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豪胆伯の噂

 1068年6月下旬  イタリア カノッサ城 ジャン=ステラ(14歳)



「シヨン城にて敵を撃退。守備成功。ピエトロ」


 ピエトロお兄ちゃんの勝利報告にカノッサ城は歓喜に包まれた。


 中庭で兵士たちが「ピエトロ様、万歳!」と叫び、塔の門番が陽気にラッパを吹き鳴らしている。

 兵士たちだけでなく、貴族たちも「豪胆伯ピエトロ様に乾杯!」と、昼間からお酒を引っ掛けている。


 城内はお祭りでも開催しているのかと思うくらい。元気を取り戻した兵士たちの声に続いて、お肉を焼く香ばしい匂いが執務室へ流れ込んできた。


 僕は微笑みつつ、中庭に面した窓をそっと閉めた。外の喧噪(けんそう)が遠ざかり、代わりに羊皮紙に染みついたインクの匂いが立ちのぼる。


「みんな、たまった鬱憤(うっぷん)を一気に晴らしてるんだろうね」

 お兄ちゃんの勝利に僕も嬉しい。でも、ほっとして、安心して、肩の力が抜けたというのが正直なところ。


「それはそうよ。四方を敵に囲まれていると思ってたもの。それが蓋を開けてみれば味方がいたうえに、その味方が敵を打ち破ったのよ」

 マティルデの声は軽やかだった。


 そうなのだ。お兄ちゃんの報告が来るまで、マティルデと僕は神聖ローマ帝国軍相手に孤軍奮闘しているつもりになっていた。

 僕たちは、まさかハインリッヒ四世率いるドイツ軍がトリノ辺境伯にも攻め込むだなんて思ってなかった。

「ドイツにはアホしかいないの?」

 トスカーナ辺境伯とトリノ辺境伯。北イタリアの二大勢力を同時に攻め込む二正面作戦なんて、どうして行えるのか。


「さぁ、離婚騒動を起こすようなお馬鹿さんが二人もいる国ですからね」

 おすまし顔のマティルデが、さらっと相手をこき下ろした。


 マティルデの言う二人とは、皇帝ハインリッヒ四世であり、シュヴァーベン大公ルドルフのこと。馬鹿につける薬があるのなら二人に飲ませてやりたい。

「まったく、離婚騒動に二正面作戦だなんて。どこまで考えなしなんだろうね」


 そう吐き捨てた瞬間、胸の奥で別の痛みが(うず)いた。


 ――それは、血を分けた二人の姉たちが、その愚策に翻弄(ほんろう)されている事実を思い出したせいだ。


「…………結局、とばっちりを受けたのはベルタお姉ちゃんとアデライデお姉ちゃんなんだよね」


 指先で机上の地図をとんと叩く。トリノの方角に置いた駒がかすかに揺れた。

 マティルデは静かにうなずき、視線を地図へ落とした。


「作戦の稚拙さを笑っていられるのも、今だけかもしれないわよ、ジャン=ステラ」


 それでも頭の上の重石(おもし)がすっと消えたようで、心も軽い。余裕が生まれると、不思議と状況も冷静に見えてくる。


「あれ? 二人の離婚相手はどちらもトリノ辺境伯家だよね?」

 ハインリッヒ四世が離婚宣言した相手は、ベルタお姉ちゃん。そしてルドルフの相手はアデライデお姉ちゃん。僕のお姉ちゃんだから当然トリノ辺境伯家が実家である。


「ジャン=ステラ、いまさら何を言い出すつもり?」

 マティルデが(いぶか)しげに僕の顔を覗き込む。


「今気づいたんだけど、なんでトスカーナ辺境伯に攻めてきてるの?」

 離婚だけなら、トリノ辺境伯にだけ攻め込めばいいのに。


「本当にいまさらの話ね」と、マティルデがため息をついた。

「ハインリッヒ四世がトリノ辺境伯に攻め込めば、ジャン=ステラはトリノに味方するでしょう?」


「そりゃ当然、全力で味方するよ」

 僕が生まれ育った実家だもの。


「だからよ」とマティルデがそっけない。


 トリノ辺境伯を攻めたらトスカーナ辺境伯も敵に回すことになるのは自明の理。だったら、最初から両者を敵に回せばいい。


 トリノとトスカーナの両辺境伯を敵に回しても勝てるだけの準備をしておけばいいだけのこと。


「実際、私たちは窮地(きゅうち)に陥っていたでしょう?」

「たしかにね」


 自嘲気味に返事をした。馬鹿二人にしてやられた僕たちも、馬鹿だった。そういうこと。


 とはいえ、窓の外から響く歓声に耳を澄ませば、ピエトロお兄ちゃん勝利の効果は疑いようもない。胸の奥が、じわりと温かい。勝利できる光明が見えてきた気がするのだ。


 最近は包囲されたという深刻な話ばかりだったから、雑談できる幸せを噛み締めつつ、僕たちの会話は次の話題へと移っていった。


「それにしても、ピエトロお兄ちゃんはどうやって勝ったのかな?」

 思わずこぼれた疑問に、隣で果実水の入ったコップを傾けていたマティルデが顎に指を当てた。


「撃退、と書いてあったのだから、きっと城から打って出たのでしょうね」

「ということは……」

「豪胆伯ピエトロ様ですもの。シヨン城を一人で飛び出し、ドイツ軍に突撃したのかもしれないわね」


 なにせピエトロお兄ちゃんは豪胆伯という二つ名を持つ豪傑なのだ。


 その名は、ハンガリー戦役での活躍に由来する。

 一万余の大軍を率いるハンガリー王ベーラに兵500で対峙した上に、さらに主将同士の一騎打ちに持ち込みこれを打ち破ったのだ。


「今頃現地では、『豪胆伯ピエトロ、ただ一騎で皇帝軍を撃退』という新たな武勇伝が増えるかもしれないわね。そうね例えば……

『彼の前に敵はなし。モーセが海を割るがごとく、ピエトロの進むところドイツ軍は二つに割れるのであった』

 なんてどうかしら?」


 さすがはピエトロ様よね、なんてマティルデがお兄ちゃんを()める言葉を聞いた瞬間、胸のあたりがチクッと刺さった。


 ……わかってる。僕にそんな大胆なまねはできないし、豪胆伯と僕を比べるほうが間違ってる。

 でもね、マティルデが他の男――しかも兄を称賛するのを聞くと反抗心が湧いて出ちゃう。


「べ、別に嫉妬してるわけじゃないけどさ。お兄ちゃん、ほんとは豪胆って柄じゃないんだよ?」

「え?」

「ハンガリー王ベーラとの一騎討ちだって、向こうが降伏の機会を探してた芝居だったって本人から聞いたもん。矢を一本だけ射かけて逃げる予定だったんだよ?」


 それにね、ピエトロお兄ちゃんはアデライデお母様には全く頭が上がらないんだよ。ほんとだよ。

 まぁ、僕たち兄弟はみんなそうだけどさ。ブルブル、お母様コワイ。



「ふふ、どちらにしても勝った事実は変わらないわ」

 力説する僕のほっぺたをマティルデが指先でツンと突く。


 うぅ……こっちの胸のムズムズが突かれたみたいで、思わず目を逸らしてしまった。


「はいはい、男の嫉妬はみっともないわよ、旦那様」

「う……わ、わかってるもん!」


 侍女のニナがクスクス笑いを漏らし、クラリスが「可愛い」と小声で囁くのが聞こえた気がする。

 ……いいんだ、僕だって男のプライドはある。今に見てろよ!


 ──そんな意地を抱えたまま、気づけば時があっという間に流れていた。


「トリノ辺境伯アデライデ様の御使者、到着!」

 勝利の報告から三日後の午後、城門の鐘が低く鳴り響いた。


 これでピエトロお兄ちゃんの活躍ぶりがわかるだろう。僕とマティルデは急ぎ礼装に着替え、いそいそと謁見室へ向かった。

日常回を書くのが楽しくて、気づいたら一話になっていましたw


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