お姉ちゃん来訪
1068年4月上旬 イタリア フィレンツェ ジャン=ステラ(14歳)
ドイツの帝国会議で皇帝ハインリッヒ四世とルドルフが二つの離婚を布告してから、はや三か月が過ぎた。
だが冬のあいだはアルプスが壁となり、ドイツとイタリアの往来は途絶える。ブレンナー峠もグラン・サン・ベルナール峠も深い雪に閉ざされ、詳報はフィレンツェになかなか届かなかった。
その間に判明したのは二つだけ。第一に、皇后ベルタ姉上がロルシュ修道院へ幽閉されたこと。第二に、シュヴァーベン公妃アデライデお姉ちゃんが故郷のトリノ辺境伯領へ戻ったことだ。
しかも、この離婚劇はお姉ちゃん達ではなく僕を標的にした策略だという不穏な噂まで囁かれていた。
アデライデお姉ちゃんは、夫のルドルフより「従兄ヴェルナー伯との密通」を理由に離縁を突き付けられたという。
お姉ちゃんは『不義など覚えがない!』と震える筆跡で僕に訴えてきた。
雪解けを待たずブルクント王国を抜けて帰国したのは、ローマで教皇アレクサンデル二世の御前裁定を仰ぎ、婚姻の有効を証明するため。
『聖職・諸侯の大半は私の味方なの。教皇猊下も必ずや私の正義をお認めになるわ』
そのアデライデお姉ちゃんが――いま、僕の目前に立っている。執務室へ踏み込むなり緋のマントを翻し、開口一番、
「ジャン=ステラ、あなたはお姉ちゃんの味方よね? 息子たちを取り返すのに手を貸して!」
僕より早く結婚したお姉ちゃんには、すでに子供が4人もいる。全員をドイツのラインフェルデンに残してきたままだ。
母がイタリアで、子供たちがドイツ。ドイツに子供を残して来ざるを得なかった。その苦悩を思うと、胸が締めつけられる。
だから、僕の答えは最初から決まっていた。
「当たり前だよ。お姉ちゃんは家族なんだから!」
お互いに結婚しちゃったけど、同じ子ども部屋で枕投げをした仲だもの。僕は全力でお姉ちゃんを助けるよ。
ただ、問題は手段なんだよねぇ。
僕の本音を言えば、すぐにでもドイツに乗り込み、皇帝ハインリッヒ4世とシュヴァーベン大公ルドルフの襟首をつかんで締め上げたい。
でも、残念なことに、四月のアルプスは融雪と泥濘で軍勢の行進を許してくれない。雪はとけつつあるけれど、道がドロドロだし、馬が食べる草も生えていない。暖かくなるまではドイツへ兵を送ることは不可能だ。
そして、もっと残念なことにイタリア軍はドイツ軍より弱い。
アルプスの北にはミニステリアーレとか言う戦意旺盛な騎兵がたくさんいて、野戦になれば傭兵主体のイタリア勢はひとたまりもない。平地でぶつかれば、あっという間に蹴散らされてしまうだろう。
お姉ちゃんに威勢のいい言葉を返したものの、いざ行動に移そうにも妙案が浮かばない。
だったら、当事者に聞くのが早いよね。
「アデライデお姉ちゃん、まず何から始めればいい?」
少し前までドイツにいたお姉ちゃんの方が、僕よりもずっと情勢に明るいはず。わざわざフィレンツェまで来たんだもの。何かいい案を持っていると期待してみる。
「そんなに申し訳なさそうな顔をしなくてもいいのよ、ジャン=ステラ」
アデライデお姉ちゃんは僕の手を握り、穏やかに言葉を続けた。
「ドイツ兵の強さは私も身に染みているもの」
アデライデお姉ちゃんはシュヴァーベン大公妃として、ラインフェルデンの街に長年暮らしてきた。瞼を伏せ、当時を思い返すように微笑む。
「寒い冬で鍛えられたドイツ馬の脚力は、イタリアの馬とは別種と言っていいわ。騎兵の衝撃力がまるで違うのよ」
理屈は理解できる。でも聞けば聞くほど胸が重くなってしまう。
ーーやっぱり勝ち目は薄いんじゃ……
その言葉に沈みかけた空気を、マティルデが「ぱんぱん」と手を叩いて断ち切った。
「はいはい、ジャン=ステラも、アデライデ様も落ち込むのはここまでよ」
もしかしてマティルデならいい案を持っているのかも。
アデライデお姉ちゃんと僕は、マティルデを期待の眼差しで見た。
「マティルデならハインリッヒ率いるドイツ軍に勝てる?」
「そんな都合のいい話はないわよ」
「ああ、やっぱり」
マティルデでもだめかぁ。期待した分だけ、がっかりしてしまう。
「まったく、ジャン=ステラ。しっかりしなさいな。イタリアの方が優れている点もたくさんあるでしょう?」
イタリア兵は籠城したら強い。騎馬は少ないけど飛び道具のクロスボウがたくさんある。さらには、ギリシアの火を使った火炎瓶もある。
「それだけじゃないわ。職人たちの技術力と、市民傭兵団の素早い集兵力もある――籠城戦なら決して劣らないの。
攻めのドイツと守りのイタリア。どちらが強いというわけじゃないわ」
たしかにマティルデの言うとおりなんだけど……。
「僕は一刻も早く、お姉ちゃんの子供たちを取り返したいんだもん」
そのためには、ドイツに攻め込む必要がある。守りが強いだけじゃダメなのだ。
むっとしてマティルデに食ってかかったけれど、マティルデは駄々っ子をあやすように僕をたしなめる。
「そうね、ジャン=ステラの言うこともわかるわ。まずは交渉から始めましょう。アデライデ様もそのつもりですよね」
「ええ、マティルデ様の言うとおりです。教皇猊下に仲裁をお願いするためにイタリアに戻ってきたのです」
言い終えた瞬間、お姉ちゃんの頬がわずかに色づいた。そのわずかな紅潮が、窓辺の光に浮かび上がる。
たぶん――僕の前で感情を表にだしてしまった自分を思い出したのだろう。ドイツでは公妃として毅然と振る舞ってきた人だもの。弱みを見せたことが、少しだけ恥ずかしかったんだと思う。
「では、私から教皇猊下と枢機卿の方々へ書簡をお届けしましょう」
これでも方々に伝手はあるのですよ、とマティルデが柔らかく微笑んだ。
その自信には確かな裏付けがある。
教皇アレクサンデル二世はミラノ近郊の出身で、かつてルッカの司祭を務めたトスカーナゆかりの人物だ。そして右腕と称されるイルデブラント枢機卿も同じトスカーナの生まれ。ローマで彼らと渡り合える貴族は、マティルデを措いてほかにいないだろう。
「マティルデ様のお力添え……これほど心強いことはございません。心より感謝いたします」
アデライデお姉ちゃんが深く頭を下げ、僕も胸をなで下ろす。
さすが、マティルデだ。思わず惚れ直してしまいそうになっちゃう。 ――いやいや、感心して見とれている場合じゃなかった。
「僕にはマティルデほどのコネがないから、お金を出すね。たくさん出すから、いっぱい買収できるよ」
イルデブラントなら僕たちに協力してくれるだろう。資金があれば裏方の折衝も進む――そう踏んでいたのだけれど、アデライデお姉ちゃんに軽くたしなめられちゃった。
「ジャン=ステラ、その言い方は不敬ですよ。買収ではなくて、寄進でしょ!」
「はーい、善処しまーす」
失敗、失敗。言葉をオブラートに包むことを忘れてた。
慌てて頭をかくと、マティルデとお姉ちゃんが目を合わせて小さく笑った。
こうして会談は静かに幕を閉じた。 封をした教皇あての書簡と、巾着に詰めた金銀を抱えたアデライデお姉ちゃんは、夜明け前の石畳を馬車で発ち、一路ローマへ向かった。
――どうか、この離婚騒動が一日も早く収まりますように。
祈りのことばは白い吐息に変わり、開け放った窓を抜けて春霞の空へと吸い込まれ……
「そんなわけあるかー!」
ぱしん、と丸められた羊皮紙が僕の頭頂を打った。視界が一瞬で現実に引き戻される。
「現実を見なさい、現実を!」
アデライデお姉ちゃんがフィレンツェを出立してすぐ、マティルデのツッコミが炸裂した。――って、いつの間に大阪名物ハリセン突っ込みをマスターしたの!?
ハリセンとして使われた羊皮紙を机に置いたマティルデが、舞った埃を手で払った。
「さて、本題に戻りましょう。まず、あなたの疑問を聞かせて」
促しに肩を押される形で、僕は口を開く。
「まさか教皇が離婚を認めるんじゃ――」
「認めないわ」
間髪入れず、マティルデが首を横に振る。
「ただ、裁定には時間が必要よ。その“空白”を狙ってハインリッヒとルドルフは動くでしょう。教皇令が届く前に兵を南下させ、既成事実で押し切る」
真っすぐ僕を見据え、ひと呼吸置いて告げた。
「標的はあなたよ。黙らせる口実に離婚騒動を利用する」
(やっぱり……僕を消すためなら手段は選ばないってことか)
「だから現実を直視して、手を打たないといけないの」
マティルデの声が静かに刺さり、背筋に冷たいものが走った。
史実でも1068年ハインリッヒ4世が、1069年にルドルフが離婚宣言をしています。
両者の嫁は、トリノ辺境伯アデライデ・ディ・トリノの次女と長女。
当時のドイツでは、北イタリアの雄であるトリノ辺境伯家との縁を断ち切りたい事情があったのでしょうが、この姉妹が不憫なのです。酷いと思いませんこと?




