ハインリッヒ来襲
1068年5月下旬 イタリア カノッサ城 ジャン=ステラ(14歳)
「ベローナが敵の手に落ちました!」
ばさり。──机の上の羊皮紙が何枚か、床に舞った。
伝書鳩が運んだ巻簡を、若い伝令が震える指で開封したその瞬間。執務室の空気が、凍った石みたいに固まった。
窓の外では、初夏の陽射しが城壁を金色に染めている。つい昨日まで、僕はこの光景を眺めながら「そろそろトマトの苗を植えなきゃ」なんて呑気に考えていたのに。
それが、どうしてこうなった。
アルプスへと続く峠道から雪が消えた途端、皇帝ハインリッヒ四世率いるドイツ軍が雪崩れ込んできた。そこまでは想定内。
でもイタリアの玄関口であるベローナがたった一日で陥落するだなんて。いったい誰が想像しただろう。
「……早すぎるよ」
口をついた独り言が、思いがけず大きな音で転がった。
隣で地図を押さえていた書記官がぴくりと眉を上げたけど、気にしていられない。
僕は構わず、机上のイタリア地図へ身を乗り出した。
カノッサから北へ、パルマ、モデナ、マントヴァ、ブレシア──そしてブレンナー峠にいちばん近い要衝、ベローナ。そこに真紅の駒がぽんと置かれた。駒の色は敵軍を示している。
「イタリアは籠城戦に強いんじゃなかったの!!」
常識がひっくり返った驚きに、思わず声が裏返ってしまう。
騎馬のドイツは平地で速攻、弩のイタリアは石造りの城壁と水堀で粘って敵を消耗させる。お手本どおりなら、攻め手のほうが飢えるはず。
それが鎧袖一触。
これじゃカエサルの Veni, vidi, vici を逆再生しただけ。「来た・見た・負けた」
まったくもって笑えない。
ちらりと視線を巡らすと、マティルデが腕を組み、湖面みたいに静かな瞳を細めていた。普段は表情を崩さない彼女だけど、その拳が膝上でわずかに震えているのを僕は見逃さなかった。
「詳報は?」
マティルデが低く問う。伝令は唇を噛み、続く行を読み上げる。
「……『城門は夜半、内側より開いた形跡あり。抵抗らしい抵抗なく制圧』――と」
内側から……。その一語が、室内の温度をさらに数度下げた。
背筋にぶるりと寒気が走る。裏切り。金か、脅しか、それとも──。
いやそれよりも、まずは現状を把握しないと。
(まずい……。峠をふさぐ最後の重石が外れてしまった)
ベローナを経由すれば、皇帝軍は北イタリアのポー平原を南へ滑るように進める。パヴィアへ腰を据えられたら持久戦は必至──そんな軍事の公式が、頭の中で計算されていく。
視界の端で、マティルデがそっと溜息を漏らした。
「ジャン=ステラ」
マティルデが僕を呼ぶ。僕はハッとして彼女を見た。氷の声、でも瞳の奥に炎。
「……泣き言は後よ。今は現実を見ましょう」
「了解! まずは事実確認だね」
……トマトどころじゃない。でも嘆いてる暇はない。帝国軍が次の駒を進める前に、僕らも一手──いや二手先を打たなきゃ。
机上の地図を睨みつける僕の拳に、汗が滲んでいた。
──まずは偵騎を走らせて、詳細を掴まなきゃ。ピザが食べられなくて嘆くのはそれからでいい。
そう腹を括ったところで、窓外の陽はすでに西へ傾いていた。
◇ ◇ ◇
翌朝。まだ夜明けの冷気が城壁に貼りつくころ、東門の見張り台が短い角笛を鳴らした。
砂埃にまみれた軽騎士が中庭へ滑り込み、鞍から身軽に跳び降りるのが見えた。革鞄を抱え、石畳の回廊を駆け上がり――軍議室の扉がドンドンと叩かれた。
扉が開くと同時に、かばんに吊した銀鈴がしゃらんと澄んだ音を立てた。
「詳報を携え戻りました!」
兵装も整えぬまま、若い騎士が膝を突く。鞄から取り出した封書は、昨夜の伝書鳩が運んだ羊皮紙よりずっと分厚い。蝋封には赤百合の浮き彫り──ベローナ参事会の公印。
マティルデが目で促し、僕は封印を割った。中には数枚の書簡。そこには信じがたい文言が並んでいた。
・ ベローナ市参事会および商人組合、皇帝軍と協約締結
・ ゴットフリート三世の調停を受諾、城門ポルタ・ボルサーリを開放
・ 見返りとして税免除・自治権直認
昨夜の悪夢に〈理由〉という刃が刺さった。
「……商人が門を開けた、ってことか」
かすれた声が自分のものであることを確認するまで、一拍かかった。
そしてゴットフリート三世──追放された元トスカーナ辺境伯。僕に対する恨みで動いたのだろうか。
僕は地図でベローナから街道を北へ、アルプスへと指を滑らせる。そこはハインリッヒ4世が喉から手が出るほど欲しかった交通路。
峠を抑えるか否かで、物資はもちろん、情報伝達の速度が天地ほど違う。イタリアにいる皇帝がドイツを遠隔統治するには、ここが生命線となる。
マティルデは短く息を吐き、硬い声で言った。
「皇帝はこれでパヴィアへ腰を据えられる。長期戦になるわね」
パヴィアはロンゴバルド王以来の戴冠都市。北街道とポー川水運が交差する帝国の補給基地でもある。そこを押さえられた今、皇帝はイタリアで好き放題に行動できる。
「……じゃあ僕らは短期での決着をめざす?」
「いいえ、まず商人の算盤を狂わせましょう。銀貨で開いた門なら、銀貨で閉じさせられるわ。ジャン=ステラ、あなたの得意分野でしょう?」
彼女の瞳に宿る炎が、昇り始めた陽光を受けて揺れる。僕も拳を握り直した。金だって扱い方しだいで立派な武器になる。
「任せて! 蒸留ワインとトリートメントで築いた資金と人脈、全部注ぎ込むよ。
パヴィアの喉を乾かして干からびさせてやる」
マティルデがわずかに口角を上げる。その笑みは研ぎ澄まされた短剣の光。
「それと──ゴットフリートへの蒸留ワイン供給も忘れずに止めておいて。あの人、あれがないと夜眠れないみたいだから」
最後の一言に、僕は苦笑しながら深くうなずいた。
まだ大丈夫。こちらには一晩で蘇った執念と、折れていない算盤がある。
さぁて、銀貨の流れごと、皇帝の喉笛を締め上げちゃえ!




