三十六計、逃げるにしかず
1062年9月下旬 イタリア北部 サルマトリオ男爵領 ジャン=ステラ
騎士や兵士が剣や弩弓の張りを慌ただしく点検している。
お母さまや僕に同行していた侍女達は、おなかを満たすための簡単な食事を準備するため、動き回っている。
周りがドタバタしているからか、なんだか落ち着かない。
「お母さま、サルマトリオ男爵は本当に謀反を起こしたのでしょうか」
馬車の中で鎧に着替え、本陣に戻ってきたお母さまに聞いてみた。
「さあ、わからないわ。私の知る限りでは謀反するほど肝が据わっているとは思えないわ」
「じゃあ、謀反していない可能性が高いのですね」
ーーよかったぁ
僕は胸を撫でおろした。
「そうね。けれども可能性が低いだけで、謀反の可能性だってあるのよ。警戒は怠ってはだめ」
お母さまは僕の耳にそっとささやく。
「ラウルが視界から見えなくなったら、この地を脱出するわよ」
「えっ?」
「しー、静かに。今は平然と構えていてね」
使者としてサルマトリオ城に送り出した僕の筆頭家臣ラウルは、サルマトリオ男爵の実弟である。男爵が謀反を起こすならば、共謀している可能性があると教えてくれた。
もちろん謀反していない可能性は高い。しかし万が一を考えたらこの場所にいるのは危ない。一刻も早く虎口を脱する必要がある。
それでも即座に撤退しないのは、ラウルがまだ出発していないから。
今や仮想敵となった男爵に少しでも情報を渡さないよう、脱出を悟らせないようにするのだという。
「じゃあ、嫡子のファビオを連れて行かないように命じたのは?」
「もちろん、人質ね」
「お母さま、もしラウルが裏切っていたら……」
「当然、ファビオには神様の御許に向かってもらうわよ」
にこっと笑ったお母さまは、裏切者には報いを受けてもらう必要があると明言する。
笑っているのにお母さまが怖い。
ーー裏切者の一族には死を
僕も頭では理解している、必要な事なのだと。
しかし、頭で理解する事と実行する事の間には大きな溝がある。
そう思ってた。
だからこそ、その溝を飛び越えているお母さまの優しい笑顔が怖い。
でも、その残虐さは土地を支配者する上級貴族なら当たり前なのだろう。
「ジャン=ステラ、大丈夫よ。もし謀反だったとしてもあなたは必ず守ってあげる」
お母さまが僕を抱きしめてくれた。
僕が怖がっているのは、お母さま、いや上級貴族の生き方そのものだと言うのに……
◇ ◆ ◇
サルマトリオ男爵の元へと向かったラウルが本陣から見えなくなると、お母さまはすかさず次の行動へと移った。
「武装と1日分の食料以外は陣幕の中に置き捨てます。
目的地はイシドロスの修道院
最優先はジャン=ステラの安全!
準備が整い次第、出発」
あいまいさのない簡潔な命令を次々と下していくお母さまはとても凛々しくて素敵なのだと思う。
でもやっぱりまだ怖かった。
修道院へと今日来た道を戻り始めてもまだ怖かった。
来た時よりも激しく揺れる馬車。
お母さまは軍の指揮をとるため、鎧姿で騎乗している。
同乗していた侍女たちも馬にのり、僕の馬車の横を併走する。
馬車を少しでも軽くし、速度を上げるためらしい。
馬車の中には僕一人。
寂しいけど、今のお母さまが一緒に居ない事にほっとしている自分がいた。
もし謀反が本当なら自分の命が危険だというのに。
危険を回避するために、みんなが必死になっているというのに。
寂しいとか、上級貴族の考え方が怖いとか、お門違いの考えばかり浮かぶ自分が嫌になり、黒猫の縫いぐるみをぎゅっと抱きしめた。
「一人で馬車に乗るのは不安でしょう? これを渡しておくわね」
本陣を出発する前にお母さまが黒猫の縫いぐるみをもってきた。
それはトスカーナのマティルデお姉ちゃんから貰ったマティキャット。
馬車がギシギシと軋み、時折ドンとお尻が突き上げられる。
そのたびに僕は縫いぐるみを強く抱きしめた。
◇ ◆ ◇
森を抜け、平原に入ったと思うと、また森に入る。
くねくねガタガタの街道を馬車は進んでいく。
森に入ると馬車の中が暗くなるから、まるでトンネルに入った電車みたい。
電車と馬車の違いは揺れ方。
クッションを敷いていてもお尻が二つに割れてしまいそう。
いくつもの森を抜け、ひらけた場所に出てきた頃、良くない知らせがもたらされた。
「報告します!この先の森を抜けた前方に歩兵あり。我が軍の方に向かって街道を進んできます」
馬車と併走するお母さまに報告する伝令の声が馬車の中にまで響いてくる。
「数と所属は?」
「おおよそ50人、軍旗なし」
軍旗なしという事は傭兵だろうか。
あるいは所属を隠して悪だくみを働く軍隊。
サルマトリオ男爵は謀反していた?!
「さがってよし。全軍一旦停止!前方に向かって突撃準備!」
お母さまの命令がさざ波のように軍全体に伝達されていき、僕の乗る馬車も停止した。
停止するのを待っていたかのように、馬車の窓からお母さまが話しかけてきた。
「ジャン=ステラ、聞こえていましたか?」
「はい、僕たちが進むのを兵士たちが遮っているのですよね」
「その通りよ。数が少ないから騎馬で蹴散らして進みます。馬車が揺れるけど我慢してね」
「本当に敵なのですか? 味方の可能性はないのですか?」
「さあ、どうかしら。味方だったならトリノ辺境伯家の旗に気づかないはずないわ。使者を寄越すはずよ。送ってこなかったら敵ね」
獰猛な笑みを浮かべるお母さまに、僕は二の句を継げられなかった。
その後、次々と伝令が飛び込んできた。
「報告、敵軍歩兵、変わらず進んできます」
「報告、まもなく視界に入ります」
「敵軍、停止しました」
馬車の窓から前方を見ると、50名の歩兵が僕たちの陣の前、500mくらいの所で停止していた。
槍や剣が反射する太陽の光だろうか。キラキラ輝いている。
彼らは強いのか、弱いのか。
僕らの方が強いのか。
お母さまの言う通りなら、僕たちの方が強いはず。
心臓がバクバク音を立てつつ、突撃の瞬間をまつ。
その時、新たな悪い知らせがやってきた。
「伝令! 敵軍歩兵の後ろにさらに一軍あり。その数50。うち半数は騎馬」
この時代は紋章が確立する100年から200年前になります。
そのため古代ローマからの使用されている軍旗で識別をしています。