黒猫のぬいぐるみ、マティキャット
1057年8月下旬 イタリア北部 トスカーナ カノッサ城 イルデブラント助祭
ゴットフリート3世とその弟であるステファヌス9世の軍勢がカノッサ城の正門を出ていく。
その行先は、教皇が司教を務める地、ローマである。
一行を見送ったイルデブラントが客室へと戻ろうとした時、鈴のように心地よい響きの声に呼び止められた。
「ねぇ、イル。お願いしたいことがあるから、お部屋まで来てくれない?」
声の主は12才の少女、マティルデ・ディ・カノッサ。
彼女が呼びかけた“イル”とは、もちろんイルデブラントのこと。
マティルデの実父が亡くなる前の数年間、カノッサ家で家庭教師を務めていた時の愛称である。
「マティルデ様、お願いは構いませんが、お部屋に行くことはできませんよ」
「あら、どうして?昔はお部屋でお勉強を教えてくれたじゃない?」
ちょっと悪戯っぽく、からかうような口調でマティルデが問いかけてくる。
「マティルデ様は、もう淑女ですからね。婚約者もおられるのですから、男を部屋に引き込むのは外聞にかかわりますよ」
「えー。イルは聖職者でしょ?それに結婚しないって言ってたじゃない」
問題ないでしょ?とばかりにマティルデは、イルデブラントの顔を覗き込んでくる。
イルデブラントは宗教改革の先導者として、妻帯や聖職売買といった堕落を防ごうと活動している。
そういった意味では、イルデブラント自身が妻帯しない事を宣言していると言っていい。
「いいえ、そういう意味ではありません。悪意を持った噂は真実とは関係なく広まるもの。軽々しい行動をとってはなりませんよ」
「はーい」
首を振りながら嗜めるイルデブラントに対し、マティルデは口を尖らせて同意する。
ただし、マティルデの言葉には続きがあった。
「でもね、イルとなら、そんな噂がたっても構わないわ。だって昔から大好きだもの!」
「これ、大人をからかうのではありませんよ」
「ふふふっ、じゃあお義父様の執務室で待ってるわね。早くきてよー」
マティルデはイルデブラントに手をふりつつ、一陣の風が過ぎ去るような早さでその場を後にした。
夏の季節に相応しいひまわりのような笑顔で素直な好意を向けられたイルデブラントは、口元が緩むのを感じた。
(もし私に娘がいれば、マティルデ様くらいの年頃だろうか)
当年37才の独身中年であるイルデブラントは、走り去っていくマティルデを見送り、そして周りに聞こえるように独り言をつぶやいたのであった
「まったく、マティルデお嬢様のお転婆ぶりにも困ったものですね」
◇ ◆ ◇
ゴットフリート3世にとって、カノッサ城はあまり居心地の良い場所ではない。
マティルデの義父として、彼女を後見するという立場でトスカーナ辺境伯を名乗っているのだ。
マティルデ・ディ・カノッサの本城であるカノッサ城は、ゴットフリート3世にとっては客として訪れた異郷の地に他ならない。
それに、先代のローマ皇帝ハインリッヒ3世に剥奪されたとはいえ、ロートリンゲンの元公爵なのだ。
地位として見れば公爵は辺境伯よりも上である。
そう考えるとやはり、借物の地位に過ぎないトスカーナ辺境伯である事に忸怩たるものがあるのだろう。
執務室の壁に、ロートリンゲンの地図が掲げられているのは、心情が発露した故のもの。
いつかは故国たるロートリンゲンへと返り咲かんとの決意を新たにしているのだろう。
とはいえ今、ゴットフリート3世の執務室にいるのは、マティルデとイルデブラントの2人。
いや、厳密には違う。
侍女や執事が仕事をしているし、マティルデの後ろには護衛騎士が控えている。
2人が執務室で密会を楽しんでいるわけではない事は、彼らが保証してくれるだろう。
それに、二人の会話は艶めかしいから程遠い内容であった。
「ねぇ、イルはトリノに行くのよね」
「ええ。トリノ、ラインフェルデンを経由して、ゴスラーまで行きますよ」
イルデブラントは新教皇ステファヌス9世の特使として、教皇の正統性を説くため諸侯を巡ることになっている。
ラインフェルデンとはシュヴァーベン大公ルドルフの本拠であり、ゴスラーは神聖ローマ皇帝の首都である。
「よかった。あのね、トリノのジャン=ステラに手紙と贈物を届けてほしいの」
「ええ、いいですよ」
教皇の特使であるイルデブラントをおつかいに使おうとするマティルデに一瞬驚きはしたものの、イルデブラントは快諾し、微笑んだ。
「じゃあ、これをお願いね」
マティルデは侍女に合図を出し、手紙と円い平ガラスが乗ったお盆をイルデブラントの前に置いてもらった。
「手紙はよいとして、こちらのガラスは何でしょう?」
イルデブラントが示すのは、直径10cm厚さ5mmくらいのびん底みたいなガラス。
現代の透けて通るようなガラスと比べると大分濁ってはいたが、中世ヨーロッパでは最上の透明度を誇る最新技術の賜物である。
「教会の窓に並べて取り付けるのよ。そうしたら、窓を開けなくても教会の中が明るくなるの」
「しかし、私は教会でこのような丸ガラスを見た記憶がありませんが……」
「義叔父様がステファヌス9世としてローマ教皇になられたお祝いとして、初めて教会に設置するらしいわよ。お義父さまがおっしゃっていたの」
「そうですか。ゴットフリート様の思し召しでしたか」
ビン底ガラスを使った教会窓というものを、イルデブラント助祭は見たことがない。
その教会窓を少女のマティルデが知っている事に困惑したイルデブラントであった。
しかし、彼女の義父であるゴットフリート3世が関係しているのなら、そういう事もあるのだろうと、己を納得させた。
「届けてほしい物はあと2つあるの」
マティルデは再び侍女に合図し、次の品をイルデブラントの前にもってきてもらう。
イルデブラントの前に置かれたのは、通常の半分サイズのクロスボウ。
「これは?」
「クロスボウっていう武器よ。細長い棒を遠くまで飛ばすのですって。
男の子への贈物は何がいいかって相談したら、武器がいいって言われたの。
だけど、剣も槍も重いし危ないでしょう?」
マティルデは、剣を振るまねをしながら、子供が刃物を使う事の危なさをイルデブラントに語って聞かせる。
幼児に刃物を持たせたら、自分を切って傷つけてしまうだろう。
そんな事はイルデブラントも知っている。
イルデブラントが聞きたかったのは、なぜクロスボウなのか、である。
「でも、小型のクロスボウなら力が無くても、棒を飛ばせるから、幼児のおもちゃとしても使えるだろう、ってお義父さまが渡してくれたの」
マティルデは「すごいでしょ?」という擬音が聞こえてきそうな素敵な笑顔をイルデブラントに向けてくる。
しかし、笑顔を向けられたイルデブラントは困惑を隠せないでいる。
なぜなら、騎士や上級貴族はクロスボウのような飛び道具を使わない事をイルデブラントは知っている。
騎士の花は馬上槍であり、剣やポールアックスのような近接武器である。
一方、弓やクロスボウ、石を飛ばすスリングは兵士が使う武器である。
その中でも特にクロスボウは、ろくに訓練しなくても使えるのだ。
己の技量を誇りとする騎士の武器とは対極に位置する武器と言える。
そのような位置づけの武器であるクロスボウを贈られた側は、「お前は平民の武器がお似合いさ」という嫌味や侮辱として受け取る可能性だってある。
この部屋に、クロスボウを贈ることの危うさを理解できそうなのはいないだろうか。
イルデブラントが執務室を見渡すと、マティルデの護衛騎士の一人と目が合った。
確かに目は合ったのだが、次の瞬間には目を逸らされてしまった。
“やはりクロスボウを贈ることに、ゴットフリート3世の意図が介在しているようだな”
イルデブラントは、贈り物一つに神経を使わざるを得ない己の身を嘆きつつ、そっと溜息をついた。
「次で最後よ。最後のが一番すごい贈物なんだからね」
そんなイルデブラントの心境は露知らず、マティルデの明るい声が執務室に響きわたる。
そして心底嬉しそうな笑顔を浮かべ、最後の贈物を机の下から取り出した。
彼女が「すごい」というだけあり、侍女に持って来させるのではなく、自分の手で取り出すほど特別な贈り物。
その贈り物は、イルデブラントの目には黒い布の塊のように映っている。
「黒い、ぬの、ですか?」
宝石にも服飾にも見えない。
一体何なのかわからなかったイルデブラントは、一言一言ゆっくりと質問の言葉を発した。
「そうね、布で出来てるけど……」
イルデブラントが一目で解ってくれなかった事にちょっと不満顔になったマティルデだったが、気を取り直して答えた。
「これはね、ネコのぬいぐるみ。 私が自分で作ったのよ。かわいいでしょ。手触りもとってもいいのよ」
黒い布で作ったから、黒猫の縫いぐるみ。
目の周りは、白い布になっている。
どう、すごいでしょ、自慢気なマティルデに対し、やはり困惑顔のイルデブラント。
“今日何度目の困惑だろう”
そんな思いが頭を過るイルデブラントだったが、上機嫌なマティルデの気分に水を指すわけにはいかない。
こんな可憐な少女でも、トスカーナ辺境伯という権力者なのだから。
「布で作った黒ネコなのですね」
「ええ、そうよ。前にジャン=ステラからクマのぬいぐるみを貰ったの」
ジャン=ステラお手製の縫いぐるみだったの。
ステラベアって名前のとっても素敵にかわいい縫いぐるみだったの。
そこで、私も手作りしたのよ、とマティルデは嬉しそうに教えてくれた。
周りの侍女達が微笑ましいものを見る目でマティルデを見ている。
きっと、半分以上は侍女が作ったのだろうが、それは言わない約束というやつだろう。
「あのね、イル。このネコにも名前があるのよ」
「して、どんな名前なのかお聞かせ願えますか」
「黒ネコなのは私の髪が黒いからなの。だからマティキャット。私の名前からとったのよ」
マティルデは、少しはにかみながら、黒猫の名前を告げたのであった。
「ねえ、イル。このネコが一番重要な贈物なのよ。だって私の分身ですもの。
ジャン=ステラまで絶対安全に届けてね」
ネコをキャットと英語を使っているのはご愛敬という事でご容赦ください。
ラテン語 Cattus やイタリア語Gatto、そしてドイツ語 Katze 、フランス語Chat とかも考えたのですが、どうもしっくり来なかったのです
日本語で「マティねこ」も語感がかわいくて好きでしたが、テディベアに合わせて英語にしました