皇帝の死
1056年12月上旬 イタリア北部 ピエモンテ州 トリノ ジャン=ステラ
どんよりとした雲が空を覆い、白い粉が音もなく降り続けている。
夜半に降り始めた雪がトリノの町を白色で塗りつぶしていた。
昨日までとはうって変わって今朝はとっても寒い。
この冷え込みは本格的な冬の到来を告げているのだろう。
「うー、さむさむ。アデライデお姉ちゃん、おはよー」
「おはよう、ジャン=ステラ。寒いねー」
ベッドの中でオッディベアを抱きしめたアデライデ姉が小さく目を擦っている。
「ねぇ、みてみて。 吐く息が白いよ」
子供部屋の真ん中に囲炉裏があるのだが、あまり役立っていない。
今朝の冷え込みに打ち勝って部屋を暖かくするには薪が足りなかったのだろう。
「ジャン=ステラは元気ねぇ」
楽し気に吐く息を眺めている僕に呆れたような口調の返事が返ってきた。
僕よりアデライデ姉の方がいつも元気に走り回っていると思うんだけどな。
ぶーぶーと文句を言おうかと思ったけど、まぁいいや。
今日はいつもと違う日だから、ね。
「ちょっと、外を見てくるね」
侍女のリータに服を着替えさせてもらった僕は、アデライデ姉に声をかけた後、リータと一緒に子供部屋を出た。
ドイツに行っていた父オッドーネが今日の昼過ぎに帰還する。
昨日早馬が嬉しい知らせを届けてくれた。
アルプスを越える峠は既に雪で通れない。
無理に峠を越えようとして、遭難してやしないか。
他にも、道中で体調を崩していないか。
神聖ローマ帝国のゴスラー宮殿で何か問題が発生したのではないか。
こんな時、スマホでぴぴっとチャットできたらよかったのに。
そう何度も僕は思ったよ。
でも、そんな便利な手段はないので、家族全員が気を揉んでいたのだ。
だから、昨日は母アデライデを含め、みーんな大喜びしてた。
「お父様はあっちから帰ってくるのかな?」
リータと一緒に遠くを見晴らすことができる部屋へ行き、窓から外を眺めてみた。
アルプスを越えなかったのなら、地中海がある南側からオッドーネは帰ってくるはず。
そう思い南の方を眺めてみたが、あいにくの雪で視界が悪い。
“残念だなぁ”
でも、オッドーネが無事に帰ってこられてよかった。
と、ふと自分の感情に可笑しみがこみ上げてくるのを感じた。
藤堂あかりであった前世の記憶を足したら僕は31才。
36才のオッドーネとさして変わらない年齢である。
親子というよりは、兄弟程度の年齢差しかない。
それなのに、オッドーネがいない事を寂しがるこの感情は小さい子供のものであろう。
僕も大分、こちらの世界に馴染んできたのかな。
今でも前世に未練はある。
決して快適とはいえない不便で不潔な環境。それにごはんも美味しくない。
そしてあっちこっちで戦争ばかりしている。
それでも、僕には父オッドーネや母アデライデ、そして兄姉たちが居る。
前世よりも濃厚な家族関係の中にいる事に気づいたのだ。
「ふふふっ」
こちらの世界も悪くないな。
そう思ったら自然と笑い声が口から出てきた。
◇ ◆ ◇
1056年12月上旬 イタリア北部 ピエモンテ州 トリノ ジャン=ステラ
去る10月5日、神聖ローマ帝国の皇帝ハインリッヒ3世が亡くなった。
その報告を持って帰ってきた父が帰還してから5日が経過した。
今日までの間、父オッドーネと母アデライデは今後の方針を決定したり、配下貴族や家臣との晩さん会を開いたりと、忙しくしていた。
だから、お父様と話をしたかったけど、無理に時間をとってもらうのは気が引けた。
僕が考え出したトリートメントの扱いはオッドーネにお任せしている。
ギリシアのアトス山に派遣した僕の家臣ラウルは未だ帰ってきていない。
ドイツ往復の道中の土産話は聞きたいけど、僕の方から急ぎの用件はなかったのだ。
そして今日、ようやくお父様と話をする機会がやってきたのだ。
既に人払いを終えた執務室で、父オッドーネが僕に気楽に話しかけてくる。
母アデライデは廷臣たちとの会議が長引いているらしく、遅れてやってくるらしい。
執務室にいるのは父と僕の2人だけである。
「よう、ジャン=ステラ。 久しぶりに話ができるな」
「人払いをして二人っきりになるのは初めてですよね」
「そうだな。なかなか時間がとれなくてすまんなぁ。」
「忙しいのは分かっていますので気にしないでください。ところで宮中はどうでしたか?」
さっそくオッドーネに土産話をねだってみた。
「ドイツでは到着早々から色々大変だったぞ」
オッドーネが皇居であるゴスラー宮殿に着いたら、皇帝ハインリッヒ3世が不在だったそうだ。
それに宮廷の廷臣たちも留守番役を除いてだれもいない。
もちろん皇后アグネス、後継者のハインリッヒ4世と婚約者ベルタもいない。
「もしかして皇帝の死去に間に合わなかったのか」
と大いに気を揉んだそうだ。
せっかくイタリアからドイツまで来たのにと嘆きたくなるのを抑え、まずは情報収集をしたとのこと。
一体何が起こったのかと大慌てで留守番役の廷臣に聞いたら、ボドフェルドにいるとわかった。
ボドフェルドとはゴスラー宮殿から南に馬で2日くらい走った先にある、狩猟目的で建てられた離宮である。
「ここの所体調が良いから遠出をする」
そう宣言をしてハインリッヒ3世は宮殿を出ていったそうだ。
これが、オッドーネ到着の1週間前の出来事である。
「その後、ボドフェルドに急行したんだが、なんとか陛下が亡くなる前にお会いすることができた」
オッドーネがボドフェルドに到着した時、ハインリッヒ3世は既に死の床についていた。
呼吸困難な中、枕元に呼び出されたオッドーネは、
「ハインリッヒ4世を支えてやってくれ」
とお願いされたと涙ながらに語ってくれた。
それからほどなくして、ハインリッヒ3世は亡くなった。
享年40才。当時としても若い死であった。
うーん。
僕はハインリッヒ3世に直接会ったことがないので感情移入はできそうにない。
だけど、オッドーネにとっては大切な存在だったんだと思う。
アルル王国の伯爵家4男だったオッドーネがトリノ辺境伯になり、さらに次代後継者の外戚となる。
サクセスストーリーな人生の随所にハインリッヒ3世が関わっていた。
だからハインリッヒ3世の死によって、オッドーネの人生が走馬灯のように脳内で再生されたのだろう。
帝国内では外様にもかかわらず外戚になり、嫌な目にあった事も多かったと聞いている。
それでも、良い思い出の方が多かったんだろうね。
聞き役に回る僕に対して、昔の話をたくさん話してくれた。
やんちゃばかりしていた母アデライデと結婚する前の出来事。
実は母もやんちゃで、トリノの姫騎士と呼ばれていたこと。
「アデライデはなぁ、自分専用の鎧を作らせて、トリノ近郊を馬上、駆け回っていたんだぞ。
跡継ぎ男子の居なかった先代トリノ辺境伯に、領主としての教育を施されていたとは聞いていたがなぁ。 まさか騎士の真似事をしているとは思わなかったぞ」
「今はそう見えませんよね?」
「いやいや、そんな事ないぞ。 今でもアデライデの鎧はいつでも使えるように磨き上げられているからな」
「じゃ、お父様の代わりに出陣する事もできますね」
「俺よりも軍隊の指揮は上手いかもしれんぞ」
「またまた、ご冗談を」
二人で顔を見合わせて一頻り笑いあった。
これが2人っきりで話す最後の会話になると、この時の僕は思っていなかった。