第270話 チチェン・イッツア
1067年7月中旬 イタリア フィレンツェ ジャン=ステラ(13歳)
窓から差し込む真夏の光が、執務室の石床でまぶしく跳ね返る。その光を横顔で受けながら、マティルデがそっとため息をついた。
さっきまでの議題は、教科書のギリシア語訳にクレームをつけてきた教皇庁への対応だった。
今度は「問い合わせ」と言い方こそ控えめだが、厄介ごとなのは間違いない。何より、マティルデの心底いやそうな表情がすべてを物語っている。
それにしても、イッツァってどこだろう。人の名前と言われても「ふーん」と流してしまうくらい馴染みがない。
首をかしげていると、マティルデが丸めた羊皮紙を開き、いつもよりも低い声で読み上げた。
「イッツァは本当に『新大陸』からの使者なのか」
――新大陸?!
言葉が胸を貫き、思わず椅子から腰が浮いた。
「えっ、新大陸の使者が来たの? どこにいるの? どうやってイタリアまで来たの?!」
自分でも驚くほど声が裏返る。
もしかして僕以外にも記憶を持った転生者がいたってこと?!
その人は新大陸に生まれ落ち、僕と同じように大西洋横断にチャレンジしたの?
胸が高鳴る。同じ転生者なら協力できることはたくさんあるはず。
ジャガイモが手に入るかもしれないし、知らない料理やレシピを教えてもらえるかもしれない。
興奮で身を乗り出した僕に、マティルデが疲れたような声を投げた。
「……やっぱりね。ジャン=ステラ、あなたエイリークの報告を聞いてなかったでしょう」
マティルデの鋭い視線に射抜かれ、僕の体から興奮の熱が引いていく。
「エイリークの報告? トマトの種の話は覚えてるけど、それ以外に何かあった?」
マティルデはこめかみに指を当て、小さくため息を漏らした。
「あなた、その場にいたのに上の空だったものね。エイリークは二年間の航海を説明していたわよ」
うぅ、トマトの報告で興奮したこと以外、まったく記憶がないや。
だって、イタリア初のトマトなんだよ? ほかの話なんて耳に入るわけがないのも当然だよね。
うん、僕は悪くない。
気を取り直し、マティルデに報告の内容を教えてもらうことにした。
「エイリークはトマトの種以外にも、大切な報告をしていたのよ」
マティルデは指を折りながら、ゆっくりと教えてくれた。
一つ。キューバ島に拠点を築き、周辺を探検したこと。
一つ。メキシコのユカタン半島で都市・イッツァを発見したこと。
一つ。そして、エイリークがそのイッツァから使者を連れてイタリアへ戻ってきたこと。
「その使者が、今ピサに滞在しているの。ここまでは理解できた?」
なーんだ、エイリークが連れてきてたのか。
イッツァの使者は転生者なんかじゃなくて、ただの「発見された新大陸の住民」
自力で大西洋を渡ってきたわけでもないし、ジャガイモの夢も、新しいレシピの期待もこれで終了。
ちぇっ。転生者仲間ができるかもって、ちょっとだけ本気でワクワクしちゃってたんだよね。
なんだか驚いたぶんだけ損した気分。……まぁ、そんな都合のいい話、あるわけないか。
がっかりした僕は、ため息をごまかすように、静かにうなずいた。
急に現実に引き戻された気がして、肩の力がふっと抜けた。
使者たちは、ピサで礼儀作法とラテン語を勉強しているとのこと。
エイリークの言い分はこうだ――
「礼儀に疎く、言葉も話せない者をジャン=ステラ様に謁見させるわけにはいきません」
……いや、まぁ、言いたいことはわかるけどさ。
外交儀礼ってほんと面倒だよね。こっちはただ、「こんにちは!」って笑顔で手を振れれば、それで十分だと思うんだけど。
そんなことをぼんやり考えているうちに、ふと一つの疑問が浮かんだ。
エイリークが自分で連れてきたってことは、イッツァがユカタン半島、つまり新大陸にあるのは間違いない。
なら、どうして教皇は、わざわざ「本当に新大陸から来た使者なのか」なんて疑ってるんだろうか。
その疑問には、マティルデが答えてくれた。
「ピラミッドがあったと、エイリークが報告したからよ」
「どこに?」
「イッツァに決まってるじゃない」
思わず目を瞬いた。
ピラミッドって……え、あれってエジプトの名物じゃないの?
「なんでピラミッドがメキシコにあるの?」
「そんなの私が知るわけないじゃない」
僕の率直な疑問に、マティルデが肩をすくめながらも自身の推測を話してくれた。
「でも、その噂を聞きつけた教皇庁はこう考えたんでしょうね。
『イッツァにピラミッドがある? それならそこはエジプトではないのか!』って。
で、結局、エイリークの“新大陸発見”はでたらめだったんじゃないかって、疑い始めているのよ」
ああ、なるほど。ピラミッドといえばエジプト、って連想かぁ。
確かに、新大陸を知らない人からすれば、そう考えるのも無理はないのかも。
でも、それって、あまりにも短絡的すぎない?
「ピラミッドがあったからエジプトです、って……こどもの連想ゲームじゃないんだから」
思わず口に出していた。けれど、それくらい呆れていたのも事実だ。
ピラミッド=エジプト、ってのはまあわかる。けど、エイリークがわざわざ大西洋を越えて連れてきたのだ。
イッツァがユカタン半島、つまり新大陸にあるのは確実なのだ。
「そもそも、エイリークはトマトの種まで持ち帰ってきたんだよ。新大陸以外のどこでトマトの種を拾って来たっていうのさ」
そう。トマトの原産地は新大陸。それが何よりの証拠だ。
ピラミッドがあろうがなかろうが、イッツァは新大陸にある。
偶然、似た建物があったってだけの話しでしかない。
「ごちゃごちゃ言われたって、イッツァは新大陸。それは真実だよ」
僕はそう言い切って、マティルデを見る。
彼女は少し考え込んだあと、静かに言った。
「教皇庁はジャン=ステラを預言者だと認めたくない、あるいはジャン=ステラから何らかの利益を引き出したいのかもね」
教皇庁は、自分たちの立場を強めるために僕を利用しようとしている。
僕を預言者として認めれば、それだけ教皇庁の権威が揺らぐ可能性がある。
さらには、コンスタンティノープルの東方教会と仲良くする僕が気に入らない。
だから、あれこれと難癖をつけてくる――マティルデの言いたいことは、つまりそういうことだ。
「そんなの知らないよ。ひどい言いがかりだよね」
思わず口をとがらせて返してしまった。
彼らの都合で好き勝手に動かされるのは、やっぱり納得いかない。
それに、僕から何かを引き出したいなら、もっと誠意ある態度を見せてほしい。
「たとえば、新大陸に聖職者を派遣すればいいのに。
文字が読める聖職者は統治に不可欠だから、キューバに根拠地を作ったエイリークも喜んで受け入れてくれるよ」
合理的な提案のつもりだったけど、マティルデはすぐに首を横に振った。
「教皇猊下は、地図がほしいらしいわよ。
昔、ジャン=ステラが東ローマ帝国に世界地図を送ったのでしょう?
その秘密が、教皇庁に漏れたみたいよ」
「……あの地図には新大陸は載せていないんだけどなぁ」
内心、ため息をつく。
彼らは僕を預言者として認めるどころか、異端審問にかけることさえ検討していたくらいだ。
そんな相手に世界地図なんて渡したくない。
とはいえ、彼らの関心はそこにはない。
ただ、東ローマ帝国と東方教会が持っている世界地図を西方教会が持っていない。
その違いが教皇の権威を貶めていて、許せないのだろう。
「うーん。世界地図かぁ」
執務室の天井を睨みつつ、僕は考えを巡らした。
正直、地図なんてそう簡単に渡したくはない。
しかし、教皇側の狙いが地図にあるのなら……。
「地図くらい渡せばいいんじゃない?
教皇側と友好の証、とか、東ローマ帝国の地図には新大陸は描かれていません、とか、そう言っておけばいいのよ」
「えー、地図ってそんな簡単に出しちゃっていいのかな?」
文句を言う僕に対し、マティルデは僕を諭してくれた。
「別に正確な地図である必要はないのよ。
ジャン=ステラが教皇庁に譲歩したという事実が重要なの」
マティルデがそう言うなら、それでいいのかもしれない。たぶん、いや、きっと。
だったら、地図じゃなくて地図っぽい何かを用意すればいいか。
地図をモチーフにした絵画調の何かを送りつけてやろう。
大西洋に海獣が「ガオー」って顔を覗かせていたり、緯度と経度をめちゃくちゃにしておいたり。
ただ、それでも釘はさしておく必要はある。
「『門外不出』ってことだけは、念を押しておきたいな」
でたらめな地図が表に出ると恥ずかしいものね。
「ねえ、ジャン=ステラ。新大陸には名前が必要だと思わない?」
そう言いながら、マティルデは執務室の棚から世界地図を取り出し、執務机に広げた。
羊皮紙に描かれた世界地図をのぞきこむ目の奥はどこか楽しげだった。
「うーん、名前かぁ。発見者の名をとってエイリーク大陸なんてどう?」
僕は腕を組みながら、ぼんやりと天井を見上げる。
前世でアメリカ大陸の由来は、探検家アメリゴ・ベスプッチの名前だった。
今回はエイリークが発見者だから、彼の名前を使うのが妥当なんじゃないかなと、思ったのだけど。
「そんなのだめよ」
即座にマティルデが跳ね返してきた。机に身を乗り出しながら、びしっと僕を指差す。
「新大陸は予言が教えてくれたのであって、エイリークが発見したわけじゃないわ。
それに、新大陸はあなたの領土なのよ。エイリークの名前をつけてどうするの!」
たしかに、その理屈もわかるけど……。
「ジャン=ステラ大陸とかにしなさい! いや、ちょっと長いかしら。そうねぇ……」
ぶつぶつと考え込みながら、マティルデは口元に手を当てる。
「ステラ大陸がいいわ」
……うん。なんか、もう好きにしてって感じだ。
「まぁ、マティルデがそういうなら、それでいいや」
僕は肩をすくめながら、軽く受け流した。
正直、名前なんてどうでもよかったし、あんまり深く考える気もなかった。
世界地図を広げると、マティルデがスッと指を動かしていく。
「こちらが、北ステラ大陸で、こちらが南ステラ大陸ね」
手際よく分けながら、彼女はまるで小国の統治区分でも整理するかのような真剣さで名づけていく。
一方で、僕の思考は別の場所に向かっていた。
(そういえば……オーストラリア大陸は、どうしよう?)
オーストラリア大陸を指差した僕は、ふと思い出したように口を開く。
「マティルデ、こっちの大陸はどうする?」
「東ステラ大陸でいいじゃない」
あまりにも即答だったので、つい苦笑がこぼれた。
「なんだか、適当だけど……まぁ、いっかぁ」
本気なのか冗談なのか。
でもこのやりとりも、僕たちらしいといえば、たしかにそうだった。
さてと。長かった会議も、ようやく終わった。
議題の最後には、イッツァからの使者の件まで飛び出してきたけれど、どうにか全体の方向性は決められた。
結論としては――南イタリアの三国からの使者には、肯定的に返答する。
三国を裏から支援し、ロベルトの勢力を少しずつ削いでいく。ただし、教皇を過度に刺激しないよう、細心の注意を払うこと。
この条件は三国側にも明確に伝え、しっかりと誓約させなければ。
そして、スポレート公領とベネヴェント公領へと、静かに、けれど着実に支配の根を伸ばす。
この任務を担うのは、トスカーナ軍の筆頭指揮官――アンセルモ・デッリ・インツィッジ。
「戦争も諜報も、アンセルモに任せておけば間違いないわ」
マティルデがそう言うのなら、たぶん本当に間違いない。
僕の出番がない事にほっとしたけれど、一応、念のため聞いておく。
「じゃあ、僕は何もしなくてもいい?」
「ジャン=ステラに任せていたら、何が起こるかわからないもの。
それに、あなた、秘密裏に働くなんて無理でしょう?」
……その通りです。ぐうの音も出ません。
ということで、僕は政治的な裏工作から外され、名誉ある任務――トマト栽培に専念することになった。
ようやく肩の荷が下りて、席を立とうとしたそのとき、マティルデの声が背中から飛んできた。
「イッツァの使者の対応、忘れているわよ!」
「そんなの、トマトに比べれば大したことないもーん」
僕はそっぽを向きながら、ふてぶてしく言い返した。
だってほんとにそう思ってるし。
トマトの種を蒔くのは、来年の三月。そして、収穫は七月ごろになる予定だ。
ピザが食べられるまであと1年かぁ。
それまでに南イタリアで戦争さえ起きなければ、あとはどうでもいい。
僕はそんなふうに、楽観的に考えていた。
――明日できることは今日やらない。
先延ばし万歳! それが僕の流儀なのだ。なーんてね。
だというのに……。
トマトの種まきを待つ事なく、厄介ごとが勃発した。
欧州大戦。
後にそう呼ばれることになる戦争は、正月早々、伝書鳩が届けた一枚の短文で幕を開けた。
「皇帝ハインリッヒ4世、皇后ベルタとの離婚を帝国議会で宣言」
作中に出てくるユカタン半島のピラミッドとは、世界遺産のチチェン・イッツァです。
この有名なピラミッド以外にも、イッツァには球技場がありました。その球技場では重くてよく跳ねる天然ゴムのボールが使われていたそうです。
そう、このボールがあったなら……。
イタリアの国技・サッカーが11世紀に爆誕!!!
サッカー好きな人なら、トマトよりも天然ゴムルートが胸熱かもしれないのです。




