赤い悪魔
1067年7月上旬 イタリア フィレンツェ ジャン=ステラ・ディ・サヴォイア(13歳)
昨夜は目が冴えて全然眠れなかった。朝になっても、気持ちは落ち着かないまま。
今日の執務? もちろん上の空だった。書類を読んだって、内容は何ひとつ頭に残らない。
そわそわと落ち着かない気分を抱え、椅子に座っては立ち、また座ったりを繰り返した。
「ねえ、ジャン=ステラ。気持ちはわかるけれど、そろそろ執務に戻ってくれないかしら。仕事が全く進んでないわよ」
マティルデに三回はお小言をもらったけれど、それができたら苦労しないもん。
理由はひとつ。
三日前、港町ピサにエイリークが帰還したという報せが、伝書鳩で届いたから。
二年前、「トマトを見つけるまで帰りません」と言い残して新大陸に旅立ったエイリーク。その彼がついにイタリアに帰ってきたのだ。
伝書鳩に結ばれていた手紙には、こう記されていた。
「トマト発見」――たったそれだけ。
それを聞いたとき、僕は思わず椅子から立ち上がって叫んでいた。
「エイリークが帰ってきた! ほんとうに帰ってきたんだ!」
今日、そのエイリークがここフィレンツェにやってくる。献上品のトマトを持って。
僕もマティルデも、執務室でその到着を待っていた。従者たちも、どこかそわそわしている。側近の貴族たちでさえ、珍しく口数が少ない。
やがて、扉の外に控えていた近侍が、扉を軽く叩き、恭しく告げた。
「バレアス諸島伯、エイリーク様が拝謁を願っております」
「入ってもらって」
上擦りそうになる声を抑えつつ、僕が短く答えると、重厚な扉が静かに左右に開いた。
入ってきたのは、風に焼けた肌と赤茶の髪をもつ、堂々たる男。旅の疲れなんてどこにも見えなかった。それどころか、顔には喜びと誇りがにじんでいて、それを今すぐ僕に伝えたくて仕方ない、そんな気持ちがぜんぶ混ざったような笑みを浮かべていた。
エイリークだ。ノルマンの血を引き、大西洋の横断に二度成功した、当代随一の航海者。
そんな歴史に名を刻むような偉大な人なのに、大きな体を揺らしながら、まるで駆け出してくる勢いで僕の前まで進んできた。
そのままの勢いで、片膝をつく。重みのある音が床に響いた。
「ジャン=ステラ様。お約束の品、トマトを持ち帰ってまいりました」
声は低く落ち着いていたが、ほんのわずかに震えていた。語尾には、隠しきれない高揚がにじんでいる。
ここに来るまで、どれだけの苦労があったかは、想像に難くない。
大西洋を越えて、遠い異郷の地でトマトを探し当て、それをこうして持ち帰ってきたのだ。
「エイリーク、おかえりなさい。無事に戻ってきてくれて……本当に、嬉しいよ」
彼の顔に浮かぶ笑みに胸を打たれて、自然と声が涙まじりになっていた。
「もったいないお言葉です。ですが、私の無事より、まずはこれを」
エイリークが扉の方へ手を振ると、従者がひとつの小樽を運んできた。
中には、乾燥した種がぎっしりと詰まっている。
「現地にて、赤く丸い実をつけていた植物の種です。これこそが、ジャン=ステラ様の求めておられたトマトに相違ありません」
僕は無言で種を一粒、そっと手のひらに取った。
見覚えのある、あの形。
小さくて、平たくて、ほんのり黄みがかった色で、乾いた手触りがした。
間違いない。
これは、トマトの種だ。
その小さな粒を見つめていると、胸の奥がじんわりと熱くなってくる。
十三年前、中世なんていう不便な時代に転生してから、ずっと心のどこかで願い続けていた夢のひとつが、今ここにある。確かな形で、僕の手のひらの上に乗っている。
思わず目元をぐいっとこすった。泣いちゃだめだ、ジャン=ステラ。今日は泣く日じゃない。祝う日なんだから。
「ありがとう、エイリーク。君の働きは未来の歴史に残るよ。……いや、僕がちゃんと、歴史に残してみせる」
僕はそっと手のひらを開き、トマトの種を掲げる。
そして、はっきりとした声で言った。
「今日、七月六日はヨーロッパがトマトを手に入れた日! この日を『トマト記念日』とすることを、ここに宣言します!」
キャッチフレーズを考えてみた。たとえば、こんなの、どうだろう?
ーー 「この赤さ、いいね」と君が笑ったから 七月六日はトマト記念日 ーー
静まり返った室内で、僕の声だけが高らかに響いた。
ふと隣を見ると、マティルデが小さく肩をすくめていた。
呆れているのか、それとも笑いをこらえているのか、いまひとつ判断がつかない。
「……まるで恋の詩みたいね。笑った君が誰なのか、ちょっと気になるけれど?」
ぶほっ。思わずむせそうになる。
「いや、それは……そういう意味じゃなくて、なんというか語呂というか……」
おろおろする僕を見ながら、マティルデは肩をすくめたまま、ふふっと笑った。
「いいわよ、ジャン=ステラ。あなたが楽しそうなら、なんでも」
でも、そんな言葉にもかまっていられない。僕の頭の中は、もう次のことでいっぱいだった。
「やった……! これでピザが作れる! ピザが食べられるよ!」
トマト記念日だ、ピザだ、と僕が一人で盛り上がっている間――
マティルデは黙って献上品目録に目を落とし、じっと読み込んでいた。
その沈黙が少し長く感じられたころ、不意に彼女が顔を上げた。
「ねえ、ジャン=ステラ。……ピザって、何?」
思わず言葉を失う。
え、今その話題? ていうか、これまでも何度も説明してきた。ピザって、僕が前世で大好きだった食べ物。世界中で食べられているイタリアの宝そのものな料理。
「ピザだよ、ピザ! イタリアの魂だよ。ピザのないイタリアなんてイタリアじゃないんだからっ」
僕が胸を張ってそう言うと、マティルデがほんの少しだけ口元をゆるめた。けれど、その笑みはすぐに消える。彼女の目は、すでに机の上に広げられた献上品目録へと向かっていた。
「そのピザって……トマトの実を使って作る料理よね?」
白い指先が、羊皮紙に描かれた果実の絵をなぞる。
そこに描かれているのは、赤くて丸い実。モノクロだけど、僕にとっては見慣れたトマトの形だ。
でも、マティルデには違って見えたようだった。
彼女は絵から目を離さず、慎重な口調で続けた。
「どこかで見たことがあると思ったけれど……このトマトって植物、マンドラゴか、あるいはペラドンナに似てるわ」
「今、なんて言った? マンドラゴと……ペラドンナ?」
聞き返した声が、自分でも驚くほど間の抜けた響きになった。
「ちょ、ちょっと待って。どっちも、伝説の植物とか、そういうのじゃなかったっけ?」
マティルデは、目録の絵から目を離さずに言った。
「……本気で言ってるの? ジャン=ステラ、貴族のあいだでは常識よ。どちらも実在して、しかも毒草としてとても有名よ。特に暗殺を警戒する貴族なら、知らないほうが不思議なくらい」
さらりとした口調だったけれど、その目はじっと僕を見ていた。
責めているというより、どうしてそんな基本を知らないのか、本気で不思議に思っているみたいだった。
マンドラゴにペラドンナ。
ペラドンナはともかく、マンドラゴの名は前世では何度も見聞きしたことがある。
でもそれは、ゲームとか漫画とか、そういうファンタジーの文脈での話だった。
「マンドラゴって……あれだよね。人の形をした根っこがあって、引っこ抜くと『ぎゃー』って叫ぶやつ。その叫び声を聞いた人が死ぬっていう……」
都市伝説みたいな、どこか他人事のような話。
でも今、マティルデの口調は真剣そのもので――あれが“実在して、しかも毒を持つ”って、そんな話だったのか……。
マティルデが、じっと僕を見ながら真顔で言った。
「ピザって、暗殺用の食べ物なのかしら?」
「は……?」
一瞬、頭が真っ白になった。
「そんなバカな……!」
思わず半歩、後ずさる。
視界がぐらりと揺れた。足元がふわつく。
僕の中で、何かが大きくひしゃげた音がした。
「ピザが……暗殺道具扱いされるなんて……そんなの、そんなの、絶対ダメだよ!」
思っていた以上に、声が大きくなっていた。
でも止められなかった。だって、ここだけは、譲れない。
「食べ物っていうのはね、誰かを殺すためにあるんじゃないんだ! みんなで分け合って、笑って、一緒に“美味しいね”って言うためにあるんだよ!」
拳を握りしめた。
その中には、あの乾いた、小さなトマトの種。
僕にとって希望のかけらみたいなその粒が、今はひどく重たく感じられた。
「それを……それを毒になんて、ましてや人を殺すためになんて使うなんて……。そんなの、許せない!」
僕の声だけが、執務室に響いていた。
ぴん、と張りつめた空気が、床の石に染みこんでいくようだった。
マティルデは、何も言わなかった。
ただ、僕を見ていた。
驚いたような、それでいて、少しだけ何かを納得したような――そんな目で。
僕の叫びが執務室に響いたあと、しばしの静寂が落ちた。
その沈黙を破ったのは、エイリークだった。
「実のところ――新大陸の人々は、あの果実を普通に食べております」
低く落ち着いた声だった。
エイリークは静かに一歩前へ出て、周囲を見渡すようにして言葉を続けた。
「私自身も、何度か口にしました。酸味が強く、やや青臭さはありますが……毒性は確認されておりません。現地では常食されています」
「ほんとうに……?」
僕が聞き返すと、エイリークはしっかりと頷いた。
「はい。私も、現地の住民も、交易に来た者たちも。少なくとも、あの実で命を落とした者を私は見ていません」
胸の奥に、少しだけ安堵が広がる。
けれどすぐに、マティルデが冷静な声を差し挟んだ。
「でも、それをイタリアで食べても大丈夫かは、まだわからないわ」
彼女の視線が、机の上の小さな樽に向かう。
「あるのは乾燥した種と、白黒の絵だけ。
実際の色も、香りも、手触りも、味も……何ひとつわかっていない。
誰かが育てて、確かめるしかないのよ。ジャン=ステラ、そう思わなくて?」
その言葉に、僕は小さく息をのんだ。
そうだね。マティルデの言う通り、育てるしかない。育てて、確かめればいい。
僕は、もう一度、手のひらの中の種を見つめた。
白くて、小さくて、軽い――けれど、僕にとっては、とてつもなく重たい意味をもつ。希望を詰め込んだ、小さな魔法の粒だ。
「だったら……僕が育ててみせるよ!」
声に力を込めて、そう宣言した。
種のひとつを、そっと両手で包み込む。
まだ何も始まっていない。けれど、ここからすべてが変わる。
世界の食卓が変わる。その、第一歩だ。
そんな僕を見て、マティルデが苦笑した。
「預言者が育てたら、毒も抜けるかもね」
からかうような口調だったけれど、その声はほんの少しだけ、やさしかった。
「そうね、きっとジャン=ステラのトマトなら大丈夫。……ピザっていうの、ちょっとだけ興味が湧いてきたわ」
その言葉が、なんだか嬉しくて、僕は思わずにやりと笑った。
そして――ふと、窓の向こうを見る。
広がる空の向こうには、まだ見ぬ未来と、まだ知らぬ戦いがある。
実際の戦争はまっぴらだけど、料理の戦いなら、きっとおいしいに違いない。
「これは……きっと、ピザをめぐる仁義なき戦いの始まりなんだ!」
思わず、そんなひと言が口をついた。
「ジャン=ステラったら、また訳のわからないこと言って……」
マティルデの呆れ声が返ってきたけれど、それもまた、いつもの心地よさだ。
僕はゆっくり立ち上がると、部屋の隅に置かれたゆりかごの前へと歩み寄る。
そこには、すやすや眠るベアトリクス。僕とマティルデの、最愛の娘。
そっと、小さな手のひらを開いて、乾いた種をひと粒、握らせる。
「ベアトリクスは……きっと、パパの味方になってくれるよね」
小さな指が、きゅっと僕の指を握り返す。
そのぬくもりを感じながら、僕は胸の奥でそっと笑った。
ベアトリクスが大きくなる頃には、きっとこのイタリアが、世界一の料理大国になっている。
そんな未来を、心から信じて。
絵:マティルデとベアトリクス
【エイリークの献上品目録】
植物
・トマトの種 一樽
・とうもろこしの種 一樽
・かぼちゃの種 一樽
・カカオの種 一樽
・タバコの種 一樽
・パパイヤの種 一樽
・インゲン豆の種 一樽
・とうがらしの種 一樽
宝石
・ブルーアンバー
・ラリマー
・ファイア・オパール
金塊
エイリークの帰欧には現地人の同行者がいました。
【エイリークの同行者】
チチェン・イッツァの使者
正使は王族女性(13歳)と副使の男性(30歳)
【本筋と外れるため、話に盛れなかったカリブ海におけるエイリーク設定】を近況報告に載せています。
興味ある方はご覧くださいませ(❁ᴗ͈ˬᴗ͈)