密使
1067年7月中旬 イタリア フィレンツェ ジャン=ステラ(13歳)
僕とマティルデの執務室に、三国の密使が入ってきた。
「ねえ、マティルデ。密使というわりには、三人とも堂々とした態度だね」「ジャン=ステラ、しっ! 静かに。聞こえてしまうわよ」
密使と聞いて、僕は忍者のように密かに動く人物を想像していた。だが、入ってきた三人は貴族のような風格を漂わせており、その堂々たる態度に驚かされた。
三人の筆頭格、東ローマ帝国の密使コンスタンティノスが最初に進み出て、丁寧に頭を下げた。
「カナリア諸島王ジャン=ステラ陛下、トスカーナ辺境伯マティルデ様。まずは、長女ベアトリクス様のご誕生とアレクシオス様とのご婚約、誠におめでとうございます。我が君コンスタンティノス陛下よりも、祝福の言葉をお預かりしております」
それに続いてベネヴェント公国、スポレート公国の使者たちも軽く頭を下げた。
コンスタンティノスが穏やかな声で話を続ける。
「陛下もご存じのように、現在南イタリアはノルマン人の侵攻を受けています。彼らはすでにイタリア半島のつま先・カラブリアを占領し、今は我々東ローマ帝国が支配する半島の『かかと』に位置するプーリア地方を攻撃しているのです」
ノルマン人の指導者は、名をロベルト・イル・グイスカルドと言う。
イル・グイスカルドとは、ずる賢いイタチという意味。
彼は狡猾なだけでなく、軍事的才能にも恵まれている。
わずかな手勢を率いた彼は権謀術数を駆使してイタリア半島南部を征服しつつあるのだ。東ローマ帝国の属州を攻撃するにあたっても、ローマ教皇から「カラブリア=プーリア公」に叙爵されることで、大義名分を手に入れてもいる。
うん、さすがだね。名に恥じない策略家だ。
東ローマの密使・コンスタンティノスが軽く息をついた。
「我々は海では優位に立っていますが、陸では敗北が続いております。もし今、プーリア地方を失えば、我々東ローマ帝国はイタリア半島での基盤を完全に失うことになります。なんとしてもそれは避けたいのです。ぜひジャン=ステラ様とマティルデ様のお力をお貸しいただきたく、参りました」
コンスタンティノスが一歩下がると、ベネヴェント公国のレオーネが落ち着いた様子で口を開いた。
「陛下、私どもベネヴェント公国も危機にあります。私たちは教皇猊下に従ってきましたが、今ノルマン人に攻撃されても、教皇様は助けてくれません。なぜなら、教皇猊下はノルマン人の指導者ロベルトを恐れ、その軍事力をあてにしているからです」
ベネヴェント公国は教皇領の一部である。それなのに、同じ教皇側であるはずのロベルトの攻撃にベネヴェント公国はさらされている。
どうやら、教皇はロベルトの軍事力が怖くて、抗議の声すら上げていないようである。
なんだか教皇って情けなさすぎない?
そんな疑問の答えは、後でマティルデが教えてくれた。
「ジャン=ステラが生まれる前になるかしら。1053年に教皇レオ9世がノルマン人の捕虜になっているのよ」
捕虜になって以降、歴代の教皇はノルマン人に対して弱腰の宥和政策をとっているらしいね。
教皇領なのに教皇を頼れない。そのような政情下にあるためか、ベネヴェント公国の密使レオーネの声には、やるせなさを感じさせる響きがあった。
「このままではベネヴェント公国はノルマン人に征服されてしまいます。しかし教皇派である私たちが、表立って皇帝派であるトスカーナに助けを求めるのは難しいため、今回は密使としてお願いをしに参りました」
最後にトスカーナの隣国であるスポレート公国・フェデリコが短く頭を下げ、説明を始めた。
「ジャン=ステラ陛下、マティルデ様。スポレートは現在、公爵のゴットフリート3世がアルプスの向こう、ドイツに行ったまま戻らず、領地は荒れ果て、ほぼ内乱状態です。商人が訪れることもなくなり、平民は貴族に対する不満を溜め込んでいます。ノルマン人ロベルトがスポレートに攻め入れば、簡単に征服されてしまうことでしょう」
スポレート公国の惨状を伝えたフェデリコはそこで一呼吸おいた。
「我々はノルマン人のロベルトを主人として戴くことなどごめん被ります。マティルデ様のお父上であるボニファーチオ様が公爵であった頃、スポレートは豊かで安定していました。どうか、もう一度スポレートに平和と繁栄をもたらしてください。私たちは、新しい公爵としてジャン=ステラ陛下とマティルデ様をお迎えしたいと考えています」
……マティルデの父、ボニファーチオ4世はかつてスポレート公だった。
そのため、マティルデが再びその地を治めることに対し、大義名分はもっている。
スポレート公国・フェデリコの提案が実現したらトスカーナとスポレートを結ぶ新たな秩序が生まれるかもしれない。
最後に、東ローマ帝国の密使コンスタンティノスが恭しく一歩前に出てきて、話をまとめた。
「我々の共通の敵は、ノルマン人のロベルトなのです。ぜひジャン=ステラ様には我々と共にノルマン人ロベルトと一緒に戦っていただきたいのです」
……それにしても、驚いちゃった。
皇帝派のスポレート、教皇派のベネヴェント、そしてギリシア正教の東ローマ帝国――。
本来なら相容れないはずの三者が、今こうして同じ部屋で、同じ願いを口にしている。
まるで、犬と猿と雉が「一緒に鬼退治しよう」と言い出すようなものだ。
そこまでして彼らが僕たちに助けを求めてきたということは、それだけ事態が切迫している、という証なのだろう。
三人の話を聞き終えたマティルデがゆっくりとうなずき、僕を見た。
「ジャン=ステラ、あなたはどう思う?」
「うーん、難しい問題だよね」
僕はマティルデに短く返答したあと、密使たちと向き合った。
「皆さんの置かれた状況はよく分かりました」
僕は視線を三人に向けたまま話を続ける。
「皇帝派であるスポレート公国、教皇派のベネヴェント公国、ギリシア正教の東ローマ帝国。みんなでノルマン人ロベルトに対抗したい。そのため、僕たちに助力を求めてきたわけですよね?」
ベネヴェント公国のレオーネがゆっくりと頷く。
「その通りです、陛下。それぞれ立場は違いますが、敵は共通しています。今すぐノルマン人に対応しなければ、我々はすべて失ってしまいます」
全てを失う……。確かにそうかもしれない。しかし僕だって頼られても困ってしまう。
「ただ、すぐの回答は非常に難しいです。考える要素が多すぎるのです」
僕がイエスと言えば、狡猾なロベルトとの戦争になる。でも、ノーと言って三国を見捨てるわけにもいかない。責任重大すぎるよ……。
ここで僕が彼らを援助しなければ、東ローマ帝国はイタリア半島の領土を失うのだろう。ベネヴェント公国がノルマン人ロベルトに飲み込まれるのも時間の問題。そうなればスポレート公国もドミノ倒しのようにノルマン人の国になってしまうのかも。
悪い方向にばかり想像が豊かになってしまうけど、スポレート公国の次は、ここトスカーナにもロベルトは触手を伸ばすのかな?
それなら、いっそ味方がいる今のうちにロベルトを叩いておくほうがいいのだろうか……。いやいや、ロベルトがイタリア半島南部を征服するのって、可能性の話だよね。失敗するかもしれないし……。
思考が堂々巡りを辿っていたら、マティルデが口を開いた。
「援助を求めるのはいいけれど、トスカーナが得る利益は何かしら?」
マティルデの主張を端的に言えば、つまりは「タダ働きはいやよ」という意味だろう。
うん、そうだよね。ロベルトに攻められてる人を助けるためとはいえ、利益なしに協力するのって僕だっていやだ。
あれ? でもスポレート公爵位をくれるって使者のフェデリコは言っていたはず。
その点は気になるけれど、今は黙っておこう。
僕は一瞬マティルデと視線を交わし、静かに言った。
「トスカーナが動くには、条件が必要です。協力の内容と、それによって得られる利益を明確にし、お互いが納得できる形にしたいと考えてます」
コンスタンティノスは冷静にうなずいた。
「ごもっともです。具体的な協議は明日にさせていただきます」
マティルデもそれに微笑を返した。
「では、また明日」
三人の密使は頭を下げ、静かに部屋を出ていった。
扉が閉まってすぐ、僕は先ほど浮かんだ疑問についてマティルデに聞いた。
「ねえ、マティルデ。スポレートの使者は、僕たちにスポレート公爵位をくれるって言っていなかった?」
「あのね、ジャン=ステラ。スポレート公爵を叙爵できるのは皇帝ハインリッヒ4世陛下だけよ。スポレートの貴族たちではないわ」
僕の考えが甘いと、マティルデがため息混じりに指摘する。
「じゃあ、スポレートの使者が言っていたのは……」
「ええ、空手形ね」
まじかぁ。なんだか腹が立ってきた。
「じゃあ、あの密使たちは僕たちに助けてほしいというのに、嘘をついていたの?」
「そんなことはないわよ。少なくともスポレート公爵位、それにベネヴェント公爵位を私たちに渡そうと動いてはくれるはずだもの。
ただ、私たちへの叙爵が実現しなくても、それはその時考えればいい。トスカーナとノルマン人ロベルトとの戦いが始まった後なら、引くに引けなくなっているでしょ?」
ぼくは口をあんぐり。
「え、なに? ジャン=ステラ、全く分かってなかったの? 外交なんて腹の読み合いと、騙し合いの連続なのよ」
「うぅ、そんなことを言われても……」
人との騙し合い、腹の読み合いなんて、僕には難しすぎる。なにせ、これは子供の頃からの教育の賜物でもあるんだもの。
・ウソをついてはいけません
・人をだましてもいけません
・みんな仲良く元気よく
前世で体に染み付いた教育の真逆を求められても困ってしまう。
項垂れていたら、マティルデが頭を撫でてくれた。
「でも、ジャン=ステラは預言者だもの。仕方ないわよ。神の言葉を預かった者が、嘘をつき騙すのが得意だったら、幻滅してしまうわ」
しかし、この世の真実に気づいてしまったマティルデが真顔でつぶやいた。
「あら? 教皇や枢機卿って、嘘や謀りごとが上手な人ほど、出世しているような気がするわ」
それはちょっと言い過ぎじゃないかな……と思ったけど、前世の記憶で歴史を振り返れば、確かにそんな聖職者ばっかりだった気もする。
【上位聖職者ほど嘘をつき、人をだまさないといけない】
神様って、案外ブラックジョークが好きなのかもしれないね。