イタリアの大地
1068年6月下旬 イタリア カノッサ城 ジャン=ステラ(14歳)
トリノのアデライデお母様から使者が到着した。
本当は執務室で書状を受け取り、ぱぱぱっと用件を終わらせたいところだけれど、正式な使者となるとそんなわけにはいかない。イタリア、そしてドイツの国内外に、トリノ辺境伯家からの使者がトスカーナ辺境伯にやってきた事を示さないといけないのだ。
「めんどくさいなぁ」と内心でこぼしつつ、マティルデと僕は礼装に着替え、大広間の玉座に座って使者を待つ。
ピエトロお兄ちゃんの活躍話だけだったら、アデライデお母様が正式な使者を送ってくるわけがない。きっと、何か重大な話が持ち込まれるのだろう。
ドキドキしていた僕の前に現れたのは、見慣れた顔だった。
「アメーデオお兄ちゃん!」
アルベンガで海軍の指揮を任せている次兄がアデライデお母様の使者としてカノッサに来たのだ。
驚きの声をあげた僕と違い、アメーデオお兄ちゃんは僕の声にウインクだけで答える。そのまま歩き続け、そしてマティルデと僕の前にひざまづいた。
「ジャン=ステラ陛下、並びに、マティルデ陛下。ご機嫌麗しゅうございます」
「う、うむ。くるしゅうないぞ?」
あーん、なんで語尾が疑問形になっちゃうのよ。
いつもフランクなお兄ちゃんに畏まられちゃったせいで、調子が狂っちゃったじゃない。もうっ!
「カナリア諸島副王アメーデオ・ディ・サヴォイア、本日はトリノ辺境伯アデライデ・ディ・トリノの名代としてまかりこしました」
それなのに、アメーデオお兄ちゃんは苦笑を顔にだすこともなく、真面目な表情のままお母様の書状を取次に渡した。
あとは取次から、丸められた羊皮紙を受け取れば謁見は終わり。
「うむ、返事は後ほどいたそう」
お兄ちゃんに対して、偉そうな態度を取るのは違和感ありありだけど、公式な場では仕方ないよね。
僕たちに一礼したアメーデオお兄ちゃんが形式どおりに退出していく。
その姿が扉の向こうへ消えるやいなや、マティルデがひそひそ声で僕を促してきた。
「書状の真意を聞くなら今よ。執務室へ」
僕もうなずき、そそくさと玉座から立ち上がった。
アデライデお母様の書状には「アメーデオの言葉が私の意思よ」としか書かれていなかった。
だから、これからが交渉の本番。アメーデオお兄ちゃんを使者として送り出したアデライデお母様が何を考えているかを知る必要がある。
トスカーナの諸侯が控える中、マティルデと僕は執務机に座り、執事に紙とインク壺を用意させた。
執務室の扉が控えめに二度叩かれ、静かに開く。
そこからアメーデオお兄ちゃんの肩の力が抜けた笑顔がひょこっと現れた。
先ほどの厳粛さは跡形もなく、普段通りの軽い口調の挨拶がとんできた。
「やぁ、ジャン=ステラ、元気かぁ?」
「敵に囲まれているんだよ、そんなわけないじゃん」
アメーデオお兄ちゃんの入室を緊張して待っていたのに、なんだかひどいよぉ。
僕は口をとんがらせて、ぶーぶーぶーってお兄ちゃんに文句を言った。
「ええっ! まじかぁ? ジャン=ステラなら笑って何とかしちゃってるかと思ったぜ。いざとなったら雷で敵を倒したり、地震を起こしたりするんだろ? 心配ないって」
お兄ちゃんが軽口を叩き、大笑いしてる。そして、吟遊詩人みたいに僕の思い出を語り始めた。
「聖剣セイデンキで雷を呼んで盗賊を追い払った、とか懐かしいなぁ」
「お、お兄ちゃん、それは……」
「ジャン=ステラって、クリュニー修道会にも喧嘩を売ってたもんな」
アメーデオお兄ちゃんにかかると、地震で修道院をいくつも破壊したんだったよな、なんて尾ひれがついて凄いことになっている。
単なる偶然の重なりでしかない過去のやらかしを、お兄ちゃんの口から聞かされて、僕の顔はきっと真っ赤っか。自分の黒歴史をご開帳されちゃったら誰だって恥ずかしいよね。
「そんな恥ずかしいことを言わないでっ!」って否定したくなっちゃうけど、自重する。
だって、お兄ちゃんの目が笑っていないんだもの。
僕が間違っていなければ、執務室に詰めているトスカーナ貴族たちに聞かせるため、士気を鼓舞するため、アメーデオお兄ちゃんは芝居を打っている。
「ジャン=ステラは預言者なんだろう。神は必ず我らに味方する!」
アメーデオお兄ちゃんは拳を振り上げ、執務室に詰めているトスカーナ諸侯に同意を求めた。
「諸君もそう思うだろう? 神のご加護はジャン=ステラと共にある、と」
呼応してマティルデが、自信たっぷりに声を張る。
「アメーデオ様、当然ですわ。ジャン=ステラは神に愛された預言者ですもの」
その声が終わると同時に執務室は歓声に包まれた。
「ジャン=ステラ様に栄光あれ!」「マティルデ様に栄光あれ!」「我らが主君に栄光あれ!」
なんだか安っぽい芝居だなぁ、と感じるけれど、これでさらに士気があがったのは間違いない。ということで、アメーデオお兄ちゃんの昔話作戦大成功!
三文芝居もこれでおしまいかな? そう思っていたらまだ続きがあった。
熱狂がひとしきり渦巻き、やがて拍手がパラパラとまばらになる。
その静けさの谷間を狙いすましたかのように、アメーデオが声量を落とした。
ささやくような小さな声で秘密を打ち明けたのだ。
「諸君、実は奇跡はもう起きている」
アメーデオお兄ちゃんがにやっと笑い、「続きを聞きたいか?」と周りを見渡す。
みんなの答えは当然一つ。「「もちろんです」」と異口同音の唱和が響く。
「ピエトロ兄ぃがシヨン城で敵を撃退したのは聞いているな?」
執務室の全員が大きく頷く。
アルプス北麓のシヨン城。レマン湖に面した要衝でトリノ辺境伯領最北端を守る重要拠点。
シュヴァーベン大公ルドルフと上ロートリンゲン公ジェラールに包囲されたが、ピエトロお兄ちゃんが撃退したとの報告を受けている。
「俺はピエトロ兄ぃから連絡を受けたんだがな、神の鉄槌が敵陣に振り下ろされたんだそうだ」
撃退した日の早朝、晴天にもかかわらず雷鳴が何度も何度も鳴り響いた。
どどーん、どがーん、という爆音がアルプスの山々に幾度となくこだまし、直後に拳大の石つぶてが鉄槌の雨となり、城を囲んでいたジェラールの頭上に降り注いだ。
天幕が潰れ、見張り櫓は倒壊、柵から逃れた軍馬が陣中を暴れまわる。
「神だ、神がお怒りだ!」
だれかが叫ぶと、その言葉は神への畏れとともに陣中へと波のように広がっていく。
その大混乱したジェラール軍に、豪胆伯ピエトロが突撃を敢行。
「神に代わりて悪魔を討つ!」
鎧袖一触、全ドイツ軍を蹴散らした。
アメーデオお兄ちゃんが言葉巧みに、シヨン城攻防戦について語ってくれた。
少数で城に籠るピエトロお兄ちゃんがドイツ軍に勝てたのは、神の加護があったからだと、トスカーナの諸侯たちを煽りに煽る。
そして、次の言葉で締め括った。
「諸君、もう一度言おう。神の正義は我らにあり! 暴虐のドイツ兵を我らがイタリアから追放せよ!」
アメーデオお兄ちゃんが拳を高く掲げ、呼びかけた。
「カエサルのものはカエサルに! そして問おう、イタリアの大地は誰のものか?」
刹那、床石を揺らす怒号が返った。
「「イタリア人のものだ!」」
石造りの執務室が震えるほどの歓声が渦巻き、士気は天井知らずに跳ね上がった。