不可欠な知識なのですから、忘れているはずありません。
それにも関わらず、記憶の中に思い当たるものがありません。
いったい誰なのか、どこの貴族なのか。
もしかして記憶から抜け落ちてしまっているのかしら。少しの不安が襲ってきます。
ーー そんなことは関係ないわね
首を数度横に振り、益体のない考えを頭から振り払いました。
そもそも我がトリノ辺境伯領内に侵入しているのです。
無断で私の庭に入ってきたのですもの、誰であろうと敵は敵なのです。
私の庭に勝手に入ってくるとはいい度胸だこと。
先ほどの歩兵部隊と同じように、一瞬で打ち破ってみせましょう。
ーー ふふふっ
自然と笑い声が漏れてきます。
戦闘準備が整っている事で、気持ちが高揚しているのかしら。
ーー 心のままに突撃できたらいいのに
このまま突撃を命令するわけには行かないのが本当に残念でなりません。
貴族同士の戦闘には作法があります。
名乗りを上げ、時には代表者が馬上槍試合をする。
しかし今はだめ。
悠長に槍試合を観戦している余裕はありません。
今は時間がないのです。
馬上槍試合は省略するにせよ、まずは名乗りを上げさせなければ。
「伝令、前方騎馬隊に名乗りを挙げるよう要請せよ」
「は、ただちに」
一礼した伝令の騎士が街道を疾走し、敵陣へと進んでいく。
赤で染め上げられた母衣が騎士の後ろに膨らんでいて、大きな袋を背負っているみたい。
ジャン=ステラが提案した母衣を着用できるのは武勇に優れ誉れ高い騎士のみ。皆の前で母衣を膨らませて疾走する姿は、名誉の騎士であることを喧伝する良い機会になることでしょう。
◇ ◆ ◇
ーー あれ、おかしいわね。
こちらから伝令を出したのを見たのだろう。
敵軍からも伝令と思われる一騎が飛び出してきた。
ここまでは良いのです。
通常であれば、両軍のまんなか辺りにおいて、伝令同士が戦口上を述べるはず。
それなのに、口上を述べる事なく、我が方と敵軍の伝令がわが軍へと戻ってきます。
ーー なにがあったのかしら
そう思っていたのは私だけではなかったようで、護衛騎士が私に声をかけてきた。
「アデライデ様、いったい何があったのでしょうな」
「さあ、なにかしら。」
言葉のやり取りを交わす間も、敵味方の伝令はこちらへ向かって駆けてくる。
「「止まれ、止まれーー」」
「アデライデ様の御前である。下馬せよ!」
敵伝令が速度を落とすことなく、こちらに向かってきた事で護衛たちが騒がしくなった。
何が起きるかわからないのだ。伝令を装った暗殺の可能性だってあるのだ。
無理やりにでも下馬させ、武装を取り上げる必要がある。
陣内を緊張が走り、護衛が慌てて、敵伝令の進行の面前へと割って入る。
「止まれー。これ以上近づけば撃つ!」
弩を構えた騎士が警告を発する。
幸いな事に警告を受け入れた敵伝令が馬から降り、その場で片膝をつく。
そして、ヘルメットを脱いだとたん、周りの騎士たちが 「あっ!」 と驚きの声をあげる。
「アデライデ様、救援の依頼を受け、イシドロス罷り越しました」
◇ ◆ ◇
「イシドロス殿、救援ご苦労」
「勿体ない言葉にございます、アデライデ様」
私の労いの言葉に喜ぶ事はせず、イシドロスは不安げにあちこちを見回している。
「ところでジャン=ステラ様の姿が見えないのですが、ご無事なのでしょうか」
「ジャン=ステラは馬車の中にいます。見に行きますか?」
「拝謁が叶うならば、よろこんで」
「当然です。イシドロス殿の救援により、危地を脱する事ができたのです
ジャン=ステラも喜ぶことでしょう」
私の知らなかった軍旗はイシドロスの旗でした。
正確には、イシドロスの実家であるハルキディキ家の旗。
さすがにギリシアにおける男爵の軍旗までは覚えていませんでした。
ですが本来ならばイシドロス殿が掲げるべきは、修道院の旗のはず。
「なぜ実家の旗を掲げていたのですか?」
「それはジャン=ステラ様から修道院の旗を拝領していないからです」
それはおかしいのではないでしょうか。
修道院がその土地を治める領主から旗を頂くなど聞いた事はありません。
「ローマ教皇やコンスタンティノープル大司教から頂くならともかく、ジャン=ステラというのは筋が通らないと思いますよ」
「いえ、アデライデ様。そんなことはありません。我らが主と頂くのはジャン=ステラ様なのです」
なるほど。納得しました。
「そうですか。ジャン=ステラですか。それなら仕方ありませんね
早々にジャン=ステラから旗を頂き、届け出を出してくださいね」
「もちろんです。ジャン=ステラ様から旗をいただけるよう、アデライデ様の口添えを頂けましたら幸いにございます」
軍旗の識別ができない事で、どれほど気を病んだことか。まったく、もう。
イシドロス殿には感謝していますが、ジャン=ステラばかりを見るのではなく、もうすこし現実を見てほしいものです。
「ふぅ」
思わず溜息がもれました。
ジャン=ステラに傾倒するイシドロス殿への諦めの溜息か、それとも危地を脱して安心したゆえの溜息なのか。
吐いた息は夕方の空へと消えていきました。
次回、ジャン=ステラちゃん視点の戦闘です