ジャン=ステラ修道会
1067年7月中旬 イタリア フィレンツェ ジャン=ステラ(13歳)
東ローマ帝国、ベネヴェント公国、そしてスポレート公国から来た密使との会合を終えた後、僕とマティルデは執務室に家臣たちを集めて対応を協議していた。
「ねぇ、マティルデ。ロベルトと戦う? それとも三国を見捨てる?」
どの国も見返りが曖昧だった。 スポレート公爵位? 空手形。ベネヴェント公国は教皇領で報酬不明。東ローマ帝国に至っては何をしてくれるのかも不透明だ。
明日の再会合で条件交渉するにせよ、対応の方向性だけは今のうちに固めておかないと。
と思っていたら、マティルデはあっさりと宣言した。
「戦うわよ、ロベルトと。もちろん、ジャン=ステラが同意してくれたらだけどね」
「ええっ!? 僕たちに利益がないかもしれないのに、即答!?」
さっきまで『報酬がなければ動かないわよ』って言ってたマティルデの言葉とは矛盾している。
「はぁ……」
マティルデは大きくため息をついた。
「外交のやり取りなんて、あれくらい社交辞令の範囲内よ。公爵位はともかく、向こうが支配してほしいって言ってるんだから、支配してあげればいいのよ」
「でもさ……マティルデ。ロベルトと戦って勝てるの?」
「負けないわよ、トスカーナは」
胸を張って即答するマティルデ。
その自信はどこから出てくるのだろうか。僕は不安になって、軍事のプロであるアンセルモに意見を求めた。
「アンセルモ、ロベルトと戦って……勝てるのかな?」
アンセルモ・デッリ・インツィッジは、カノッサ家の軍事顧問であり、トスカーナ軍の筆頭指揮官である。
「うわはっはっはっ!」
そのアンセルモは、僕の質問を豪快に笑い飛ばし、誇らしげに言ったのだ。
「ピサ、ジェノバ、アマルフィ、そしてノルマン人のエイリークを擁するジャン=ステラ様の艦隊に敵う国など存在しません。そして陸軍も負けません。なにより、ロベルトの領地とトスカーナは接しておりませんから、負けないだけなら簡単な話です」
なるほど、負けないってそういう意味か……。
「ですが、戦場となるならば、できればベネヴェント公国内でお願いしたいところですな」
村々が荒らされては困る――とアンセルモが髭をなでながら続けた。
負けないと言われて一息ついた僕だったけど、ふと疑問が浮かんできた。
「でもさ……そもそもロベルトと戦う必要ってあるの? 交渉とかで止められないの?」
ベネヴェント公国の侵略を止めるよう交渉するとか、東ローマ帝国のブーリア地方を返してもらえるようお願いしてみるとか。
ロベルトは僕たちと同じ派閥・教皇派に属している。
話せばわかってくれるかもしれないし、問答無用で敵にするのは何か違うと思うんだよね。
それなのに、マティルデは呆れ顔で僕を見てきた。
「ロベルトは侵略する気満々なのよ。交渉で止まるなら、ベネヴェント公国の貴族たちがとっくに止めてるわよ。
強い野心は交渉で止められない。それはジャン=ステラだって同じだったでしょう?」
もう忘れたのかしらと、マティルデが言う。
「え? 僕が? 僕って他国を侵略しようだなんて一度も思ったことないよ」
美味しいものを食べたい欲はあるけど、侵略なんて全く興味がわかないもの。
「侵略じゃないわ」
マティルデが首をふり、ジャン=ステラは本当にわかっていなかったのね、と言葉を零した。
「ジャン=ステラ、あなたはゴットフリート3世から私の身柄を奪ったわよね。
あの時のあなたは、交渉によって私を諦めることができたのかしら」
「そんなわけないでしょ! マティルデを諦めるくらいなら、この世なんて滅んじゃえって思ってたし」
ついつい声が大きくなってしまった僕に対し、マティルデが冷静に答える。
「ロベルトも同じことよ。領土を広げる野心を交渉で止められるわけないの」
あ、ああ……腑に落ちた。僕にとってのマティルデが、ロベルトにとっての領土なのか。
それなら、交渉なんて無意味だし、将来の交戦は約束された未来みたいなものかぁ。
「どうせ戦うなら、味方は多い方がいい。だから、三国の提案は渡りに船という事なのね」
「それだけじゃないわ。いずれ、教皇とも戦うことになりそうだから、少しでも兵力を増やしておきたいのよ」
「えっ? なんで?」
教皇派の僕たちが、どうして教皇と戦うことになるの?
「ジャン=ステラがトスカーナにいるからよ。クリュニー派って覚えているかしら?」
「ユーグ・ド・クリュニーが院長をしている修道院の集まりだったよね? まさか、またユーグが僕を異端審問に?」
トリノにいた頃、ユーグは僕のことを教皇に告発して、異端審問にかけようとした。
そのときの嫌な記憶が蘇って、思わず身構えてしまう。
まさか、ユーグはまた何か裏で動いてる?
しかし、マティルデはゆっくりと首を左右に振って否定した。
「いいえ、違うわ。動いているのはユーグじゃない。……あなた自身よ」
「えっ、僕? 僕、何もしていないよ。ユーグなんて今の今まで忘れていたもの」
僕にそんな覚えは全くない。いちゃもんだよ、これじゃ。
「ジャン=ステラ、あなたは修道院をたくさん建てているじゃない」
「え? 修道院といっても実際には蒸留ワインを作ったり、僕の教科書を写本するための工房だよ」
たしかに僕は、というか正確には新東方三賢者のイシドロスが中心となり、トリノ辺境伯領とトスカーナ辺境伯領に修道院を建てまくっている。
それくらいしないと、欲しい人が多すぎて、蒸留ワインや写本が全然足りないんだもの。
その写本なんだけど、字を書くよりも装丁のほうが大変だったりする。
タイトルは金文字で書かれているし、宝石で飾られた真紅の革表紙には十字架と聖人が描かれている。
もはや教科書というよりもオーダーメードの美術品って感じ。
マティルデが呆れたように言う。
「あのねぇ、ジャン=ステラ。あなたの建てた修道院、世間ではジャン=ステラ派って呼ばれているのよ」
「えっ、なにそれ!? 初耳だよ。誰もそんなの教えてくれなかったよ!」
ええっ!? 自分の名前がついた修道会!? そ、それってちょっと……恥ずかしいかも……
思わず目を丸くする僕に、マティルデは続ける。
「しかも、そのジャン=ステラ修道会はどんどん勢力を拡大してるの。西方教会だけじゃなく、東方教会でも名前が知られ始めているわ」
「へぇ……それはすごいね。ユーグが怒っても不思議じゃないかも……」
たしかに、これじゃクリュニー派の活動を邪魔してるように見えなくもない。
でも、それがどうして、教皇と戦う理由になるんだろう?
「修道会を新しく作るだけなら、別に問題はないのよ」
マティルデが少し真剣な顔になる。
「問題なのは写本よ。あなた、ギリシア語訳の預言書の作成を許可したでしょう?」
正確には、教科書であって預言書じゃないんだけどなぁ。
まぁ、そんな細かいツッコミはさておき、僕は小さくうなずいた。
イシドロスたちが東ローマ帝国に僕の知識を広めるため、教科書の翻訳を希望し、僕が許可を出したのは事実なんだもの。
「その翻訳、教皇庁では『重大な問題』として扱われているのよ 」
「はへっ!? どうして? ギリシア語訳って、そんなにマズいことなの?」




