小学3年の算数も中世ならばお家芸
1062年9月下旬 イタリア北部 サルマトリオ男爵領 ジャン=ステラ
「ねえ、おかあさま。急に馬車の揺れが酷くなりましたね」
「サルマトリオ男爵領に入ったのよ。道の整備が遅れているのね」
小さな川に架けられた石橋を馬車が渡ると、そこはサルマトリオ男爵領。
トリノ辺境伯領には、家臣である貴族達の領地が点在している。
ここサルマトリオ領はそのような領地の一つであり、僕の筆頭家臣ラウル・サルマトリオの実家でもある。
がたがた、ごとごと。どぉん。
馬車の座面は揺れ、時々おしりを突き上げる衝撃が襲ってくる。
「いたっ」
おもわず小さく声がでちゃう。
川を渡るまえとは大違い。馬車からみしみし音がする。
揺れて危ないから、懐剣に静電気を纏わせて遊ぶこともできそうにない。
僕たちを護衛する歩兵のスピードにあわせていても、これだけ揺れるのだ。
スピードをだしたら馬車が壊れてしまいそう。
馬車の中身が僕たち人間だからお尻が痛いだけで済んでいる。
もしこれが商品を運ぶ馬車だったらどうだろう。
物を運ぶ時も荷崩れしないように気を使うだろうし、ワインや液体石けんを運ぶ樽が壊れてしまいそう。
ここはトリノと地中海の港アルベンガを結ぶ大切な通商路のはず。
それなのに、こんな道では商品をたくさん運ぶことはできない。
「お母さま、どうしてここはガタガタ道なのですか? 道を整備しなかったの?」
「トリノと地中海を結ぶ大切な道ですもの。私も通りやすい道にしたかったわ。でもね......」
貴族の領地はその貴族の所有物である。
たとえ主君とはいえ勝手に手を加える事はできないらしい。
「でも、道の整備ですよ。サルマトリオ男爵家の利益になるのに」
「そうね。トリノ家が整備すると申し出た事もあるの。しかし断られてしまったわ」
処置なし、とばかりにお母さまが苦笑を浮かべる。
断られてしまったら、それ以上の事はできない。
もちろん力ずくで押し通すことはできる。力関係は圧倒的にトリノ辺境伯家の方が上なのだから。
しかしそれをしてしまうと、今度はトリノ辺境伯家の主君、神聖ローマ皇帝家からの無理難題を拒否する大義名分を失ってしまう。
それを思うとサルマトリオ男爵領の整備は小さな問題なのだろう、お母さまにとっては。
でも僕にとっては大問題。
せっかく、固形石けんとか蒸留酒とかを作っているんだよ。
整備された道を使って効率的にお金を稼ぐ必要がある。
稼いだお金を使って新大陸に渡る準備を急がないといけない。
新大陸は遠い。
一度の航海でたどり着けるわけじゃないから、途中に拠点も作らないといけない。
どれだけ時間がかかるのか、全く予想がつかない。
急がないとトマトやジャガイモが手に入るのは死の直前、って事になりかねない。
そんなの嫌だ。できることなら大人になる前にじゃがマヨコーンピザが食べたい。
まずは直前の課題から片づけよう。
街道を整備させる方法はないか、と頭をひねる。
でも、そもそもなぜサルマトリオ男爵家は街道整備を断ったのだろう。
「お母さま、どうしてサルマトリオ男爵家は道の整備を断ったのですか?」
「うーん、言っていいのかしら」
僕の質問に対して、お母さまはちょっと困惑気味。
なんで困惑するのかな。
小首をかしげる僕にお母さまは続ける。
「実はね、あなたと関係があるのよ」
「え、僕と?」
「正確には、あなたが贈ったアラビア数字の算数本ね」
たしかに僕はサルマトリオ家にアラビア数字を使った算数の教科書を渡した。
それはサルマトリオ家が、トリノ辺境伯家の中で最も計数に秀でた一族だったから。
計算はサルマトリオ家のお家芸といっていいだろう。
実際、前当主のアルマトリダ・ディ・サルマトリオ前男爵は、トリノの出納役を一手に引き受けてくれている。
「計算が得意なサルマトリオ家だったら、僕の教科書を一番役立てると思ったから贈ったのですよ」
「ええ、そうね。しかし、それが裏目にでているのよ」
お母さまが僕の頭をなでながら、諭すような優しい声で教えてくれる。
サルマトリオ家が得意としたのは、ローマ数字を使った計算。
ローマ数字とは、1という数をI、5をV、10をXといったようにアルファベットで表す数字体系。
ある意味、漢数字に似ている。
漢数字と同じように、ローマ数字はあまり計算に適していないのだ。
特に大きな数の計算は大変面倒くさい。
そんな中世ヨーロッパに僕が持ち込んだのがアラビア数字と、たし算引き算の教科書。
さらに続巻として、掛け算と割り算の教科書もサルマトリオ家に贈っている。
この教科書を使って学んでくれれば、サルマトリオ家の計算能力は各段にアップするはず。
今以上に優秀な、数字が得意な行政官を多数輩出してくれるに違いない。
それがどうして裏目にでるのか、僕には理解できない。
「お母さまの説明を聞きましたが、やはり理解できません。教科書を使えばサルマトリオ家の人々の計算能力は上がりますよね」
「ジャン=ステラの言う通りよ。計算能力は上がるでしょう。しかし、計算という技能が独占できなくなるのです。そのことは理解できますか?」
僕の教科書を使って算数を学んだ長兄ピエトロは、6桁のたし算引き算をかるくこなす。
今では3桁と1桁のかけ算だって出来るようになった。
でもね、この程度の計算能力って小学校3年生レベルだよ。
大人ならちょっと頑張ってお勉強したらすぐ習得できるはず。
「ええ、簡単なたし算引き算、掛け算くらいならピエトロ兄さんでも出来ますからね。
でも、サルマトリオ家は計算を得意としているのでしょう?
僕の教科書を読んで、もっともっと計算が得意になったらいいじゃないですか。
それを新しいお家芸にすればいいだけでしょう?」
「やはり、全くわかっていなかったのね」
僕の返答に、困った顔で首を横に振るお母さま。
「アルベルト・ディ・サルマトリオ男爵は、そうは思っていないわ。
男爵家のお家芸である計算を奪われたって感じているのよ。
今まで独占してきた計算能力が、ジャン=ステラによって他人に与えられた。
あなたの算数本がなければ、サルマトリオ家の地位は揺らがなかった。
そういう意味で不満たっぷりなのよ、かの御仁は」
「はぁ」
思わず溜息がでた。
小学校3年生程度の計算能力しかないのに、お家芸だって威張られて独占されてもねぇ。その事実に困惑してしまう。
新しい知識が得られたのだから、それを元にお家芸に磨きをかければいいじゃない。
技術って時とともに発展していくものでしょう?
お家芸とし独占しているサルマトリオ家の方に問題があったんじゃないかな。
その考えをお母さまに伝えると、逆に驚かれた。
「技術って秘匿しておくものでしょう?
ジャン=ステラ、あなたは何を言っているのかしら」
「ほへ?」
「考えてみなさい。秘匿しておかなければ、自分の優位が失われてしまうでしょう。
どうして、他人を有利にして自分を貶めるのが当然だと思うのかしら。
私はジャン=ステラの考えがさっぱり理解できないわ」
あなたは預言者ですから普通の人とは違うのでしょうね、とお母さまは話を纏めた。
「うーん。納得はしていませんが理解はしました、お母さま」
確かに秘密にしておいた方が自分は優位にたてるのだろう。
自分しか知らない秘密を他人に教えてあげた結果、自分の地位が揺らいだら阿呆扱いされても仕方ない、かもしれない。
それでもね、小学校3年生レベルだよ? 9歳の子供が学ぶ算数が、代々受け継がれてきた一家相伝の技術だ、といわれても。さすがにレベル低すぎでしょう。
もっとレベルアップしちゃってよ。まったくもう。
あきれて気の抜けてしまった僕は元々何を話していたのか、すっかり頭から消えていた。
「理解できただけでも良しとしておきましょう。さて本題に戻るわね」
「あれ、何の話をしていましたっけ?」
「もう、ジャン=ステラったら。道の整備が遅れている理由について話していたのよ」
「ああ、そうでしたね。でも理由は分かりましたよ。逆恨みですよね、これって」
お家芸を僕に奪われちゃったから、悔しいのだろう。
だから、せめてもの嫌がらせとして、街道を整備させてくれないのだ。
「だいたい合っているわ。でも逆恨みまでは行かないわ。
精々すねているって程度ね。街道整備を交渉材料にして有利な条件を手に入れようとしているんだと思うわ」
今回、サルマトリオ家の城で一泊するのは、街道整備の交渉をするためでもあるらしい。
感心した僕はお母さまに思ったことを伝えた。
「お母さまもいろいろと考えているんですね」
「あたりまえでしょ」
おかあさまに頭をゴツンと叩かれた。
ちょっと痛くて手で頭を抑えた。
親子とはいえ、さすがに不敬だったらしい。
うーん、親子の距離感がよくわからない。
揺れる馬車内でお話をしているうちに大分時間が経過したらしい。
サルマトリオ男爵家の城まであと30分くらいの所で小休憩となった。
ここから先触れの使者をだすのだとお母さまが教えてくれた。