第272話 帝国会議の離婚宣言(その2)
1068年1月公現祭 ドイツ・ヴォルムス王宮 ゴットフリート3世(63歳)
――お前の一言で、どれほどの血が流れるか……。神の裁きが下るその時まで、せいぜい夢を見ているがいい。
壇上で声高に離婚を宣言した若き皇帝ハインリッヒ四世。その言葉が、まるで湖に石を投げ込んだように、会議場に波紋を広げていく。
会議場の左手にある諸侯の列。その最前列に腰掛けていた俺は、笑いを噛み殺すのに苦労していた。なにせ、この火種を仕掛けたのは俺なのだ。
ハインリッヒは本気だ。だが、その必死な真顔こそが、俺には何より滑稽に映る。
喜劇はまだ幕が上がったばかり。せいぜい最後まで、俺の脚本どおりに踊ってもらおうじゃないか。
壇上で、誇らしげに演説を終えた若造――ハインリッヒの顔を見やり、俺はゆるゆると会場へと視線を移した。
諸侯たちは茫然とし、口を半開きにしたまま、まるで時が止まったかのように壇上を見上げている。聖職者たちは凍りついたように、背筋を伸ばしたまま微動だにしない。
……だが、何より興味深かったのは、壇上のマインツ大司教ジークフリートの顔だろう。
ハインリッヒの離婚宣言に、まずは顔から血の気が引いた。次の瞬間には、怒りを堪えきれずに、こめかみが赤く染まる。
信仰に生きる大司教として、皇帝に口を挟むべきかどうか――迷いと葛藤が、深みを増した眉間の皺にすべて表れていた。
いや、違うな。神と皇帝、その両方に忠義を誓う男が、引き裂かれそうになっていた。あれが、忠臣の苦悩というやつだ。……実に見応えがある。
それでもジークフリートは、大司教としての威厳を崩さなかった。そのことは賞賛に値する。
やがて決意を固めたのか、ジークフリートはゆっくりと息を吸い込んだ。感情を抑えた低く重たい声が、石造りの会場に響き渡る。
「……ハインリッヒ陛下」
――さあ、どうする?帝国の忠臣として黙認するか、神の代理として皇帝を諌めるか。俺はどちらでも構わぬぞ。いずれの筋書きも、用意してある。
帝国議会を取り仕切っていたジークフリートは、すべての視線を一身に受けながら、静かに壇の中央へと歩み出た。
「婚姻とは、神の御前で誓われし神聖なる契約であります」
低く、しかし確かに通る声で、彼は言葉を紡ぎ続ける。
「神の祝福を受けて結ばれた夫婦の絆を、いかな皇帝陛下とて己の言葉ひとつで断ち切ることなど――許されてよいはずがありません」
ジークフリートは、帝国ではなく神を選んだ。会議場の空気が、再び張りつめていくのがわかる。
その緊張が、俺には心地よくてたまらなかった。椅子の背に体を預け、腕を組んだまま、俺は静かにその様子を見守っていた。
ジークフリートのような男には、同情すべきなのかもしれぬ。
己が仕える皇帝が、神の意に背こうとしている――その皇帝を前にして、あえて忠義より信仰を選んだのだ。皇帝の不興は、避けられまい。
マインツ大司教の地位など、実際のところ皇帝の一存で決まるものだ。これで、ジークフリートの失脚は確定だろう。
(お前の十字架は、重かろうな……)
「神は、離婚を許されませぬ。陛下におかれましても、その御心を、いま一度、御再考あらんことを」
苦悩に顔を歪めながら、ジークフリートは皇帝に深く頭を垂れた。まるで舞台の上で、すべての悲劇を一身に背負う役者のようだった。
喜劇役者のハインリッヒと、悲劇役者のジークフリート。壇上で二人は、無言のまま睨み合っている。
――どちらも、俺に言わせれば三流役者だな。
滑稽な沈黙だったが、それすら長くはもたなかった。
最初は、誰かの小さな咳払いだったかもしれない。あるいは椅子の脚が石床を擦る音だったか。だが、そのささやかな音が火種となって、場の空気が一気に崩れた。
右手、聖職者席の方から、微かな囁きが漏れはじめ、それはやがてざわめきへと変わっていく。
「離婚だと? 皇帝が……?」「神への誓いを破るのか?」「皇后は……処女と? なんという……」
一方、左手の諸侯席では、より低く、より荒々しい声が飛び交いはじめていた。
「おい、本気か? 即位したばかりの皇后を追い出すだと?」「跡継ぎができぬ? ……いや、それにしても言い方があるだろう」
「政治だ。これは感情ではない、政略だ」「ご母堂のトリノ辺境伯アデライデ様が黙っていると思うか?」「……戦になるぞ。帝国全土を巻き込む、大きな戦だ」
俺は片眉をわずかに上げ、会場のざわめきをじっと観察していた。いいぞ。いいぞ。もっと騒げ。もっと取り乱せ。
整然としていたこの議会に、ようやく血が通ってきたではないか。
規律だけを保った無機質な座席列、口先だけの忠誠、神の名を盾にした空疎な議論――
そうした虚飾が、いままさに音を立てて崩れはじめている。
こうでなくては、始まらん。人は混乱の中でこそ、本音をさらけ出し、血と欲と誇りを剥き出しにするのだ。
かつての俺がそうであったように――これで、ベルタも帝国の「現実」を身をもって知ることになる。
この帝国では、神も正義も空虚だ。聖職者たちは神の名を唱え、諸侯たちは家の名誉と利得の計算に走る。そのどちらもが、結局は自らの保身と利益のために動いているにすぎぬ。
――いいか、ベルタ。お前は今、皇后の座から滑り落ちつつある。神も、諸侯も、誰も手を差し伸べてはくれぬぞ。
いや、ジャン=ステラは、ジャン=ステラだけは手を差し伸べるだろう。
身内に甘いあいつなら、姉を見殺しにはすまい。敵ではあるが、そういう甘さが、あいつの唯一の弱点だ。俺はそう確信している。
……そうでなければ、この筋書きは成り立たぬ。崩れるのは、俺の側だ。
ああ、憎きジャン=ステラよ。トスカーナ辺境伯の地位を、イタリアの富を、そして俺の誇りを――貴様はすべて、奪い取っていった。
許さぬ。必ずや復讐してやる。
ベルタの身柄を餌に、ジャン=ステラをドイツの地に誘い込む。そして戦場で、その息の根を止めてやる。
俺も、もはや若くはない。
トスカーナを追われてからというもの、この時を夢に見ぬ夜はなかった。
これが最後の機会。逃してなるものか。
この一矢を放たずに、俺は死ねぬ。
それこそが――俺という男が、まだこの世にとどまっている理由だ。
さて。帝国会議も、ようやく良い具合に混沌としてきた。次の役者に、そろそろ出番を知らせてやるとしよう。
隣席の男――シュヴァーベン大公ルドルフに、小声でささやく。
「貴殿の番だ、ルドルフ公。用意はよいか?」
「ああ、まかせておけ」
ルドルフが大きな体を揺らし、壇上へと歩み出ていく。俺はその背中を、静かに見届けた。
「聞け、諸侯たちよ!」
一瞬だけ目を伏せ、息を整えたルドルフは、顔を上げてその言葉を高らかに告げた。
「我、シュヴァーベン大公ルドルフは宣言する。
妻アデライデ・ディ・サヴォイアと――離縁する!」
ルドルフが離縁を宣言したのも史実です。
詳しくは次話にて。