身から出たさび
1062年9月上旬 イタリア北部 トリノ ジャン=ステラ
「お母さま、ひどいです!」
お兄ちゃん達と、ついでに僕の叙爵が終わった後、執務室に戻ってきた僕は、アデライデお母さまに文句をぶつけた。
それなのに、お母さまは僕の怒りにまったく動じてくれない。それどころか、「あらあら、この子は癇癪おこしちゃって。よしよし、いい子いい子」とおっぱい欲しくて泣いている赤ちゃんを見るような、温かいまなざしで僕を見てくる。
そして、いたずらに成功した子供のように嬉しそうな顔で僕にこう告げてきた。
「あら?辺境伯にはなりたくないとは聞いていたけど、伯爵が嫌だとは言っていませんでしたよね」
「伯爵だったらいいだなんて、僕は一言も言ってませんよ」
「あらそうだったかしら?」
と白々しい事を言ってくる爽やかな笑顔のお母さま。
お母さまは以前、辺境伯にならないかと打診してきたが、僕は断った。それ以降、辺境伯はおろか、伯爵の事が話題に登ったことはない。つまり伯爵への叙爵がいいとも、悪いとも言っていないのは確かである。
しかし、辺境伯も伯爵も僕にとっては同じこと。責任ある面倒な事に巻き込まれたくないし、僕にとってはピザの方が重要なのだ。
ーー お母さまも分ってくれていたと思っていたのになぁ。
なんだか裏切られたような、僕の事が理解されていない事に悲しいような気持ちが湧き上がってくる。
「それ以前に、叙爵するなら叙爵するで、事前に教えてくれてもいいじゃないですか」
「でも、事前に伝えたら、断るつもりだったでしょう」
「そりゃ、当然じゃないですか!」
荒っぽい声をあげた僕を見てお母さまは、はぁ~と長いため息を一つ洩らした。
そして、真剣な顔に戻ったお母さまが、静かになった声で話を続けた。
「私もジャン=ステラなら断るだろうと思ってましたよ。事前に打診したら、伯爵になってくれなかったでしょう。ですから秘密にしていたのよ」
「そうだとしても、お兄様達の晴れ舞台と一緒に叙爵しなくてもいいじゃない」
「あら、どうして?」
うぐっ。
だって、お兄ちゃん達の叙爵で盛り上がっていたんだもん。僕が叙爵を断ったら、お祝いの雰囲気が台無しになるじゃない。前世の記憶のせいか、空気を読んで行動する癖がついているんだもの、断れるわけないじゃない。
気づくと僕はうなだれていた。お母さまが静かに、そしてため息交じりに話し始めた。
「もし、あの場で叙爵されるのがあなただけだったら、その場で断っていたでしょう。それで断れないような舞台を準備したのよ」
3人の兄たち全員に対して、叙爵と宮中助祭への任命を同時にしたのは、僕に断る口実を与えないためでもあったらしい。兄たちの誰か一人でも役職についていないなら、確かに僕が断ってもおかしくはない。僕がアオスタ伯になるため、お母さまはいろいろと画策、というか苦労をしたのだと、話してくれた。
「それでも、僕は伯爵になんてなりたくなかったな」
おもわず僕は呟いていた。
「そうね、あなたの意思を確認せずに叙爵した事は謝ります」
ごめんなさいね、とお母さまは、僕に謝ってきた。
「でもね、ジャン=ステラ。叙爵してでもあなたをトリノ辺境伯家に縛っておきたかったのも事実なのよ」
「縛るって、どうして? ここは僕のお家だから、離れたりしないですよ」
不思議な事を言い出したお母さまに対し、僕の居場所はトリノだと主張した。すると、アデライデは首を振りながら、どうして縛っておきたかったかを教えてくれた。
「少し前だったかしら。トスカーナ辺境女伯のマティルデ様に誘拐してもらって、お婿さんになりたいって言っていたでしょう。
私としては誘拐なんてさせるわけにはいかないけど、ジャン=ステラが誘拐されたがっていたら、防ぐことはできないもの。
何か鎖になるものが必要だと思わない?」
「それが伯爵位なのですか?」
「ええ、そうよ。だってあなた、責任感が強いのですもの」
お母さまが大きく頷いた。そして、僕がいやだいやだ、面倒くさいと口では言ってはいても、結局は自分で出来る限りの努力をしてきたのだ、と。
家臣のラウルとその実家であるサルマトリオ家に対して、家業である計算技能を損なわないように算数の教科書を一番に提供する配慮。そして、ジャン=ステラを慕ってギリシアからトリノへやってきた100人を超える修道士たちに対して、トリノ近郊で生活が成り立つよう陰に陽にと心配りをしていた。
僕がしてきた色々な事をお母さまは見てきたのだと教えてくれた。
「最初はいやいやだとしても、爵位につけば、責任をもって役目を果たしてくれる。私はあなたを信じているのよ」
伯爵位があれば誘拐しづらい理由はもう一つある、とお母さまは話を続ける。
「それに伯爵位を持っていたら、相手も誘拐しづらくなるわ」
確かに家臣もほとんどいない貴族ならともかく、直臣が多数いる伯爵本人を誘拐するのは至難の業だ。
実際、お姉ちゃんが後妻として嫁いでいったシュヴァーベン大公ルドルフが、前妻であった前皇帝の娘マティルデ姫を誘拐できたのも武力を担う家臣が居なかったからだろう。
「そうだったのですね」
がっくりと肩を落とした僕は、一言だけを口に出した。
マティルデお姉ちゃんに誘拐してもらいたい、これは僕の単なる夢物語。
白馬に乗った王子様が私を迎えに来てくれますように。小さい女の子が思い描くおとぎ話みたいな感覚で言った冗談だった。
それが、こんなに真剣に受け止められていたなんて。誘拐婚が普通に成り立ってる時代に生きているって自覚が、まだまだ足りなかった。
というか、この時代で僕、ちゃんと生きていけるのかなぁ。
周りとの認識の違いに改めて不安になったジャン=ステラちゃんでありました。
次回はトリノから地中海に向かいます。