ねこみみ
1067年7月中旬 イタリア フィレンツェ ジャン=ステラ(13歳)
「ピザッ、ピザッ、ピッザザッ♪ トマトがなくちゃ始まらない~♪
生地よしチーズよしバジルよし! 香り広がる幸せピッツァ☆」
やったよ、ついにトマトが手に入った。今はまだ種だけど、これで念願のピザが食べられる!
寝室にもかかわらず、鼻歌が飛び出すほど上機嫌な僕なのです。
僕の横には、キャンドルの優しい灯りに横顔を照らされるマティルデがいる。 夏の夜風が窓からそよぎ、マティルデが横でくすくすと笑っている。
「ジャン=ステラ、ずっと嬉しそうにしてるけど、やっぱりトマトのことを考えているの?」
少し照れくさくなって、僕は彼女の方をちらりと見てから話を切り出した。
「そうなんだよ。トマトだけじゃなくて、エイリークが新大陸から持って帰ったとうもろこし、かぼちゃ、カカオ、パパイヤ、インゲン豆にとうがらし……全部美味しそうでワクワクしてるんだ」
マティルデが微笑みながら、僕の頬を指先で軽くつついてくる。その仕草がなんだかくすぐったい。
「本当に食べることばっかりなんだから」
「だってトマトがあればピザやパスタが作れるし、とうもろこしからはほんのり甘いコーンスープができるんだもん。
エイリークが持ち帰った品種によってはポップコーンもできるかも。はちみつ味の甘いポップコーン。ぜんぜんありでしょ☆彡
かぼちゃプリンやチョコレートのお菓子だって……」
美味しい料理を想像していると、自然と口元が緩んでくる。
「ジャン=ステラ、料理やお菓子もいいけど、まずは育てないとダメじゃない?」
マティルデの冷静な言葉に僕は肩を落とす。
そうなんだよねぇ。トマトの種まきは3月頃だし、とうもろこしや他の植物は4月から5月。
でも今はもう7月だから、収穫は来年の夏になってしまう。
「ピザを食べるには一年も待たなきゃいけないなんて……」
僕の落ち込んだ表情を見たマティルデが、思わず吹き出しそうに口元を手で覆っている。
「あなた、面白い顔してるわよ?」
「だってぇ、マティルデぇ……」
ふざけて甘えてみたら、マティルデは優しい手つきで僕の頭を撫で、耳元でささやいた。
「そんなに落ち込むなら、私が慰めてあげようか?」
ドキッ。
彼女の言葉に、僕の胸が跳ねた。
「一人目が生まれて2ヶ月経ったし、そろそろ二人目が欲しいのよね。トマトが収穫できる前に産みたいわ」
僕が目を丸くして驚いているのを楽しそうに眺めながら、マティルデは枕元からごそごそと何かを取り出した。
「ほら、ジャン=ステラが好きそうなものを作ってもらったのよ」
彼女が誇らしげに差し出したのは、なんと黒い猫耳のカチューシャだった。
「これが本物のマティキャットよ。にゃーん、ごろごろ」
猫の真似をして甘えるマティルデがとても可愛らしくて、僕は胸がきゅっと締め付けられた。
「黒猫のぬいぐるみを贈ったの、覚えててくれたんだね」
「もちろんよ、忘れるわけないじゃない!」
マティルデが僕の耳をぺろっとなめ、甘やかな声を流し込んできた。
「今夜は私が猫になってあなたを襲っちゃうわよ? にゃぁ、おまえを食べちゃうぞっ」
そして、甘い微笑みを浮かべながら、僕の唇にそっとキスを落としてきた。
トマトが実るまでの一年間、マティルデとこうして甘い時間を重ねていけるなら、それはとっても幸せな時間だよね。――そんな想いを込めて、僕は甘えた声を返すのでした。
「やーん、マティルデお姉ちゃんにたべられちゃうっ」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
次の日の朝。
僕はベッドの上でぼんやりと目を開けた。窓から差し込む朝日はいつもより眩しく、身体はまだ昨夜の甘い疲れが残っている。横を見ると、マティルデも少し疲れた様子で目をこすっている。
「おはよう、マティルデ。よく眠れた?」
彼女はふっと微笑んで、僕の額にそっと口づけを落とす。
「うーん、少し眠いかしら。でもあなたと過ごす夜が好きだから、これくらいなら平気よ」
僕も笑って身体を起こそうとしたが、腰にぴきっと痛みが走った。
「あいたた……ちょっとやりすぎちゃったかな」
「あら、ジャン=ステラったら意外と体力ないのね」
彼女がからかうように言うので、僕はわざと拗ねたような顔をしてみせる。
「だってマティルデお姉ちゃんがあんまり激しく襲ってくるから……」
二人で笑い合いながら身支度を整えていると、近侍が扉をノックして、今日の予定を告げに来た。
「ジャン=ステラ様、マティルデ様、本日午前中は例の外交使節団との謁見が予定されております」
その瞬間、僕たちは軽い空気が一気に引き締まるのを感じた。
僕は軽くため息をつきながら言った。
「そうだった……。今日は東ローマ帝国、スポレート公国、ベネヴェント公国の合同密使団との謁見があったんだったよ」
「そうよね。東ローマだけなら、アレクシオス様とベアトリクスの婚約祝いって気楽に構えられたのに、スポレートとベネヴェントまで一緒なんて。厄介ごとの予感しかしないもの」
ため息まじりの声でマティルデも同意してくれた。そうなんだよね。アレクちゃんとの婚約祝いの使者ならどれほどよかったことか。
僕はふとマティルデに対して疑問を口にする。
「そもそも、この3国の組み合わせってどういうことなんだろう?」
スポレート公国とベネヴェント公国はイタリア半島南東部なのに対し、東ローマ帝国の領地はギリシア。この三国の共通点って何だろう?
僕の疑問に対し、マティルデが地図を指でなぞる仕草をしながら説明してくれた。
「東ローマ帝国はギリシアが中心だけど、イタリア半島のかかとに位置する南東部のプーリア地方を属州として支配しているわ。その北側にはスポレート公国とベネヴェント公国があるの。強いて言えば、イタリア南部でアドリア海に面しているのが共通点ね」
マティルデの説明を聞きながら、僕は地図を頭の中で広げてみる。たしかに、イタリアの踵に東ローマ、そこから北へ伸びるアキレス腱の部分にベネヴェント、さらに北側にスポレートが並んでいる。
「なるほど……じゃあスポレートとベネヴェントは完全にイタリアの国なんだね?」
「ええ、そうよ。ただし派閥は全くちがうわ」
スポレート公国は皇帝派で、ベネヴェント公国は教皇派。
そして、東ローマ帝国はギリシア正教会で宗教がそもそも違う。そして1053年に教皇と大主教とを相互に破門した事件以来、仲がとても悪いのだ。
マティルデの解説に、僕は頷きながら理解を深めていく。
「さらに厄介なのがスポレート公国よ。ジャン=ステラ、忘れてないかしら。スポレート公爵はあなたがアルプスの向こうに追放したゴットフリート3世なのよ。そんな彼が公式にあなたに使節を送るわけがないと思わない?」
「ゴットフリート3世、まだ生きていたんだ……」
マティルデのお母さんと再婚して以来、2年前までゴットフリート3世はトスカーナ辺境伯だった。その髭公を僕はアルプスの北側、ドイツに追放したのだけど、その後のことまでは知らなかった。いや、存在自体どうでもよかったから、意識からすっぽりと抜けていた。
「まったくジャン=ステラったら、公爵が誰なのかくらい覚えておきなさいよ」
マティルデは呆れたようにぶつぶつ文句を言う。
「密使という形式を取ったのも、そのせいかな?」
僕が尋ねると、マティルデは眉をひそめて考え込んだ。
「それもあるかもしれないけど、やっぱり三国合同で密使を送ってくるという点が引っかかるのよね。これまで敵対してきた国々が手を組むなんて、よほど深刻な事情があるに違いないわ」
マティルデは不安げに言い、ため息混じりに続けた。
「女の勘って当たるのよね……本当に嫌な予感がするわ」
僕も深くため息をついて呟く。
「あーあ、厄介ごとが持ち込まれませんように」
今日の謁見が無事に終わるよう、心から祈る僕なのでした。