生理と衛生1
1057年7月中旬 イタリア北部 ピエモンテ州 トリノ アデライデ・ディ・トリノ
トリノの北側に広がるアルプスの山々。
盛夏にあっても消えることのない、その頂を覆う白い雪が大分小さくなっている。
「今日も暑いわねぇ」
トリノ城館の1階にある会議室を出て、2階の執務室へと続く階段を上る途中、アデライデの口から暑さに対する愚痴が飛び出していた。
暑気あたりでもしたのかしら。
階段を昇る足取りがいつもより重たく感じられる。
いえ、重たいのは足ではなく、おなかの下の方。
そういえば、前回おなかが痛くなってから、そろそろ1か月くらい経つわね。
また、憂鬱な数日間がやってきた事にアデライデは思い至り、「ふぅ」と溜息をついた。
「女性は体の中に悪い血が溜まる原罪を抱えて生まれてくる」
そのように聖職者から教えられた。
「男性と違って、女性は家にいることが多い。体を動かす量が足りないから、使われず余った血が排出されるのだ」
ギリシアの偉人の説話が伝わっている。
殿方が羨ましいとは思うが、今は優先すべきことがある。
まずは服が血で汚れる前に対応しなければ。
護衛が開けてくれた執務室の扉をくぐるなり、アデライデは侍女一人を除いた人払いをお願いした。
「筆頭侍女のニコレ以外の人は、執務室から出ていってくださるかしら」
ニコレは、私が幼少の頃からずっと仕えていくれているただ一人の侍女。
私よりもすこし年上な事も手伝い、子供の頃は頼れるお姉さんといった感じだった。
今は、プライベートな相談をすることもできる最も気安い存在となっている。
ニコレ一人残るようにと強調した事で、殿方である執事も理解したようだ。
体調を気遣うような、あるいは同情するような視線をこちらによこした後、執務室から退室していった。
「あの、アデライデ様。ジャン=ステラ様はいかがされますか?」
ジャン=ステラ付きの侍女であるリータが、おずおずといった感じで私に話しかけてきた。
「ジャン=ステラ?」
私が問い返すと、「はい」という返事とともに、リータは執務室の奥の方を指し示す。
執務室の奥の方に置かれているベッド。
天蓋の幕の中で、ジャン=ステラが両手両足を大きく広げて寝ていた。
今はお昼寝の時間だったらしい。
話すことは大人顔負けなジャン=ステラだが、7月4日に3才になったばかり。
昼寝も日課の内である。
ジャン=ステラの顔を覗き込むと、頬が緩みとても幸せそう。
それを見ているアデライデの頬も自然に緩んできた。
ジャン=ステラのほっぺを突いてみたい衝動に駆られたアデライデだったが、
「起こしては可哀想よね」
と思い、ジャン=ステラの頭を撫でるに留めておいた。
「ジャン=ステラはそのまま寝かしておき、リータは席を外してください」
「承知しました」
すこし小さな声で、アデライデはリータに指示をだす。
部屋に残るアデライデの侍女に対して、「あとはよろしくお願いします」とリータは声をかけたのち、執務室を後にした。
◇ ◆ ◇
扉が閉まったを確認した後、アデライデは侍女のニコレに指示を出す。
「また例の病気の期間が始まったのよ。リネンのラグを用意して、着替えを手伝ってちょうだい」
「はいはい、心得ておりますよ、アデライデ様」
ラグというのは、生理の血を受け止めるハンカチみたいな形をした布である。
ニコレは、ベッド横に置いてある棚の引き出しから白い布を取り出し、アデライデの下へ戻ってきた。
「それでは、お手伝いいたしますね」
「ええ、よろしく頼むわね」
ニコレは、アデライデのスカートの裾を持ち上げる。
その間にアデライデは、ラグをスカートの中に差し入れ装着する。
これまでニコレに手伝ってもらって何度となく繰り返してきた日常的な作業。
しかし、スカートの中から漂ってくる饐えたような血の匂いに慣れないわねぇ、とアデライデでは心の中で独りごちる。
この臭いが、数日をかけてだんだん強くなっていくのだと思うと、憂鬱の度合が増していくというもの。
はぁ、と溜息が一つ、アデライデの口から零れ落ちた。
その直後、執務室の奥から幼児の声が聞こえてきた。
「お母さま?」
「おはよう、ジャン=ステラ」
お昼寝から覚めたジャン=ステラが、アデライデとニコレの方をみて不思議そうな顔をしている。
「会議から戻ってきていたのですね。それにしても、どうして部屋にニコレしかいないの?」
「それはね、えっと……」
アデライデはすこし言葉に詰まった後、服のせいにする事にした。
生理の事を積極的に知らしめたいとは思わない位の羞恥心は持っている。
「着替えをしていたのよ。服がすこし汚れてしまったの」
「でも、いつもならニコレだけなく他の侍女もいるでしょ? それにリータが居ないのは不思議だったんだ」
「ジャン=ステラは、よく見ているわねぇ」
ジャン=ステラ付きの侍女であるリータもいないから、普段と違う雰囲気を感じたのだろう。
アデライデはジャン=ステラの観察眼に驚いたが、内心の動揺を抑えつつ、ジャン=ステラを褒めた。
その口調に「こんな時に観察眼を発揮しなくてもいいのに」というぼやきが混じっているのは、仕方のない事であろう。
「そういえば、変な臭いもしますね。どこかで嗅いだことがある臭いな気が……」
ジャン=ステラは鼻をひくひくさせている。
先に、香りの強い花でも飾っておけばよかったとアデライデが思ったが、それは後の祭り。
「ああ、生理ですね。お母さま、血で服が汚れてしまったの?」
ジャン=ステラに生理の事を知られてしまったアデライデは、すこし恥ずかしく感じたが、それ以上に不思議な事がある。
夫であったオッドーネは生理についてほとんど何の知識も持ち合わせていなかった。
男の子であるジャン=ステラは、一体どこで知識を仕入れたのだろう。
「ジャン=ステラ? あなた、そんな知識を誰から教わったの?」
後から思えば、前世の知識だというのは分り切った事だったが、アデライデも動揺していたのだろう。思いついた言葉をそのまま口にしていた。
「いやだなぁ、お母さま。 前世の知識ですよ。つまり預言って事、になるのかな?」
なんでもない事であるかのように、さらっとジャン=ステラは預言だとアデライデに伝えてくれる。
(確かにそうよね。殿方が生理の事を教えられるわけがないから、預言の知識としか考えられないわよね。少し考えればわかることだったわ)
動揺が収まってきたアデライデは、当然の事だったと思い返した。
ベッドに座ってこちらを見ている幼児は、ただの幼児ではないと、認識を新たにした。
一方で、アデライデの筆頭侍女ニコレは、驚きを抑えきる事ができなかった。
両手を口元にあて、目を丸くした驚愕の表情でしばらく固まった後、ジャン=ステラへと質問を投げかけてきた。
「そのような事まで神様は知識をお与えになったのですか」
「だめでしょう、ニコレ。 いくら驚いているとはいえ、あなたらしくもない。
ジャン=ステラに対して、不敬が過ぎますよ」
いくらニコレがアデライデの筆頭侍女だとしても、辺境伯家の一員であるジャン=ステラに不躾な質問は不敬のそしりを免れない。
その事に思い至ったニコレは、慌てて左足を後ろに下げ、すこし腰を落とした後、謝罪の言葉を口にした。
「も、申し訳ございません。ジャン=ステラ様、アデライデ様」
「ニコレ、僕は気にしていないよ。いつも実直にお母さまに仕えている姿を見ているもの。預言って言葉に驚いて、おもわず口に出ちゃっただけだよね。お母さまもニコレを許してあげてね」
仕方ないわねぇと、かるく肩をすくめたアデライデは、ニコレに許しの言葉をかけた。
「ニコレ、もういいわよ。ジャン=ステラも私もあなたを許します」
「それはそうと、生理の知識ってそんなに変かな。
聖書に『産めよ 増やせよ 地に満ちよ』という言葉があるでしょう?
健康な子供を産むために生理があるのだから、預言としてもおかしくないと思うんだけど」
人口を増やすための知識が聖書に書かれていてもおかしくいない。
そう思ったジャン=ステラは小首をかしげ、心底不思議そうに、生理について述べていた。
一方のアデライデとニコレは、その説明を顎が外れんばかりの驚きを顔に貼り付ていた。
「あれ? お母さまどうしたのですか?」
ジャン=ステラが水を向けると、堰を切ったような勢いでアデライデが話し始めた。
「あれではありませんよ。生理って妊娠と関係あるのですか?」
「当然ですよ、お母さま。逆に聞きますが、生理って何だとおもっていたのですか」
「生理って病気だと、聖職者は説いているのですよ」
女性は体の中に悪い血が溜まる原罪を抱えて生まれてくる。
そして排出された悪い血には毒が含まれているのだと、聖職者は教えている。
だから嫌な臭いがするし、悪い血が付いた皮膚が荒れる。
さらに、その血が畑に漏れたらワインが酸っぱくなるし、穀物は枯れる。
アデライデは教会の関係者から、そのように教わってきたのだ。
ジャン=ステラは「はぁ……」と大きく溜息をついた後、それはもう力いっぱい言説を否定した。
「その教会の教えは間違ってます」