翻訳の罠
1067年7月中旬 イタリア フィレンツェ ジャン=ステラ(13歳)
「その翻訳、教皇庁では『重大な問題』として扱われているのよ 」
「はへっ!? どうして? ギリシア語訳って、そんなにマズいことなの?」
僕の声が裏返った。
いったいどういうこと? なんで翻訳しただけで、教皇庁が激おこなの?
「はぁ、やっぱり、ジャン=ステラはわかっていなかったのね。まぁ、そうでないと、ギリシア語に翻訳なんかしないわよね」
大きなため息をついた後、マティルデはあきれたような顔をした。
「ジャン=ステラが知っているように、教皇庁と、コンスタンティノープルの主教座は敵対しているの」
僕が生まれる1年前の1053年、ローマの教皇とギリシア正教会の大主教は相互を破門した。
破門というのは「キリスト教徒と認めない」ということ。それを東西教会のトップ同士が行うほど関係が悪化している。
そのことは知っている。しかし、ギリシア語訳の禁止とどうも繋がらない。
いや、そうでもないか。第二次世界大戦中の日本って英語を禁止していたもんね。敵性語は使ってはならぬ、とかなんとか。
「つまり、敵対している国の言葉は禁止ってこと?」
「違うわよ。ラテン語で書かれた聖書とギリシア語で書かれた聖書の解釈をめぐって争っているの。
だからこそ、ラテン語で書いてある預言書をギリシア語に翻訳することは許せない、と教皇庁は憤っているのよ」
マティルデがまじめな顔で伝えてくる。
でも、僕はやっぱり理解できない。
「イシドロス達はギリシア人だし、アレクちゃんの教育だってギリシア語の教科書があった方が効率的だと思うだけどなぁ」
「私にはジャン=ステラの考えの方がよっぽど理解不能だわ」
マティルデは少し考えてから、慎重に言葉を選びながら僕への説明を試みた。
「ジャン=ステラ……。教皇庁が怒っているのは、単に翻訳したという事実だけじゃないの。
『教えの正しさは、ラテン語聖書にしかない』
そう信じているのがローマ教会なのに、ジャン=ステラが預言書をギリシア語に翻訳してしまった。
これは、ローマ教会の威信を大きく傷つけ、ギリシア語の聖書を使う東方教会に味方する行為なのよ」
これならジャン=ステラもわかるかしら、とマティルデが僕の顔を覗き込んできた。
まるで子供の喧嘩みたいだねぇっていったら怒られちゃうだろうから、口にださない。
「別に僕はどちらの味方をするつもりもないんだけどなぁ。だってアラビア語訳だってOKしちゃったもん」
「……あ、アラビア語?!!!」
マティルデだけでなく、トスカーナの廷臣たちが一斉に立ち上がらんばかりに反応し、その声が執務室中に響き渡った。 中には、ペンを手から取り落とす者までいた。
「ジャン=ステラ、まさか……本気で言ってるの?」
マティルデが凍りついた声で問いかけてくる。
や、やばい。なんか盛大な地雷を踏み抜いたみたい。
「う、うん。イシドロスがイスラム圏にも知識を広めたいって言ってたから、『どうぞどうぞ』って……」
僕が肩をすくめると、マティルデは顔を覆って天を仰いだ。
「……はぁ、あなたって人は……!」
「アラビア語訳って、そんなにマズい?」
「マズいどころじゃないわ!」
マティルデはばしんと机を叩いた。
普段は冷静なマティルデが感情をあらわにしたことに、僕も驚きを隠せない。
「いい? ジャン=ステラ、アラビア語は異教徒の言葉なのよ。教皇庁から見れば【悪魔に神の言葉を売り渡した】って思われても仕方ないわ!」
「えぇ……」
イスラム教徒に教科書が渡ったところで、誰が困るんだろうって思うけど、今の時代じゃ通じないんだろうな……。
そんな僕の心の声を読み取ったのか、マティルデがさらに言葉を重ねた。
「それにね……イスラム教では、ムハンマドが最後の預言者なの。それ以降の預言者は絶対に認められないのよ。
ジャン=ステラ、あなたみたいな新しい預言者が出てきたら――彼らは、あなたの存在そのものを消そうとするでしょう」
マティルデは真剣な顔で、鋭く言い切った。
「教科書を配るどころか、この世から抹殺すべき異端として、聖戦の標的にされかねないのよ!」
ぞわっと背筋が冷たくなる。
前世で平和ボケしていた僕には、そんな発想はなかった。
しかしながら、ここは中世。信仰と権力が鋭く交錯する時代。僕が書いた単なる教科書が、戦争の火種になりかねないなんて。まったくもって冗談がきつすぎる。
(……いや、まてよ)
心に、疑問がわきあがった。司祭であるイシドロスなら、アラビア語訳が危険なことは分かっていたはず。
それなのに、どうして?
よりによって、イスラム圏にまで教科書を広めようとしたのだろうか。
その違和感は、急速に膨れ上がり、ついに口を突いて出た。
「……イシドロス」
僕は震えそうになる声を抑えながら、彼の名を呼んだ。
「どうして、アラビア語訳なんて作ろうと思ったの?」
問いかけると、イシドロスは一礼して、敬虔な態度を保ったまま答えた。
「ちょうどよい機会と考えたのです、ジャン=ステラ様」
「機会?」
イシドロスは静かに頭を垂れ、慎重に言葉を選びながら続けた。
「ジャン=ステラ様が示されたのは、神が創られたこの世界の秩序――その根源にある真理です」
数学や物理法則を書き上げた僕の教科書。たしかに、それはこの世界を形作る「真理」と言えなくもない、のかな?
ちょっと首を傾げながらも、本質は間違っていない気がした。
そう考えている間に、イシドロスは言葉を重ねた。
「イスラム教も、キリスト教も、もとは一つの神を信じる宗教。
今こそ預言をアラビア語で伝え、世界を一つにまとめる時――神はそう望んでおられます。
ジャン=ステラ様、そうは思われませんか?」
イシドロスの表情は、揺るぎない信念そのものだった。冗談でも、野望でもない。
心の底から、それを信じているのだろう。
イシドロスの澄んだ目が怖い。爽やかな表情が怖い。
狂信者に見つめられたような気がして、僕は蛇に睨まれたカエルみたいに、言葉を失ってしまった。
喉がひりひりして、声がでない。次の言葉が浮かんでこない。
そんな張り詰めた空気を断ち切ってくれたのは、マティルデだった。
「はい、そこまで」
マティルデがピシャリと声を上げ、イシドロスを鋭く睨みつけた。
「今、イスラム教徒に敵対されるわけにはいかないの。イシドロス、あなたもわかっているわよね?」
「はい、もちろんです」
イシドロスは静かに頭を垂れた。
「南イタリアのロベルトを降伏させるまでは、神も猶予をお許しくださるでしょう」
その言葉に、マティルデは小さくため息をついた。
「……まあ、いいわ」
僕もようやく、イシドロスの狂信的な視線から解放され、ほっと息をつくことができた――と思ったのも束の間。
「ジャン=ステラもよ」
マティルデの矛先が僕の方へと向かってきた。
「今後は、こういう重要な許可を不用意に出さないこと。必ず、私に相談するの。わかった?」
うなだれる僕に、反論の余地なんてなかった。力なく頷くしかない。
とはいえ、何が問題になるのか、さっぱりわからないんだもの。今後どう注意すればいいのだろう。
(誰か教えてよぉ〜)
泣き言がこぼれてきそうになった。
しかし、マティルデの追い討ちはそれだけでは終わらなかった。
はいはい、どうせまた僕の知らないうちに何か問題が発生したんでしょ……。
「ところで――イッツァからの使者を、どうするつもり?」
いきなり降ってきた話題に、僕は思わず目を瞬かせた。
「イッツァって、どこの国?」
マティルデは眉をひそめたまま、「教皇庁から私のところに問い合わせが来たのよ」とだけ言った。
ジ:ジャン=ステラ
イ:イシドロス・ハルキディキ
ーーー
ジ:ドイツ語訳は作らなかったの?
イ:売れないというのもありますが……
ジ:買う人はラテン語を読めるもんね
イ:はい。それに、言葉が足りませんでした
ジ:足りない?
イ:預言書に必要な語彙が、ドイツ語にはないのです
ジ:……単語がないのかぁ
イ:それだけではありません
ジ:まだあるの?
イ:ドイツ語には、神を敬う言葉遣いがないのです
ジ:ああ……そっか
イ:神にも隣の農夫にも、同じ言葉で話しかけるのですよ
ジ:それじゃあ、翻訳は無理だね
ーーー
明治維新の頃、福沢諭吉や西周といった天才たちは、西洋から押し寄せた新しい概念を、日本語に訳し、この地に根づかせました。「自由」「権利」「科学」――当たり前に使っているこれらの言葉も、もともとは存在しませんでした。
言葉がなければ、考えることも、伝えることもできない。
彼らの偉業は、単なる翻訳ではなく、未来をひらくための創造だったのね。そんな事を思いながら本話を書きました。