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トリノ辺境伯の苦悩

 1057年9月上旬 イタリア北部 トリノ トリノ城館 ジャン=ステラ


「トリノ辺境伯家は、神聖ローマ帝国皇帝の家臣であり続けます」

 お母さまの宣言に僕は困惑の色を隠せない。


 トリノ辺境伯は、神聖ローマ帝国の一諸侯、つまり皇帝の家臣だよね?


 僕にとって当たり前の事実だけどお母さまは悔しそうだし、イルデブラント助祭は喜んでいる。


 残念ながら、僕の理解が及んでいない。

 イルデブラントがいる前で質問するのは悔しいけど、このまま退室を許してしまっては良くない気がする。


「お母さま、トリノ辺境伯家は皇帝に従っているはずですよね?」

「もちろんそうよ、ジャン=ステラ」

「だったら、どうして家臣であり続ける宣言する必要があるのですか」


 お母さまはイルデブラントの方をちらと見た。

 答えるべきか逡巡(しゅんじゅん)しているのだろう。


 一拍の後、溜息をついたアデライデは、答える事に決めたらしい。


「そうね。ジャン=ステラは摂政見習いですものね。知っておいた方がよいかしら。

 それに、イルデブラント様もジャン=ステラを見定めたいでしょうから」


 最後のセリフを言い終える頃、アデライデに茶目っ気のあるいつもの笑顔が戻ってきていた。


(この笑顔だけでも、質問した甲斐があったね)


「ジャン=ステラ、あなたは現在の皇帝がどなたか知っていますか?」

「現在は空位ですが、ハインリッヒ4世陛下が次代の皇帝ですよね」

「そうね。ドイツ王であるハインリッヒ4世陛下が皇帝に最も近い位置にいるのは間違いないわ。でもね、確実ではないの」



 神聖ローマ皇帝に就任するためには3つの条件をクリアする必要がある。

 一つ、ドイツ王であること。

 一つ、イタリア王であること。

 そして、ローマにて教皇猊下から皇帝に任命されること。


 ハインリッヒ4世はこのうちドイツ王しかクリアしていない。

 さらに、彼がドイツ王である事を認めない勢力が2つ台頭してきている。


 ドイツ北方沿岸地帯を治めるザクセン大公と、ドイツ南方のシュヴァーベン大公。


 彼らは、皇后アグネスと若干7才のハインリッヒ4世に軍を指揮する能力がないと見て、好き勝手行動している。


 そんな彼らに対し、皇后アグネスは懐柔を試みているが、情勢は芳しくないらしい。


 ルドルフ・フォン・ラインフェルデンを皇女マティルデ(9才)の婚約者とし、皇帝家に取り込もうとしたが、逆に乗っ取られそうな勢いなのだとか。


 このような状況下で、親ハインリッヒ4世だった教皇ウィクトル2世が亡くなったのだ。

 皇帝家が没落し、帝位が他に移る可能性が出てきているといっていい。



 では、だれの手に移るのか。


「ゴットフリート3世が帝位に挑むのだと、ここに居られるイルデブラント様が伝えてくださったのよ」


 ゴットフリート3世の方針は次の通りと、お母さまが説明してくれた。



 ゴットフリート3世はトスカーナ辺境伯に加え、先日中部イタリアのスポレート公の爵位も手に入れている。

 既にイタリアに並ぶ者のない大勢力となっているのだ。

 ゴットフリート3世の実弟である新教皇ステファヌス9世が、イタリア王位を与えるのも時間の問題だろう。


 ドイツ王になるのもそれほど難しいとは思えない。

 ゴットフリート3世は10年前まで上ロートリンゲン大公であったし、ザクセン大公とは何代にもわたって縁戚関係を結んでいる。

 ハッキリ言ってしまえば、イタリアよりもドイツの方に地縁があるのだ。

 血縁、地縁、軍事力と3つ揃っていれば、ドイツ諸侯からの反発は弱いものとなるだろう。


 そして最後は、実弟である教皇からローマ皇帝に戴冠してもらえれば新王朝の誕生だ。



「いえいえ、私はゴットフリート様から何も伺っていませんよ」


 すかさずイルデブラントは、お母さまの言葉を否定する。


 それに対しお母さまは、声を挙げて笑った。

「ほほほ。たしかに、イルデブラント様は明言していませんでしたわね。

 ほのめかし、贈物で透かし脅かし、言質を取ろうと試みる。

 さすがは、教皇の懐刀ですわね」


「いえいえ、上がりの非才な身にありますれば、ご容赦くださいませ、アデライデ様」

「ご謙遜も過ぎると嫌味になりますよ、イルデブラント様」


 一幅の絵画のように、アデライデとイルデブラントが仲良く笑いあう姿がそこにあった。

 ただ、2人とも目が笑っていないのが玉に(きず)だけどね。



 そっか、お母さまがイルデブラントを紹介してくれたけど、「平民出身」っていうのは、(あざけ)りだったのか。


 農民から成りあがった太閤秀吉さんみたいに、称賛だと僕は勘違いしていたよ。

 お母さま、そして今の僕のような貴族階級からすれば、イルデブラント助祭の存在は脅威と感じてもおかしくないのか。

 うん、一つ賢くなった。というか貴族社会、めんどくさい。


 しかし、ここまで説明してもらったのに、先ほどの言葉、

「トリノ辺境伯家は、神聖ローマ帝国皇帝の家臣であり続けます」

 の意味がわからない。


 意味というか、トリノ辺境伯家は今後どうするの?

 これも聞いてもいいのかな。


「お母さま、神聖ローマ皇帝位を巡る争いを説明下さりありがとうございます。

 でも僕、まだどういう事かわからないんです」


 おや?という表情を浮かべた二人が、同時に僕の顔を覗き込んできた。


「そうねぇ。ジャン=ステラに国際情勢は難しかったかしら」

「たしかに、そのようですね」


 納得しあうお母さまとイルデブラント。

 僕を出しにして、2人の息が揃ったかんじ。

 対立するよりも仲良くしてくれる方がうれしいけど、できない子扱いされた身としてはちょっと悲しいな。



「イルデブラント様の前で言うことではないのでしょうが、ジャン=ステラには直截(ちょくせつ)に言わないと理解できなそうですね」

「私の事はお構いなく、どうぞお話しください」

「それでは失礼しますね」


 イルデブラントとの会話を切り上げたお母さまが、僕に向き直って解説してくれた。


「ジャン=ステラ。私たちトリノ辺境伯家はゴットフリート3世に敵対しない事に決めたのです。

 イタリア王、そして神聖ローマ帝国を目指すとしても邪魔はしないと。

 そして、ここが重要なのですが、もしゴットフリート3世が神聖ローマ帝国皇帝に就任したら、臣下の礼を取ると宣言したのですよ」

「だから、お母さまは苦悶の表情を浮かべていたのですね」

「そういう事になるかしらね」



 僕への説明を終えたお母さまは、改めてイルデブラントに向き直って語りかけた。


「イルデブラント様。この通りジャン=ステラは3歳児にしてはとても賢いですが、人智を超える存在ではありません。その点、ご理解いただけたかしら」


「ええ、頭の回転も早く、素直なお方とお見受けしました。

 ただ、貴族の矜持をお持ちでないのではないか、その点が気になりますね」


 イルデブラントの「貴族の矜持」という言葉に反応し、お母さまの目線が鋭くなった。

 それに気づいたイルデブラントは、謝罪とともに言葉を続けた。


「いえ、良くない言い方でした。アデライデ様、ジャン=ステラには謝罪申し上げます。

 言い換えるとすれば、平民に対する感情が通常の貴族と異なるのではないかと、感じたのです」


「あら、それはジャン=ステラは城外に出たことがないから、でしょうか。

 まだ平民と接した事がないからイメージが湧かないのでしょう」


 アデライデの説明に対して、首を横に振りながらイルデブラントは反駁(はんばく)の言葉を口にした。


「これまで私は幼い貴族の方々とも接する機会が多数ありました。

 幼くてもやはり、貴族の子女は貴族なのです」


 イルデブラントは姿勢をただした後、改めて僕と向かい合った。

 これまでと違い、イルデブラントは緊張を顔に貼り付けながら、僕に質問を投げかけた。


「ジャン=ステラ様。あなたにとっては、貴族も平民も同じ存在なのでしょうか」

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