四面楚歌
1068年6月上旬 イタリア カノッサ城 ジャン=ステラ(14歳)
『イタリア諸侯はただちにパヴィアへ参集せよ──応じぬ者は皇帝への叛逆と見なす』
昼過ぎ、そんな高圧的な勅命状が僕とマティルデの前に叩きつけられた。差出人は――「皇帝」ハインリッヒ四世。
「なにこれ……?」
胸がざわつく。まだ乾ききらないインクがわずかに滲み、紙面が波打って見えた。
すでに僕たちの領土であるベローナを攻めておいて、今更、宣戦布告のつもり?
「それが大義名分の後付けよ」
マティルデは頬を引きつらせ、指先で書状を軽く弾いた。紙がぱちんと鳴り、執務室に乾いた音が落ちる。
僕らが来ないと分かったうえで布いた罠、要するに「呼んだけど来なかったから討った」と見せたいわけだ。
マティルデは視線を書状から僕へと移し、静かに続けた。
「諸侯は建前に弱いのよ。情報が遅いから、整ったうそに簡単に騙されてしまうの。だからこそ大義名分が重要なの、わかる?」
「そういうものなのか……」
背もたれに沈み込み、ふと窓外の旗が揺れるのを眺める。――敵も味方も、風向きひとつで靡いてしまう。だからこそ建前が必要なのか。そう思うとため息が漏れた。
「じゃあ無視はダメってことだよね」
こんな腹立たしい勅命状、返事するどころか見るのも嫌なんですけど。
僕はわざと書状を放り、厚い羊皮紙が机に響く音で苛立ちを示した。
そんな僕にマティルデがピシャリと厳しい言葉を紡ぎ出す。低いながらも硬質な声。部屋の侍従たちが一斉に背筋を伸ばす。
「ええ、そうよ。無視は同意と同じこと。反論して挑発して、こちらにこそ理があると示す必要があるの」
羽根ペンを指先で弄びながら、マティルデは数拍の間、思案に沈んだ。
「そうね。ハインリッヒの弱点――帝位の僭称を突きましょうか」
ハインリッヒの皇帝位は、虚構なのだ。
諸侯は先帝の嫡男だから“皇帝”と呼んでいる。しかしながら教皇の戴冠を受けぬ限り、彼はドイツ王兼イタリア王に過ぎない。
それなのにハインリッヒ四世は、自分を皇帝だと自称した。マティルデはその点をつき、驕り高ぶりの極みだと非難すると決めたのだ。
「先帝の嫡男というだけで皇帝を名乗るのは、教皇猊下に対して無礼極まるわ。キリスト教の権威に対する挑戦でもあるわね」
マティルデの提案に基づき、僕は筆を走らせた。
《いまだローマ王にもなれぬ身で“皇帝”を名乗るとは、なんとも勇ましい。貴殿の僭称を正すべく、我らパヴィアへ参集す》 ――ジャン=ステラ/マティルデ
封蝋が固まる前に、伝令が書状を手に走り出す。僕は深く息を吐く。
――かくして外交戦が始まった。
それから二週間、僕らはひたすらに届く報告への対応に追われた。状況は、日に日に悪くなっていった。
1068年6月下旬 イタリア カノッサ城 ジャン=ステラ(14歳)
外交戦。この厳しさを、僕は甘く見積りすぎていた。
お金はある。商人ネットワークを通じたコネもある。蒸留ワインで貴族男性を骨抜きにしたし、トリートメントで上流階級の女性を虜にしてきた。
でもね。お金で時間は買えないのだ。
外交戦で一度後手に回ってしまうと、敵への対応で手一杯になる。今日、僕はそのことを嫌というほど味わうことになった。
「緊急連絡が入りました!」
鳩小屋番の伝令が、朝食中に駆け込んできた。手には小さな赤い筒。一目でわかる凶報の印だ。
口に入ったパンを慌てて飲み込み、僕とマティルデは報告を聞く姿勢を整えた。
オーストリア辺境伯エルンストがマントヴァを包囲。堤防を締め切り、お堀の水位を操作し始めたという。
『アルプスの雪解け水により、水位が徐々に上昇中。内応の誘い多数あり。城内食糧は1年分はあれども、早急の援軍を乞う』
マントヴァは、川の流れを利用した堅固な水城。そうそう落ちる城ではない。ただし、ベローナみたいに内応がなければ、という条件はつく。
「大丈夫よ、ジャン=ステラ。マントヴァにはてこ入れしてあるから、商人たちの裏切りはないわ」
「うん、そうだよね」
今はマティルデの言葉を信じることにする。あとはトスカーナの諸貴族たちと傭兵がカノッサ城に集まるのを待って、マントヴァを助けにいけばいい。
午前の知らせを処理する間もなく、新たな伝令が息を切らせて現れたのは、昼を迎えようとした頃だった。しかも立て続けに二件も。
伝令の悲痛な声が、食事をとっていた執務室に響く。
「ハンガリー王ソロモンの軍勢が、アクイレイア近郊に出現。西へと向かっています。帝国軍と合流を狙うと思われます」
北イタリアへ東側からハンガリー軍が攻めてきた。ソロモンはハインリッヒの妹婿だから、僕たちの敵。この調子なら一週間以内に、マントヴァへと到着するだろう。
僕たちがマントヴァに軍を送ったら、挟み撃ちされてしまうかもしれない。
北イタリアの状況が悪化した。その不安を口に出す暇もなく、再び扉が開かれ、南からの急使が慌ただしく入室した。
「グイスカルドが外環壁を突破、ビザンツ守備隊は市街へ後退。一年前の盟約に従い、至急の援軍を!」
援軍がなければバーリが陥落すると、ひざまづいて懇願する急使を前に、僕もマティルデもかける言葉がでてこない。
南イタリアで勢力を急拡大しているノルマン人ロベルト・イル・グイスカルドが、このタイミングでバーリを攻めてきた。
バーリとは、東ローマ帝国が唯一保持しているイタリア半島の根拠地。ここが落城すれば、東ローマ帝国は、イタリア半島での領地を全て失うことになる。だからこそ、使者が必死なのもうなづける。
しかし僕は返す言葉が見つからない。カノッサ城の執務室は真夏なのに冷たい汗で湿っていた。
「してやられたわね。だれが計画したのか知らないけど、囲まれてしまったわ」
豪胆なマティルデも、流石に青い顔をし、苛立たしそうに親指の爪を噛んでいる。
西にハインリッヒ四世。北にオーストリア辺境伯エルンスト。東からハンガリー王ソロモンで、南にノルマン人ロベルト。
――四面楚歌。それでも日付は進んでいく。しかも悪い方へと。
数日後には、実家のトリノ辺境伯領にもドイツ軍が攻め寄せてきたとの報告を受けた。
アルプスの北側の拠点であるシヨン城が、シュヴァーベン大公ルドルフと上ロートリンゲン公ジェラールに包囲されている。
「ルドルフ?! アデライデお姉ちゃんの旦那じゃない!」
トリノのお母様から連絡を受けた時、僕は驚きを隠すことができなかった。いくら離婚騒動が持ち上がっているとはいえ、義理の息子が、嫁の実家を攻めるなんて信じられなかったのだ。
さらに、ハンガリー王ソロモンの情報が、商人たちからもたらされた。
ハンガリーの通行特権と関税免除を約束することでヴェネツィア貴族の援助を引き出したとのこと。
イタリア半島の東側、アドリア海の海運を独占しているヴェネチア。その巨大な交易都市が敵方へ傾いた。それはお金を使って味方を増やすという算盤作戦を、敵に実行されてしまったことを意味する。
マティルデは唇を噛み、「銀貨の重さは剣より鋭いわね」と呟いた。
さらに数日後、ローマに赴いていたアデライデお姉ちゃんからの書状が届いた。
良い知らせでありますように、と祈る気持ちで封蝋を開いた。
しかし離婚審理の進捗報告はゼロだった。
同時に送られてきたクリュニー院長ユーグの副署が付いた覚え書きには次のように記されていた。
《皇后ベルタ、陛下ハインリッヒ四世、シュヴァーベン大公ルドルフにも陳述の機会を与えるべし。公平のため、遅延はやむを得ず》
要するに「全員の言い分を聞くまで審理しない」ということだ。
ユーグはハインリッヒ四世の代父。その深い繋がりを考ればその狙いは明白だろう。
遅延戦術。
教皇が離婚騒動に白黒をつけるまでの時間を稼ぎ、その時間で僕たちを武力で圧倒するつもりなのだろう。
マティルデが手紙を握りつぶした。「教皇庁を味方に出来ないとしても、せめて中立を保ってほしかったわね……」
夜。燻るロウソクを囲みながら、僕らは地図の上に赤い駒を置いていった。
西=ハインリッヒ本隊、北=エルンスト、東=ソロモンとヴェネチア、南=グイスカルド。 それぞれの補給路、商人支持、教会の後押しを線で結ぶと、トスカーナ領は絞首縄の中心みたいに見えてくる。
「動ける兵は八千弱。銀貨は潤沢だけど、ヴェネツィアが敵に回った今、ポー平原での物資調達が滞るわ」
マティルデの言葉に、僕は頭を抱えるしかない。 東西南北を敵に囲まれていて兵力が足りない。お金があっても、これ以上は雇える傭兵がいない。
兵を送ってどこかを助けるということは、どこかを見捨てることに繋がりかねない。
それでも何か手を打たねば、包囲が日に日に狭まるだけ。
深夜、誰もいない書庫で僕は古い羊皮紙を広げた。アルベンガで爆発騒ぎを起こしたときの火薬帳だ。
もしあの時、死者が出たことに僕がためらわず、大砲を開発していたら……。
マントヴァ包囲網を吹き飛ばし、バーリへと援護射撃を送り込めたかもしれない。
だけど現実は、火薬の原料となる硝石はなく、大砲の砲身を作るだけの鉄もない。アルベンガで大量の鉄を作る方法を発明したのに、トスカーナに持ってこなかった。
蒸留ワインとトリートメントだけでは、ドイツの前に無力だった。
――お金だけじゃだめだった。新大陸を発見しても、トマトを手に入れても、自分の身を守れなければ、意味がなかった。
ロウソクが短くなり、黒い煙が揺らいだ。書庫を後にする僕の足取りは重かった。
明日までに手を打たなきゃ。火薬より速く、銀貨より鋭い――そんな一手を。
だが、そんな手はあるのだろうか……。
眠れないまま朝日を迎えた僕の耳に、廊下の奥で鉄靴が石を叩く音が聞こえてきた。
「トリノから伝書鳩です!」
伝書鳩塔の伝令が、鳩の運んできた小さな紙片を僕に差し出してくる。
そこに書かれていたのは......
「シヨン城にて敵を撃退。守備成功。ピエトロ」